第33話 慰霊碑の前で

 数週間後にはリラ帝国は終戦から一周年の記念日を迎えて、首都ネスフェでは大々的な平和式典が行われた。

街のいたるところで黙祷をする集会が開かれ、人々は花を捧げて喪に服す。


 特にセターレ宮殿の前の広場に新しく建てられた慰霊碑には大勢の人が訪れ、偉い人のスピーチや集められた子供たちによる合唱などの行事もあった。日程もちょうど良かったのか、想定よりも集まった人は多い。


「混むかもしれないとは聞いてたけど、それにしてもすごい人だね」


 宮殿前の広場にやってきたヴィーダは人ごみの合間を縫って歩き、連れてきたミヌーに話しかけた。幾何学模様を描くタイルが広大に敷かれた広場は、祭りの日のように人でごった返して騒がしい。しかし慰霊のための空間なだけあって喪服の人も多く、全体的に厳粛な雰囲気だ。


「ええ。こんなときによく来る気になりましたね。あれはあなたや王女様のいた時代を否定するものなのに」


 人混みが嫌いなミヌーは不機嫌そうな表情でヴィーダに付き従いながら、雑踏の向こうにある巨大な黒曜石でできた慰霊碑を一瞥する。


 新政府が建造した慰霊碑はコの字型の壁のような形をした黒いモニュメントで、死者の名前や平和を願う言葉がびっしりと刻まれていた。人の背丈よりもずっと高く大きく、遠くからもよく見える。

 慰霊に訪れた人々はその石に刻まれた文字から失った者の名を見出したり、手を合わせて祈ったりしていた。人はこうして、現実の戦争を記憶へと変換するのだ。


「確かにここは、私にとって居心地のいい場所じゃないよ。私はこの人たちと同じ気持ちにはなれないからね」


 ヴィーダはミヌーだけに聞こえるくらいの声の大きさで、ささやいた。

 黒地の七部袖のツーピースを着てつば広の帽子を被ったヴィーダは、何も言わなければ地味な弔問者にしか見えないはずである。


「でもそれはそれとしてやっぱり、私はここに来なきゃいけない。これは生き残った私にしかできないことでもあるからね」


 ヴィーダは眼鏡を上げ、青い空の下に高くそびえてつややかに光る黒曜石の壁を見た。そこに名を記されていない人も含めて戦乱による人々の死には、すべてではないにしてもヴィーダにも原因がある。


 そう実感したとき、ヴィーダはかつて受けた裁判の初日に裁判所の入り口に立っていた少女のことを思い出した。辺境を弾圧したヴィーダに深い憎しみを向け、兄と故郷を返せと彼女は言った。


 まぶしい太陽の光に目をまばたかせながら、ヴィーダは石碑の前で手を合わせている人々を見つめる。


 子を失くした親に、父を失った子ども。戦友を悼む男に、罪を悔いる元軍人。

 自分のせいで起きてしまった悲劇を直視することは難しいが、ヴィーダにはもう現実を見ない理由がなかった。


(でも、あの石碑が慰霊する人の中にアフシャーネフはいないのか)


 ヴィーダはこの平和式典で、過ちを認め悔やむ必要のある人間だ。

 しかしその一方で同時に、アフシャーネフの犠牲がこの場から抹消されているという事実がヴィーダの胸を突く。


 ヴィーダにとっては、アフシャーネフこそがもっとも弔いたい相手である。だがこの場が語る歴史では、正義の裁きによって処刑された悪女であるアフシャーネフが祀られる対象になることはない。人はその結末が謀略や計算によるものだと気づきつつも、見て見ぬふりをして被害者として祈り続ける。ヴィーダもまた、忘却を強いられるのだ。


(これが流した血の代償ってことなんだろうけど……)


 ヴィーダは負い目の中で、自分を納得させようとした。

 だがいくら理由をつけてこらえてもアフシャーネフのように穏やかになれるというわけでもなく、納得できない気持ちがくすぶる。アフシャーネフと自分がないがしろにされる世界を、ヴィーダはどうしても許すことはできなかった。


(……やっぱり、無理だ。私はアフシャーネフと同じような、物分りがよい人にはなれない)


 そしてヴィーダは、そのとき罪人として正しい態度をとることを諦めた。


(私は後悔だけじゃない方法を探して、戦い続ける。自分勝手な悪女だと言われても、私の生き方は結局はそこに戻るんだ)


 ヴィーダは自分の気持ちを偽りきれずに再び野心を抱き、数分前とは真逆の結論を下す。


 自分を正当化するためにアフシャーネフの存在を使ってしまった後ろめたさもあるものの、それでも自分らしく生きたい気持ちの方が勝った。


(絶対に許されないことなんて、この世にはないはず。あるのは誰が許すか、許さないかってことだけ。私は大勢の人にとって絶対に許されないことをしたかもしれない。でもそれは大勢の人にとってのことであって、私にとってのことじゃない)


 ヴィーダは正しさが欲しかった。自分以外の人々に合わせて削られたものではない、自分にとっての本当の正しさが欲しかった。

 確かにヴィーダは大きな間違いを犯した。だがその間違いを自分の納得のいく形で正すにはやはり、他人が求める善悪に身を任せてはいられないのだ。


 目を開けて見上げれば、暗さを感じるほどに高く青い空が頭上に広がっていた。


 今このヴィーダの瞳に映る、祈りを捧げている人々の姿。彼らに対して感じるべき負い目を忘れたわけではないと思いたいが、もう一度歩き出してみるのがヴィーダの選択だった。

 結局ヴィーダは過ちを繰り返し後戻りしているとして、この選択を批判する人もいるかもしれない。だが物事は一本の道ではないのだから、何が前進で何が後退なのかは本当は誰にも決められないはずなのだ。


(私に何ができるかはわからない。でもこの方向に、きっと私のやるべきことがあるはず)


 敗戦と兄たちの陰謀によって権力と地位を奪われたヴィーダには、使えるものが少ない。


 誰と何のためにどう戦うのか。まだ答えの出ていないことは多くある。努力はしても結局はアフシャーネフの死に見合った人生は歩めないかもしれない。だがそれでも、ヴィーダは挑戦し続けることを選ぶ。


「あの巨大な石以外にも、何か見えるものがあるんですか?」


 早く帰りたそうな顔をしたミヌーが、遠くを見続けるヴィーダに尋ねる。


「いや、私には何も見えないよ」


 ヴィーダは首を振り答えた。


 石碑は石碑でしかなく、夏の太陽に照らされているだけである。


 しかしヴィーダには、この場所だからこそ誓うことができる決意があった。

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