第30話 最後のダンス
扉を開け、一歩足を踏み入れる。
中の部屋は窓にカーテンがかかっておらず、全体的に月明かりに照らされて青かった。
裸眼のヴィーダには、天蓋付のベッドも引き出しもぼんやりとしか見えない。
しかしアフシャーネフは中央のソファに座り、テーブルに置かれた小さなオイルランプの光で読書をしていたのでどこにいるのかすぐにわかった。
「アフシャーネフ……」
久々に会った主君でもある親友の姿に、ヴィーダは思わず感傷的に名前を呼んだ。
ずっと側で仕えていたときには当たり前に感じていたが、こうして離れて再会すると存在の重みが切実にわかる。
一方アフシャーネフはヴィーダの来訪を予想してうえに鍵の開く音に気付いていたようで、落ち着いた様子で本を閉じて顔を上げた。
「こんばんは、ヴィーダ。会いに来てくれてありがとうございます。でも、普通に面会もできたと思いますよ」
アフシャーネフはヴィーダが正式な手順を踏まず、夜に突然やってきたことをからかう。
絨毯をゆっくりと踏みしめて歩き、ヴィーダはそのはっきりとしない理由を話した。
「だけどそれは、何となく嫌だったから」
「何となく、なんですね。わからなくもないですけど」
その答えが面白かったのか、アフシャーネフは本をテーブルに置いてくすくすと笑う。
「まあ、とりあえず座ったどうですか?」
ヴィーダが少々むっとして立っていると、アフシャーネフはソファの端に移動して場所を空けた。
「じゃあ、そうさせてもらうよ」
暗い中テーブルに足をぶつけないように注意して、ヴィーダはソファに腰を下ろした。
眼鏡のないヴィーダはすぐ隣に座ってやっと、腰までのばした黒髪を下ろし裾の長い前あわせの夜着を着てくつろいでいるアフシャーネフの姿をよく見ることができた。
そのままでも十分に長いまつげに、紅の塗られていないくちびる。化粧をしていないアフシャーネフはめずらしいが、素顔はより透き通るように幽玄な美しさがある。さらに淡い水色の薄手の夜着につつまれた四肢は細く女性らしく、見る者に繊細で儚げな印象を与えた。
ヴィーダがアフシャーネフをじっと見ていると、アフシャーネフもまたヴィーダを見つめてきた。眼鏡をしていない状態で人と向かい合うのは何か落ち着かず、ヴィーダは思わず目をそらす。
「眼鏡がないと、やっぱり変だよね」
「いいえ。いつも同じヴィーダですよ」
「なら、いいけど……」
言葉とは裏腹に、なぜかアフシャーネフは綺麗なものを愛でるような視線をヴィーダに注ぐ。
それから、まず口を開いたのはアフシャーネフの方だった。
「でもよかったです。死ぬ前にこうやってあなたにちゃんと会えて」
アフシャーネフの口から死ぬという単語を聞いて、ヴィーダは目が潤んで声を出せないような気持ちになった。一緒に自分が死ねないことばかり考えていたので、ヴィーダはこれまでアフシャーネフが死んでいなくなるのだという事実と向き合ってこなかった。
改めて本当にその現実について考えると、どうしようもないほど心が弱くなって怖くなる。オミードの前では怯まないよう振る舞えたヴィーダだが、死を受け入れてしまったアフシャーネフの前では強気は簡単に崩れた。
黙っているとそのまま泣いてしまいそうなので、ヴィーダはまずは適当なことを話しかけた。
「私が不起訴になったのは、兄上たちが共和国とそうなるように取引したからみたい。新しい兵器の情報を渡す代わりに、戦後の一族の地位を保証してもらったって」
「はい。詳しくは知りませんが、少しは聞きました」
ヴィーダが事情を軽く説明すると、アフシャーネフは静かにうなずいた。
そのあまりにも穏やかな反応にヴィーダは逆に心を乱され、思わず自分を抑えきれなくなってアフシャーネフの服を掴んでうなだれた。
冷えた夜の空気の中で、服の布越しにアフシャーネフの身体の熱を感じる。決して泣きたくはないのに、涙はぽろぽろとこぼれて頬をつたって落ちた。
急に泣き出したヴィーダにアフシャーネフは一瞬身じろぎしたが、何も言わずに抱きとめてくれる。
最初から何もかも諦めていたがゆえのそのアフシャーネフの思い遣るふりに、ヴィーダは涙を止められないまま胸を締め付ける気持ちを吐露してしまう。
「私、こんな終わり方は嫌だ。生き残ったって、どうでもいい人生が待っているだけなのに」
沈黙の中、ヴィーダはたどたどしく話し出す。
国のためだとか何とか理由をつけてはいたが、結局はヴィーダは普通の人生というものが嫌だった。ただ生きて死ぬだけではいたくなくて、ヴィーダは権力を握ろうとした。
結婚して良き妻になって良き母になって老いて、という平凡な未来はヴィーダにはぞっとするくらいつまらないものに見える。
そうなることが大人になるということなら、子供っぽいと馬鹿にされていてもいいから好きなように生きたかった。その代償が悪女と呼ばれ死ぬことなら、それでも良かった。
だがそう願ったことそれ自体が罪なのか、ヴィーダは死ぬことも許されずにすべてを奪われつつあった。ヴィーダに残されたのは目的のない日常と、大勢の人の命を奪う罪を犯しながらもアフシャーネフを犠牲にして生き残ったという負い目だけである。
そして今まさにヴィーダを抱きしめているアフシャーネフも、ヴィーダの願いが叶うことを許さず追い打ちをかけた。
「あなたがあなたである限り、きっとどうでもいい人生にはなりません。私はあなたに生きて幸せになってほしいですよ」
アフシャーネフは震えて泣くヴィーダの背中を赤子をあやすように撫でて、ささやく。
だがヴィーダは聞き分けのよい子供ではないので、そのアフシャーネフの手の温もりに安心することはない。
「私の幸せを勝手に決めないで。犠牲になる側はいいよ。死んじゃうんだからね」
ヴィーダは顔を上げて、アフシャーネフに反論した。決してアフシャーネフを傷つけたいわけではないが、なぜか言葉は辛辣になる。
「私はあなたのために死んでもいいと思っていたけど、そうしようとは思わなかった。だってあなたはそれを望まないから。だけどアフシャーネフ、あなたは私を置いて死んでいく」
感情的になって泣いて怒るヴィーダに対して、アフシャーネフは困った顔をして黙っていた。
アフシャーネフはおそらく生涯で一度も、ヴィーダのように感情を露わにしたことがないだろう。優しいようでいて情が欠けたアフシャーネフには、ヴィーダの想いは決して理解はできないのだ。
そして気持ちが収まらないヴィーダはつい喚き責め立ててしまう。
「私だって一緒に死にたかった。何であなたは死んで清算できるのに、どうして私だけ許してもらえないの?」
ヴィーダはそう言ってさらに強くアフシャーネフの服を握り締め、再び顔を伏せて泣いた。アフシャーネフに死んでほしくない気持ちと置いていかれる悔しさが絡み合って、利己的な本音だけが口をついて出る。
しゃくりあげて泣くヴィーダのそっと肩を抱いて、アフシャーネフはつらそうな声でつぶやいた。
「私のために泣いてくれるのに、すみません。きっと、私が強ければこうはなりませんでした」
そのアフシャーネフの謝罪もまた泣き出しそうに震えていて、ヴィーダはそれはそれで受け入れられない。
(平気で自分は死ぬって言えるくせに、なんでこういうときばっかり悲しいふりをしてくるの)
そう思いながら、ヴィーダはアフシャーネフに謝らせないために言い返す。
「違う。アフシャーネフのせいじゃない。背負う罪の重さを決めたのは、私自身なのに」
ヴィーダの罪はヴィーダ自身の責任であって、アフシャーネフには何も原因のないことだと思う。ただアフシャーネフを救えなかったこと、共犯者でいられなかったことが耐えられない。
だがアフシャーネフは最初から最後まで、ヴィーダのその負い目を汲み取ってはくれなかった。
「そういうあなたに頼ってしまったからこそ私は、最後くらいは死ななくてはならないんだと思います」
うつむくヴィーダを抱き寄せて、アフシャーネフは自分が死ぬべき理由を語る。
要するに、アフシャーネフから欠け落ちたものを補えるのがヴィーダだったのだろう。
今もこうしてアフシャーネフが足りない感情を、ヴィーダは持て余す。お互い違うからこそ一緒にいた二人だから、結末も死ぬ方と生きる方という形でしか分かち合えない。
「どうしたって、あなたは殺されるんだね」
ヴィーダは服を強く掴んだまま、アフシャーネフの顔を見上げて言った。
二人が見つめ合えば、ヴィーダはアフシャーネフの半身であり、アフシャーネフはヴィーダの半身だった。
アフシャーネフは何も言わずに、もう一度ヴィーダの身体を強く抱きしめて答えた。
最初から何もかも違っていたのだという現実が、ヴィーダの胸を深く衝く。
反論することができないまま、ヴィーダは黙ってただアフシャーネフの腕に抱かれていた。
部屋に響くのは、時折しゃくりあげるヴィーダの泣く声だけだった。
ヴィーダはみっともない自分の泣き声を止めたくて目を閉じ手立てを考えたが、何もできることは思いつかない。
するとアフシャーネフが、何かの旋律を口ずさみ出した。その旋律はゆったりと静かな外国の曲で、子守唄のようにヴィーダの耳に響いた。どこか聞き覚えのあるような気もするが、どこで聞いたのかはわからない。
「その曲は……?」
ソファで抱きしめられているうえに歌を歌われているという状況が段々恥ずかしくなってきて、ヴィーダはアフシャーネフから離れて目を開けた。
アフシャーネフはヴィーダの前で、窓を背にして座っている。
眼鏡のないヴィーダには、窓の外で輝く白い月はぼんやりとしか見えない。だがアフシャーネフの端正な素顔は、すぐ近くにあるのでよく見えた。
アフシャーネフは微笑み、口ずさんだ曲について説明した。
「懐かしくないですか。昔、学校の社交ダンスの授業で一緒に踊りましたよね」
どうやらそれはかつて女学校で習った曲らしいが、残念なことにヴィーダはまったく思い出せなかった。だがアフシャーネフにとってはその授業はよい思い出のようなので、何も覚えていないことについては黙っておく。
アフシャーネフはヴィーダの目に残った涙をそっと手でぬぐうと、ヴィーダの手を握って立ち上がった。
つられてヴィーダも立つと、アフシャーネフはヴィーダに向かい合って尋ねた。
「こんな踊りだったのですが、覚えてますか?」
そしてアフシャーネフは片方の手でお互いの手を握り、もう片方の手でヴィーダの肩を支えた。
急にひどく昔に習った外国の舞踏を思い出すことを求められて、ヴィーダは困惑する。ヴィーダはダンスが苦手なので、大人になってからも踊る機会は避けてきた。
(いや、覚えてないよ。ええっと、社交ダンスってこんな感じだったっけ?)
ヴィーダは慌てて、直感で同じように自分の手もアフシャーネフの右腕に添える。
そうすると、アフシャーネフがリードしてダンスが始まった。
悠々と軽やかにアフシャーネフがステップを踏み、ヴィーダはそれにあわせて適当に動いた。ステップにターン、そしてスピン。ヴィーダは何もかもがうろ覚えだったが、アフシャーネフが上手なのでそれらしく仕上がる。
(これってアフシャーネフが男性役だよね? なんでこんなにできるんだろう)
ヴィーダはアフシャーネフの器用さに感心しながら、身体を預けた。ゆったりとアフシャーネフに導かれて動くのは気持ちがよく、二人で羽になって空を舞っているような心地になった。
アフシャーネフの歌声は、かつて学生時代に聞いた鍵盤の演奏と同じように優しく美しく流れる。それは楽器の音のように整っていて、同時に人の声らしい甘やかな響きを持っていた。
部屋の家具の合間をぬって二人っきりで暗闇に踊れば、ふわりと服の裾が広がりひらめく。見ているのは、窓の外の青白い月だけだ。
そして最後にアフシャーネフはいたずらっぽく微笑み、ヴィーダの肩から手を離して握った手を上げてくるりと回す。
「わっ」
急に高度な動きを強いられ、ヴィーダはバランスを崩した。アフシャーネフの手の支えを失い、本当に宙に浮かんだような感覚になる。
そこでアフシャーネフがヴィーダを引き寄せて、二人はベッドに倒れ込む。ヴィーダとアフシャーネフは、ベッドの上で向かい合って寝転んだ。
白いシーツに包まれたベッドは広くて柔らかく、勢いよく飛び込んでも余裕がある。
二人は手を繋いだまま対になって、色の違う瞳にお互いを映しあった。
「こういうこと、一回やってみたかったんです」
ベッドに横たわったまま、アフシャーネフがヴィーダを幸せそうに見つめる。
「それなら、よかった」
ヴィーダもつられて思わず微笑む。アフシャーネフの笑顔を見ていると、だんだんとすべてがどうでもよくなってくるような気もする。
ベッドに倒れこんだ拍子に、ヴィーダの髪はほどけていた。
ヴィーダの金髪とアフシャーネフの黒髪が、ベッドの上で広がり溶け合うように重なる。ヴィーダはアフシャーネフとの間にあった境界が、消えてなくなっていくような気がした。
アフシャーネフはヴィーダの頬を握り合っていない方の手で包み、優しくささやいた。
「あなたが私を覚えていてくれるなら、私はもうどんな死に方をしたって幸せですよ」
美しくも残酷で、身勝手なアフシャーネフの自己犠牲。それはつい先ほどなら絶対に許せないものだったが、今はもうヴィーダが負けるしかなかった。
(結局私は何者にもなれなかったけど、アフシャーネフは生まれたときから王女なんだ。だから私は逆らえず、従うしかないのかな)
アフシャーネフの両手はただ静かに力強くそこにあるのに、弱いヴィーダの手は震えている。
その二人の差を隠すように、ヴィーダは繋いでいる手に力をこめた。
そして頬にふれているアフシャーネフの手に自分の手を重ねて押し付けて、ヴィーダはむりやり仕方がなく笑う。
「いいよ。嫌だけど、私はアフシャーネフのために生きてあげる。それがあなたの幸せだって言うのなら、私は我慢して死んだあなたのことをずっと想ってる。これで文句はないでしょ?」
時折うわずるヴィーダの声が、また泣き出してしまいそうなのをこらえて危うげに響く。
わざと投げやりな言葉を使ったが、それはどうしようもなくつらいのをごまかすためでもあった。
今この手にふれている温もりが失われることを考えると、息が止まりそうなくらいに苦しくなる。表面上は受け入れたふりをしても、やはりヴィーダはアフシャーネフが死ぬことを耐えられる気がしなかった。
そうしたヴィーダの気持ちを多少はわかっているのかいないのか、アフシャーネフは少しだけ申し訳なさそうな表情になった。
「はい、ありがとうございます」
アフシャーネフは小さくお礼を言うと、ヴィーダの背中に手を回し引き寄せた。
妙な雰囲気の中で胸がくっつくほどに接近し、ヴィーダはさすがにびくりと震えて身構えた。自分とは違う体温に包まれ、思わず一瞬目をつむる。
だが、その細い腕から逃げようとは思わなかった。
困惑しつつも目を見開くと、アフシャーネフの深紫の瞳は遠く見知らぬ熱を秘めながらも穏やかにヴィーダを映していた。吐息も瞬きもすべて感じてわかるほどに、アフシャーネフの顔はごく間近にある。
そしてアフシャーネフは目を閉じ、ヴィーダの無防備なくちびるに口づけをした。その柔らかくあたたかな感触に、ヴィーダは頭の奥がぱちぱちとはじけたような心地になる。
(もう何でも構わないけど、これは何のキスなんだろう……?)
ヴィーダはアフシャーネフと恋愛関係になった覚えはまったくなかったので、接吻の意図を理解するのは難しかった。だが口づけられたこと自体は、不思議と違和感なく受け入れることができる。
目を閉じ息をするのも忘れて、ヴィーダはアフシャーネフの華奢な身体を抱きしめ返した。薄い夜着の布地の下で熱っぽく息づく、か細い肩に柔らかな胸。アフシャーネフの髪も腰も背中も、すべてがヴィーダの腕の中にあった。
同様にヴィーダの身体もまた、アフシャーネフのものになる。ヴィーダはただアフシャーネフの静かな激情に流され、湧き上がる切なさに身を任せた。
本来は別のものである二つの鼓動が重なり合い、静まりかえっているのに耳が騒がしい。一瞬がとても重く大きく感じられて、二人は時に限りがあること忘れさせるほどに一つになる。
このまま自分がアフシャーネフに入れ替わってしまって、代わりに死ぬことができるならどんなにいいかとヴィーダは思う。
ヴィーダは臣下として、アフシャーネフを守るつもりでいた。
しかし主君であるアフシャーネフが本当に覚悟を決めればヴィーダは小さく、弱い存在として逆に守られてしまう。ヴィーダはそんな無力な自分がどうしようもなく許せなかったが、最後はアフシャーネフの意思を尊重するしかなかった。
オミードに見逃してもらったおかげとは言え、部外者となったヴィーダが正式な手続きを踏まずにここまで来ることができたということは、おそらくこのままアフシャーネフを外に連れて逃げることは不可能ではないはずである。本当のところは、ヴィーダはそうしてしまいたかった。
だがアフシャーネフは、決してそんな未来を受け入れはしない。
心のどこかではくだらないと気づきながらも、アフシャーネフは王女として死を選ぶのだ。
何が間違っていて何が正しいのか。誰が犠牲者で誰が加害者なのか。天の意思はどこにあってどこにないのか。そんな問いにはもう何も意味はない。
大切なのはただ、ここにいるのは想いを分け合いながらも別の結末を迎える二人の人間であるということだけだった。
そうした時を止めたくなるような時間の中で二人は目を閉じ、お互いの存在を心に深く刻む。
ヴィーダとアフシャーネフは別れが近いことを知りながらも、ベッドの上で二人っきりで身を寄せ合っていた。
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