第六章
第32話 新しい秩序
終戦から一年後にはほとぼりも冷め、ヴィーダは自由に人に会うことができるようになった。ある日女学校時代の同級生サミラに家に招かれたヴィーダは、久々にめかしこんで出掛けた。
「何だかこうやってお菓子を食べていると、何が本当のことなのかわからなくなるよ。わたしがアフシャーネフの秘書官だった昔か、それかこのお菓子を食べている今か、どちらかが幻のような気がして」
藍染のサマードレスを着たヴィーダはサミラの家の立派なテラスに置かれたデッキチェアに座り、冷たく冷やされた桃のコンポートを頬張った。
暑い夏の昼下がりではあるが、生い茂る木々に囲まれたテラスには涼しい風が吹いている。
ラタンでできた机には銀製の盆が置かれ、その上には桃とメロンのコンポートの載ったガラスの器や、赤みがきれいなルバーブのシャーベットドリンクの入ったグラスが並んでヴィーダをもてなした。
さらに別の器にはガルバンゾーやひまわりの種が盛られ、それらをつまみながら酸味のあるルバーブのドリンクを飲めば、より涼しく快適な気分になることができる。
ヴィーダの隣に座るサミラは、コンポートにシロップをふりかけながら答えた。
「こっちもあんたといると、亡霊と過ごしているような気分になるよ。きっとあんたは処刑されるものだと思っていたから」
年相応にすっかり落ち着いた外見になっている友人サミラは、ヴィーダと同じように卒業後は一度教師になった元女学生だ。ヴィーダとは在学中からずっと親交があり、裁判中もよく差し入れを送ってくれていた。
安全圏を堅実に生きることができるサミラは、夢ばかり追いかけていたヴィーダよりもずっと立派な大人だ。
「それであんたはどうするの? 学校の先生に戻るとか?」
「うーん、それはないかな。とりあえず今のところはひまつぶしに、次兄の書いた新兵器についての論文でも読んでみるよ」
不毛な議論を嫌うサミラはあまり国政に興味を示さず、政治の話にもふれずアフシャーネフについて言及することもない。サミラはただ敗北したヴィーダを揶揄するように、わざとらしく世間並みの選択肢を提示する。
ヴィーダはそうした半ば冗談めかしたサミラの調子に合わせて、当面のところの考えを適当に答えた。
学校の先生に戻る可能性をサミラに問われて、久々にヴィーダは自分が教師だったことを思い出す。教師時代のことはあまりにも遠い記憶すぎて、夢か幻どころか自分のことだとは考えられなかった。
するとサミラは常識を知る側の人間として、ヴィーダの答えを勝手に採点する。
「あんたにしては、地味な目標だね。いよいよ家業でも手伝うのかな」
きっとヴィーダがこのままおとなしく生きていくことはないだろうと言いたげに、サミラがグラスに口をつけてつぶやく。
サミラはごく普通に生きている反面何事も他人事で、時々こうしてヴィーダを現実に引き戻しながらも焚きつけるところがあった。
(こういう会話、かれこれ十年以上はしてることになるのか)
サミラとのつきあいの長さを考えると、ヴィーダは自分がいつのまにかひどく年齢を重ねていることを思い出す。少女であった時代は遠い日々となり、かつて学生だったころに思い描いていたほど明るい未来はもう得られない。
だがそれでもヴィーダ自身の思考は子供のころの延長線上にあり、こんなのは嫌だと心の中で叫ぶ自分はまだ幼い。
敗戦とアフシャーネフの死はヴィーダに現実を突きつけた。ヴィーダは自分がうぬぼれて、間違っていたことを知った。だが自分の誤りに気付けばすぐに正しい人間になれるというわけでもなく、ヴィーダは道を見失ったままただ漫然と生きるしかなかった。
(それでもいいよって、きっとアフシャーネフは言ってくれる。でもそれじゃ駄目なんだよ。馬鹿で成長できないままの私じゃ、アフシャーネフを死なせてしまった意味がない)
自分の現状を肯定することができず、ヴィーダはいらいらとデッキチェアにもたれた。
沈黙を取り繕う必要のない関係であるので、サミラはヴィーダが黙っていることは気にせずに塩辛いガルバンゾーを食べながら雑誌を読んでいる。
そうした静けさの中でそよ風を感じ寝転んでいると他人の家であることを忘れて眠れそうな気がするのだが、ヴィーダは心からくつろぐことはできなかった。
◆
そしてヴィーダはサミラの家で適当に過ごした後、ギゼムの運転する車で屋敷に帰った。
夕日に染まるネスフェの街は茜色に美しく、沈む太陽が街の建物の輪郭を濃く浮かび上がらせていた。だがその街並みにも徐々に新しい建物が増え、ヴィーダの見知ったものではなくなっている。
「久々のご友人とのお話は楽しかったですか?」
「うん、普通にね。あと出された豆菓子がおいしかった」
感想を尋ねるギゼムに、ヴィーダは答えた。どうしようもなく変われない自分にうんざりした部分はあるが、浅くもなく深くもない友情に安心することができたのも確かである。
「菓子と言えば、あの弁護士のリオネルって男からはまだ葉書が届いてるのでしょうか」
ふと思い出したように、ギゼムはリオネルについて尋ねた。
ヴィーダは優先順位の低い話として、その問いに答える。
「時々来てるね。一番最近のやつにもまた、この国のパイ菓子が懐かしいから送ってほしいとか何とか、書いてあったよ」
なぜか不思議なことに、リオネルは帰国してからも今も未だにヴィーダに連絡を取ってきていた。リオネルの狙いが本当に菓子だけなのか、それとも他に何か考えがあるのか、ヴィーダにはわからない。
だがリオネルの意図はともかくこのような会話をしているという事実は、裁判からずいぶん月日が経ったことをヴィーダに実感させた。
結局あの軍事裁判は、文明的な正義の裁きに見せかけた勝者の制裁として終わった。しかし生き残った帝国の民衆こそがそれを望んでいたので、共和国だけを責めることはできない。
君主であったアフシャーネフの死こそが、国民が罪を忘れるため手続きだった。自分たちの未来を確保するため、人々は身代わりに死ぬ人間を求め見殺しにしたのだ。
(裁判で加害者は罰されたことになった。だからこれからを生きていく人たちは、みんな被害者だったふりをしなきゃならない。私も同様に、実際はそうじゃなかった連中もね)
そして敗戦から一年たち、リラ帝国という名の国は消えて、共和国風の名前の国が誕生した。共和国は「時代遅れの封建的な独裁国家」から民衆を解放し「民主的で新しい国」を建てたのだ。
こうしてネスフェの街からも傷痍軍人や孤児の姿が減り、新生活を送る市民の姿も着々と増えていく。
しかし新しい国が生まれるといっても、政治や経済を牛耳る権力者が全員入れ替わるわけではない。失脚した者が大勢いる一方で、地位を守った者たちもいる。
特にヴィーダの兄を含むザルトーシュト一族の人間たちは、保身の努力の成果もあり今も変わらず力を持っている。産業だけではなく政治にも深く関わってきたザルトーシュト一族は、ある意味王族よりもこの国の根幹に近いところにいた。
(兄上たちも元気だしこの首都のあたりは一応うまくやってるみたいだけど、辺境ではどの民族が主導権を握るかでもめている場所もあるんだっけ)
ヴィーダは形は変われど繁栄は取り戻しているネスフェの街を眺めながら、今度は遠い辺境のことを考えた。多くの情報は入ってこないが、また新しい戦乱が始まった場所も多いらしい。
共和国が新しく作る仕組みは、一見すると復興を成功させているように見える。だがその影で生まれている別の歪みの存在を、ヴィーダは感じていた。帝国という枠組みあったからこそ隠されていた差異は、帝国を滅ぼしたことでいつか争いを呼ぶ種となる。
(それにアフシャーネフの異母弟を王として担いだリラ帝国の亡命政府をカークランド連合国が支援してるって話もあるし、他にもこれからこじれることになる要素はたくさんあるよね)
留学と称して亡命していたアフシャーネフの異母弟ソルーシュは、今は海の向こうのカークランド連合国にいると聞く。連合国は共和国との対立を深めているので、ソルーシュはリラ帝国王室の直系の血を引く王子として国際政治に利用されていくのだろう。
やがて車が屋敷に着く頃には夕日は沈み、東の空には丸い月が昇っていた。
ギゼムはハンドルを握り、無難な話をふる。
「今日の月は満月でしょうか」
「うん、多分そうだね」
東の空に昇る月を見つめて、ヴィーダはアフシャーネフと最後に会った夜のことを考える。
(月はあの夜と変わらないのに、私の隣にいたアフシャーネフはいない。だけどそれでも、私の人生は続く)
徐々に暗さを増す夜空に浮かぶ白い月。
かつてヴィーダはその光の中で、アフシャーネフと踊った。
アフシャーネフが口ずさんでいた曲の名前はやはりわからないし、ダンスの授業のことも覚えていない。しかしアフシャーネフを救えなかったヴィーダは、この先ずっと月を見るたびに彼女に仕えていたことを思い出すのだろう。
車の座席にもたれて、ヴィーダは息をつく。
アフシャーネフが最後にヴィーダに望んだのは、ただ生きて自分のことを覚えていてほしいということだけだった。ヴィーダが現実をいかにして受け止めていくべきなのか、その道しるべは何もない。
かつてアフシャーネフが晴天よりも好きだと言ったほんのりと明るい月の夜。満月はただ優しく、車中のヴィーダを照らしていた。
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