第31話 歯車は回る

 その後ヴィーダは予定通りにミヌーとともにギゼムとリオネルの待つ車に戻り、屋敷に帰った。共和国の見張りがいる中での面会という形で会うのは避け続けたので、ヴィーダがアフシャーネフに会ったのはその日が最後となった。


 裁判後の共和国の動きは迅速で、アフシャーネフはメフル宮殿を去り死刑囚となるとすぐに処刑された。

 処刑執行は秘密裏に行われ、公表されたのは後日になってのことである。


 政治との関係を断たれたヴィーダは何も知らされず、アフシャーネフの死をただニュースとして居間に置かれたラジオから聞いた。


 ラジオのニュースは淡々と、アフシャーネフ以外の政治の中枢に関わった死刑囚も処刑されたと報じていた。首相、元帥、将帥、外務大臣、そして王女のアフシャーネフの五人の命がその日、銃殺刑によって失われたのだ。


 ◆


(ここは死を待つ場所ではありますが、宮殿にいるよりも罪人らしい扱いだから気が楽といえば楽かもしれないですね)


 死刑囚となったアフシャーネフは、移送された施設の部屋でベッドの縁に座り、白熱灯に照らされた打放しコンクリートの壁を見つめて一人考えた。

 時折看守の足音が聞こえる他は静かであり、考え事は飽きるほどできる。だが窓が小さく外の様子がよく見えないので、時間間隔が狂うのは困った。


 用意された部屋は清潔だが味気のない所であり、衣食住に必要な最小限のものだけが置かれている狭い空間だった。

 与えられる衣服も食事も質素でつつましく、無地の白いシャツワンピースは安っぽい生地で着心地が悪く、朝晩の粥は味が薄くて食べ応えがない。軟禁されてはいても使用人がいた宮殿での生活とは、比べることもできないほどさみしいものだ。


 だがアフシャーネフは宮殿での華美な暮らしがそれほど好きだったわけでもないので、死刑囚として死を待つ無味乾燥な環境をすぐに受け入れた。


(会うべき人には会えましたし、あと私が気にすべきなのは、どう死ぬかってことだけになるのでしょうか)


 アフシャーネフは硬いマットレスの敷かれた簡素なパイプベッドに寝転がり、自分がどのようにして処刑されるのかについて考えた。


 銃殺刑に絞首刑。処刑方法は様々あるが、どれも死ぬことには変わりない。しかし最後の死に方によって、人に与える人生の印象はずいぶんと変わる。そのためアフシャーネフは、できれば残される者が気に病まないよう悲惨ではない死に方にしてほしいと思った。


 同様の理由で、処刑の詳細な記録もなるべく残したくはない。これは単純に他者を気遣っているわけではなく、あまり同情されたくないという動機もある。


(特にヴィーダには必要以上に悩んでほしくありませんから、どんな最後でも私は幸せだと伝えましたが……。でも、難しいですよね)


 アフシャーネフはこうしたときはいつも、ついヴィーダのことばかりを考えてしまう。ヴィーダはアフシャーネフにとって、もっとも大切な親友であり、臣下であり、また片想いの相手でもあった。


 本来アフシャーネフには、もっと他に思いを馳せなければならない人々がいる。


 天子となることを天命によって定められたアフシャーネフには国のことを考える義務があり、戦火や貧困で不幸にしてしまった人々に負い目を感じなければならない。同様に自分と同じように処刑される運命にある臣下に対しても、申し訳なく思うべきである。


 また一方でアフシャーネフは王女として生まれ育ったものの決して孤独だったわけではなく、周囲の人には恵まれていた。打ち解けて話すことのできる女官もいたし、女学校時代の学友ともよく連絡をとっていた。国王だった父との親子関係も、今は遠い異国にいる歳の離れた弟との仲も、共に悪くはなかった。


 だがそれでもなお死を前にして思い出すのは、ヴィーダと過ごした日々のことである。アフシャーネフは国を統べる天子として常に誰に対しても平等にあろうとしたが、なぜかどうしてもヴィーダのことは特別だった。


(私はヴィーダのことが好きでした。だからそう願うことが王女として許されないことだとしても、ヴィーダにずっと側にいてほしかった)


 アフシャーネフは王女としての責務を果たせず一人の人間を愛してしまったことに、後ろめたさを感じていた。しかし国家元首としてはみじめな末路を迎える自分がそう不幸ではないのは、ヴィーダがいたおかげだとも思う。


 そうしてほんのわずかな光しか得られない小さな窓しかない部屋のベッドの上で、アフシャーネフは黒髪をかき上げて遠い昔に思いを馳せる。


 ◆


 本人はまったく意識していなかったようだが、アフシャーネフは学生時代からずっとヴィーダのことを見ていた。アフシャーネフは彼女の金髪を目で追い、その眼鏡の下の緑色の瞳に映るものを知ろうとしていた。


 ヴィーダは女学校の中で一番の自信家だったが、それがうぬぼれとは言えないほどには優秀だった。彼女の性格を傲慢であると評価する人も多かっただろう。

 だがアフシャーネフには、常に自分を貫くことができるヴィーダがまぶしかった。


 ヴィーダは話したい人としか話さず、興味がある話以外は聞かず、王女であるアフシャーネフをその他大勢の一部として認識しているくらいには様々なしがらみを気にせず生きていた。


 誰が相手であったとしても臆せずに意見する強い意思も、自分が求めるものだけを選び取れる素直さも、王女として常に国民のことを考えて生きるように育てられたアフシャーネフにはないものだった。


 特にアフシャーネフの記憶に残っているのが、母国語の授業でヴィーダが将来の夢について書いた作文を読み上げていたときのことである。


 アフシャーネフにとっては政治に関わることは義務であり、窮屈な使命だった。他の人間の運命を左右する力に触れるのが怖くて、いつか判断を求められるようになる日を恐れていた。


 だがヴィーダの考え方はまったく正反対で、自分の能力を政治に生かす未来を理想の将来として実に生き生きと語っていた。


 夢を追うことに迷いのない人間は他にもいた。だがアフシャーネフが逃げたくて仕方がないものの方へと力強く歩いていくのは、ヴィーダだけであった。


 その作文を読み上げるヴィーダの姿はアフシャーネフには絶対に実現不可能な、ある種の理想であった。アフシャーネフはどこか自分を導いてくれる気がして、ヴィーダの側にいたいと思った。


 それ以来ずっとアフシャーネフは、ヴィーダのことを想い続けている。


 当時のヴィーダはアフシャーネフから遠い所にいて、なかなか学校では話しかけることはできない存在だったので、そのころの思い出はすべて一方的なものばかりである。だが奴隷が英雄の姿を目にしただけで救われるように、アフシャーネフはヴィーダの存在に勇気づけられてきた。


 二人で話した少ない例が、最終学年での社交ダンスの授業である。


 その授業は木造の西方風の講堂で行われ、女学生たちは近い将来に異性と舞踏会で社交ダンスを踊ることを想定して練習に励んだ。立派な板張りの床を持つ講堂は天井が高く広々としていて、蓄音機から流れる音楽は軽やかに綺麗に響き渡った。


 アフシャーネフはたまたまヴィーダとダンスのペアになり、二人でその授業の間だけ踊った。アフシャーネフはヴィーダと踊れることに心の中で舞い上がったが、ヴィーダの方は何も気づいてはいなかった。


 男性役を務めるアフシャーネフのリードで、ヴィーダがステップを踏む。手を握りあうことで鼓動が忙しくなるアフシャーネフをよそに、ヴィーダは感心した様子で言った。


「王女様は楽器だけじゃなくて、ダンスも上手だね。私はダンスが下手だけど、王女様とやっていると少し上手になれた気がする」


 眼鏡の奥の緑色の瞳がアフシャーネフを見つめ、小さな口がアフシャーネフのことを語る。

 ヴィーダがアフシャーネフのことを話してくれるのが嬉しくて、アフシャーネフはそれだけで胸いっぱいに満たされてしまう。


「褒めてくれて、ありがとうございます」


 精一杯のお礼を、アフシャーネフは言った。欲を言えば好きな音楽について話したり、ヴィーダが目指す夢について聞いたりしてみたかった。だがアフシャーネフに対して深い関心は持たないヴィーダを前にして、それ以上の会話はできなかった。


 ◆


 そうやってヴィーダを遠く見ていた学生時代にも、他に仲のよい学友はいた。

 王家との関係も悪くない家柄の、性格の良い真面目な同級生たちである。だからアフシャーネフが国王代理として秘書官を選ぶ際には、ヴィーダ以外にも候補がいた。


 ではなぜヴィーダを選んだのか。


 それはアフシャーネフの弱さゆえであった。


 国事について決断できないアフシャーネフは、自分を支えてくれる存在としてヴィーダに惹かれ、自分の感情を優先し、自らが欲する存在である彼女を秘書官に選んだ。

 それは野心を持つヴィーダ自身の望みにも合致することであり、悪くはない選択であるはずだった。


 ヴィーダは最後の夜に、規則も何もかもを無視してアフシャーネフに会いに宮殿にやって来た。そしてただひたすらに自分のために生きたその結果として、アフシャーネフの服を掴んで泣きじゃくってくれた。


 あんなにも激しく泣かせるほどヴィーダを悲しませたことは、心苦しく申し訳ないと思う。しかし同時にアフシャーネフは今までずっとヴィーダを求める側にいたので、ヴィーダの方から泣いて求めてもらえたのは嬉しくもあった。

 アフシャーネフは迷わず夢を追い求めるヴィーダの強さに惹かれていたが、幼い子供のように素直で純粋な心を持っているところも好きだった。本当はもっと泣いてくれても良かった。だがもうあまり時間は残されていなかった。


 何よりも大切にしたかった、ヴィーダと過ごした残りわずかな時間。アフシャーネフはヴィーダのどんな表情も忘れずにいたくて、ずっとヴィーダを見つめていた。怒っていても悲しんでいてもヴィーダは可愛らしく、どこまでも愛しい。


 アフシャーネフは最後まで涙が流れない性分なので、しゃくりあげているヴィーダが自分の分まで泣いてくれたような気がしていた。ヴィーダの涙は、アフシャーネフに激しくも透明で綺麗な感情を捧げてくれる。自分の弱さをさらけだして泣くことができるだけの強さを、アフシャーネフは持ち合わせてはいなかった。


 しかしヴィーダの正直さをまぶしく思い出すと同時に、アフシャーネフは自分のごまかしをほんの少しだけ後悔した。


(平凡に死にたくはないと、ヴィーダは私に本音を聞かせてくれました。それなのに私は、本当に大事なことを偽ったままにしてしまいましたね)


 ヴィーダに話した想い以上の欠落が、アフシャーネフにはあった。

 半ば明かしながらも結局は伝えきれなかった言葉たちを反芻して、アフシャーネフは小さく微笑む。


 ヴィーダには最後の最後で君主らしい物言いをしてしまったが、アフシャーネフの死は崇高なものではなく結局は逃げである。


 王の娘に生まれたからといって、アフシャーネフは支配者に向いているわけではなかった。臆病なアフシャーネフはいつでも、何かに支配されることを望んでいた。実際は臣下であるヴィーダの方が、ずっと支配者らしかった。


 アフシャーネフには、批判されたとしても最後まで生き延びる道を選び取る勇気はなかった。君主としての人生に愛着はないが、他者を巻き込み、自分で自分の人生を生きるのも怖かった。


 だからアフシャーネフは、大勢の人びとの望みに従って死ぬことにした。そこには責任も意思もなく、ゆえに贖罪もない。


 アフシャーネフが心から安らぐことができたのは、間違いなく死刑判決を受けて死ぬことが決まってからのことである。

 処刑されて死ぬと天命で決まっている思ってしまえば、アフシャーネフは決断に迷ったり、結果の心配をしたりしなくても済む。


 アフシャーネフは、逆に無責任な人間なのだ。


 こうして君主でありながらも支配されることを望んでいたアフシャーネフは、誰にも逆らわず、歯車によって導かれるように死を受け入れた。


 ヴィーダだけにはこの格好の悪い真実を知ってほしかった気持ちもあるし、同時に絶対に知ってほしくなかった気持ちもある。そして結局、全てを伝えることは最後までできなかった。


 もっと二人に時間が残されていたのなら、アフシャーネフもいつか自分の弱さをすべて明かすことができたのかもしれない。

 ヴィーダがいつも素直でいたように、アフシャーネフも嘘のない言葉を言いたかったと思う。卑怯な自分ごとヴィーダに抱きしめてもらって、それでも生きていてほしいと肯定してほしかった。


 だが今はもう、何もかもが遅い。後は天命によって死ぬだけのアフシャーネフは、ヴィーダが生きて自分のことを大切な人として覚えていてくれることを考える。


 アフシャーネフが王女という地位を重荷に感じていた一方で、ヴィーダはただ生まれて死ぬだけではない何かになりたがっていた。アフシャーネフは国家元首としては失敗してしまったが、きっとヴィーダが代わりに成し遂げてくれることがあるはずだ。


(私はここで何もかもから逃れて、ヴィーダが本来私がなるべきだった支配者になる。そういう未来を信じていますから、私はこれで良かったんだと思います)


 ヴィーダは自分よりも立派に世界を動かすだろうと、アフシャーネフは思う。


 死ぬ人間は気楽なものだと、ヴィーダはアフシャーネフを責めるに違いない。そうした批判の通り、これがアフシャーネフにとって一番楽な気持ちだった。


 アフシャーネフは目を閉じて、まぶたの裏にあの日ベッドの上で自分の手を握りしめてくれていたヴィーダの姿を思い描いた。


 普段は強気なヴィーダが見せた脆い素顔。ほどけて広がる金色の髪に、たどたどしい笑顔。震えるまつげと、涙をこらえた緑色の瞳。そしてその薄く色づいたくちびるに、アフシャーネフは最初で最後の甘くて長い口づけをした。

 両者の気持ちには決定的な隔たりがあったが、それでもヴィーダはアフシャーネフを受け入れてくれた。


 ヴィーダを抱きしめその温もりに身を寄せ合ったそのとき、アフシャーネフが狂おしいほど許された気持ちになったのは偽りのない真実である。


 他人がどう語るかは知らないが、アフシャーネフは多少の後悔があっても自分の人生に納得していた。本当のところは自己満足なのだとしても、どうせ死ぬ必要があるならせめてこれくらいの開き直りは許されたいと思う。


 目を閉じたままベッドの上に寝転んで小さく息をつき、アフシャーネフは祈るように自分が死んだ後にヴィーダが生きていく日々のことについて考えた。


 アフシャーネフがヴィーダを愛し、そして満たされていること。それはこの不確かな世界で、はっきりとわかっている数少ないことの一つだった。

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