第05話 新しい家
入院から一ヶ月が過ぎ、年が明けた一月の中旬。
午前中に退院した真之は、スーツ姿の紺と共にタクシーに乗せられた。そうして二〇分ほどかけてたどり着いたのは、白塗りの壁が特徴の品の良さそうなマンションだ。エレベータで四階に上がり、西側から二番目の部屋へと向かう。
「ほれ、今日からここがお主の家じゃよ」
玄関の鍵を開けた紺に付き従い、真之はおずおずと中に入る。下駄箱で脱いだ靴を丁寧に揃えてからフローリングの廊下を進むと、紺が左手にある部屋のドアを開けた。
「ここがお主の部屋じゃ。以前はワシが書斎として使っておったが、住み心地は悪くないと思う」
案内された一室は、手入れの行き届いたものだった。清潔そうなシーツの敷かれたベッドと、その反対側には真新しい勉強机と椅子。隣には木製の本棚やタンスも置かれているが、少なくとも本棚の方は空である。穏やかな冬の日差しが窓から差し込み、部屋全体を優しく包んでいた。
どうやら真之のために、部屋にあった物を入れ替えてくれたようだ。
「どうじゃ? どこか気に入らん点でもあったかや?」
「いいえ。その、立派な部屋だな、って」
呆然としていた真之は紺の声で我に返ると、激しく頭を振る。
これまでに彼が引き取られた家では、物置小屋や蔵などを充てがわれていた。埃臭い小屋の中にはベッドを置くスペースがなく、いつもタオルケットに包まって床で寝ていたものだ。どこからかムカデや蜘蛛が入ってくることも少なくなく、快適な住み心地とは到底言えない。そのような扱いが当然のことと受け止めていたし、生活環境の向上を訴えたこともなかった。
そんなころからは考えられないほどの高待遇である。昼間から夢でも見ているかような気分だった。
とりあえず手荷物を部屋の隅に置いた真之は、廊下へ出て行く紺の後ろに続く。
そうして連れてこられたのは、リビングだ。広々としたスペースには、大きなソファや透明なガラス製のテーブルが置かれている。その正面には、四〇インチ近くありそうな薄型のテレビが設置されており、ゆったりと寛げそうな空間となっていた。テレビの傍らには、家主である紺の趣味なのか、デフォルメされた狐の置物が添えられている。リビングから直接繋がっている隣のキッチンも、よく片付けられていて紺の小まめさが窺えた。
さらに、トイレや風呂などの場所を教えてもらった後、再びリビングに戻ってきた。ソファに腰を下ろした紺が手招きしてきて、真之は畏まりながら彼女の隣に座る。
「同居する上での細かいルールなどについては、まあ追々説明するとしよう。とりあえず、午後からは買い物に行くぞい」
「買い物、ですか?」
「うむ。お主の替えの服や下着類を買わねばな。何しろ、あの災害でお主の荷物は焼け落ちてしもうたからの。あと、地元の小学校への転入手続きは済ませてあるが、色々と取り揃えてほしいと学校側に言われてな」
紺はサラリと言うが、けっこうな金銭的負担となるはずである。ただでさえ、真之には入院費を払ってもらった恩があるのだ。
「でも、お金が」
「かかかっ、気にせんでよい。それくらいの蓄えはある」
紺は真之の肩をそっと抱き寄せ、軽く笑う。彼女の肢体から香る果実酒のような甘い匂いが真之の鼻孔をくすぐり、色香に酔っぱらいそうになった。
自宅で昼食を取った後、真之と紺は再びタクシーに乗った。向かった先は、志堂市の隣にある市の繁華街だ。志堂市の中心街は先日の巨人の災害による爪痕が深く、多くの店が営業再開の目処が立っていないらしい。
繁華街に降り立った二人は、まずランドセルや勉強道具類を買うことになった。平日の大型百貨店はそれほど混雑しておらず、スムーズに店内の三階を見て回る。真之が中学生のようながっしりとした体格をしているため、ランドセル店の店員には最初不思議そうな目を向けられたが。
続いて、二階に下りて冬物の衣服を買いに行く。
「ふむ。これは似合いそうじゃの。どうじゃ、好みのデザインかえ?」
「えっと、その」
紺があれこれと服を持ってくるが、真之は頷くしかない。彼にとって服とは頑丈で、大きめのサイズであれば良かった。同世代に比べて肉体的成長が早いため、今がちょうどよいサイズだとすぐに着ることができなくなるからだ。新しい服を買ってもらえないかと頼むたびに、親戚達に舌打ちされていた。
真之の薄い反応が不満なのか、紺は優美な眉を寄せ、小首を傾げる。
「むう。今時の男の子が好みそうなデザインではなかったかのう」
「い、いいえ、そういうわけじゃなくて」
「ならば、この服が好きか、嫌いか。お主が決めてたもれ」
服は明るい赤色の生地の胸部分に、白い鳥のデザインが施されている。真之は服を凝視しながら、それを着た自分の姿を想像した。必要以上に目立ちそうな気がして、正直言って好みではない。
「これはあまり……」
「ふむふむ、どういうタイプの服が好みなんじゃ?」
言いよどむ真之に対し、紺は興味深そうに目を輝かせる。彼について少しでも知れるのが嬉しいようだ。
「できるだけ、目立たない服がいいです」
「あえて地味系狙いか。そういう服があったかのう」
紺が店内を見渡していると、若い女性店員が営業スマイルを浮かべて近寄ってくる。
「お客様。何かお困りでしょうか」
「うむ。この子に似合う服を探しておってな。あまり派手ではないデザインのものを探しておるんじゃが」
「なるほど。それでしたら、あちらの方にございます」
店員の先導で、真之と紺は店内の壁際にある陳列エリアへと向かう。ハンガーにかけられたグレー色の生地のトレーナーを店員が手に取り、広げて見せてくる。
「これなどはいかがでしょう」
「……これはけっこう好み、です」
遠慮がちに真之が答えると、紺の表情にパッと明るい花が咲いた。
「そうかそうかっ、良かったのう」
傍らの店員も、新たな客を手に入れたことに手応えを感じた様子で、紺に話を振る。
「ありがとうございます。弟様にプレゼントですか?」
「いや、息子じゃ」
「……え?」
そうした穏やかな買い物の時間は、あっという間に過ぎ去り。
二人がマンションへと帰ってきたときには、日がすっかり暮れていた。霧のように染み渡る夜の冷気が、アスファルトの地面を磨き上げる。
真之と紺は買ったばかりの服の入った紙袋をいくつも抱え、タクシーを降りた。
「ふう。寒くはないかえ、真之」
「はい、大丈夫です」
「帰ったら、手洗いとうがいを忘れずにな。ワシも、温かい夕飯を作るとしよう」
そんな会話をしながらエレベータに乗ろうとしたとき。
「こんばんは、建宮さん」
背後から突如、愛嬌のある朗らかな声が背中を叩いてきた。真之が驚いて振り返った先には、一人の少女が立っている。
少女の歳は、真之と同じくらいであろうか。色白の肌に、目鼻立ちの整った、可愛らしい少女である。茶色がかった髪を肩まで伸ばし、垂れた両眼の下にそれぞれ一つずつホクロがついていたのが印象的だった。毛糸のマフラーを首に巻き、長いジャンパーを羽織る姿は、子どもと少女の境を行く年頃にしか出せない魅力がある。
「おお、道内のところの嬢か。こんばんは。学校の帰りかえ?」
どうやら紺の知り合いらしく、彼女は気安い声音を少女に返した。少女の方も、大人への敬意を払いつつ、親しげな態度で正面に立つ。
「ううん、図書館から帰ってきたところなんです。そっちの人は?」
「お主には教えておかんとな。この子はワシの息子じゃ。これからよろしく頼むぞ。ほれ、挨拶をせよ」
穏やかに微笑む紺に軽く背中を押され、真之は少女の前に出た。話を振られ、真之は緊張で声が上擦りそうになる。
「し、清水真之っていいます」
「これ、真之よ。お主はもううちの子じゃぞ」
「あ、そっか。ごめんなさい、建宮真之です。よろしくお願いします」
紺に間違いを優しく訂正されつつ、真之は自己紹介をする。それを見た少女が人懐っこい笑みを浮かべ、会釈した。
「私の名前は道内芹那っていいます。ひょっとして中学生かしら?」
「いや、こう見えてこの子はお主よりも一つ年下でな。来週から同じ小学校に通う予定じゃ」
「そうなの、よろしくね、真之君」
紺が説明すると、少女――芹那が細い右手を差し出してくる。
やや遅れて、握手を求められたのだと真之は気づく。慌てて紙袋をその場に下ろし、手を握った。その柔らかな感触に、女性に免疫のない彼は一瞬ドキリとする。
「私は君んちの隣に住んでるの。分からないことや困ったことがあったら、何でも言ってね」
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