第五章

第29話 辿り着く場所

 リオネルが指定した日時の夜、ヴィーダは見張りの目を盗んで屋敷を抜け出し、ギゼムの運転する車に乗って数ヶ月前まで自分も囚われていたメフル宮殿へと向かった。

 薄暗い車内にはギゼムの他にミヌーやリオネルもいるので心細さはないが、スパイの真似事のようなことは慣れていないので不安はある。


「ねえ、本当にこのままでいいと思う? 顔とか、わりとそのままなんだけど」


 ミヌーから借りた使用人用のエプロンドレスを着たヴィーダは、後部座席でそわそわと後ろで簡単にまとめた髪をいじった。服や髪の他は眼鏡を外した以外に変化はなく、自分がヴィーダ・ザルトーシュトであるとばれてしまうのではないかと疑ってしまう。


 しかし隣に座るミヌーはヴィーダの姿を一瞥もすることなく断言する。


「あなたが眼鏡をとればそれが変装みたいなものですから、間違いなく大丈夫です」

「俺も、そう思いますよ」


 ミヌーに続き、助手席のリオネルも同意する。

 自信たっぷりにミヌーとリオネルはばれないことを保証するが、ヴィーダは納得できずに反論を試みる。


「でも、絶対ってことはないと思うし……」


 ヴィーダは眼鏡を取ると雰囲気が変わると、様々な人が言う。だがヴィーダとしてはどちらも自分の顔なので、それが変装だと言われてもぴんとはこない。


 ヴィーダが疑念を言い終える前に、運転席のギゼムが到着を告げる。


「もうそろそろ宮殿に着きます」


 窓の外を見ると、メフル宮殿の青いドーム状の屋根が夜の闇の中で月に照らされていた。

 この古い宮殿はアフシャーネフが別の場所に移された後は占領軍と新政府が使用する予定であり、もうすでに使っている人もいるのかいくつかの部屋には明かりがついている。


「それじゃ、あとは打ち合わせどおりに」


 門に近づく前に、リオネルが軽く声をかける。その軽薄さは緊張を解くためのものではなく、彼の性格そのままだった。


 ◆


 メフル宮殿を取り囲む高く重々しい石造りの城壁には、いくつか門がある。

 その多くは大きな木製の扉や鉄の柵でできた落とし扉で閉鎖されており、使用されているのはごく一部である。


 そのうちの一つの門の前で、ギゼムは車を一時停止させた。門には、共和国の兵士が何人か警備にあたっている。


 リオネルが開け閉め用のレバーを回して窓ガラスを開けると、兵士の一人が覗き込んできた。


「入館証は?」

「一時的な許可書ならここに」


 入館証の提示を求める兵士に、リオネルは一枚の紙を渡した。


 その紙を受け取って、兵士は書かれている名前を読み上げた。


「リオネル・カストネル……少し前にここにいたヴィーダ・ザルトーシュトの弁護人だな。何しにここに?」


 兵士がリオネルに訪問理由を尋ねる。兵士はヴィーダがこの宮殿にいたことを覚えていたので、リオネルが来たことをそこまで疑問には思っていないようだ。

 リオネルはあらかじめ話し合っていた通りに、兵士に偽りの事情を説明する。


「彼女の侍女が忘れ物をしたらしいから、探しに来たんだ。後ろの二人がその侍女だよ」

「こんな時間に忘れ物探しか。二人も必要なのか?」


 兵士はさらに車に近づいて、後部座席のヴィーダとミヌーをじろじろと見る。ヴィーダはなるべく動揺を隠して座っていたが、落ち着かなかった。

 だがリオネルは顔色をまったく変えず、当然のように嘘の説明を加えた。


「人数がいた方が早く終わるからね。問題はあるかな?」


 危機でも何でもリオネルの態度は変わらず、逆に元々の軽さが際立つ。

 兵士はリオネルの説明に完全に納得したわけではなさそうだが、細かいことは気にせずにあっさりと車から離れた。


「まあいいだろう。入館を許可する。立ち入り禁止場所には近づかないように……」


 しかしそこで、新たなる障害が現れる。


「その車はなんだ? うちの家の運転手が運転しているようだが」

「あ、オミード殿。妹君の使用人が、忘れ物を取りに来たそうです」


 男の声が呼び止めて、兵士が振り返る。後ろに立っていたのは、ヴィーダの三番目の兄、オミードだった。


 雇用主の登場に、ギゼムとミヌーが身構える。


(やっぱりここで邪魔が入るか)


 兄に妨害される可能性も想定していたヴィーダは、冷静に兄の姿を見た。


 オミードは占領軍との交渉役を務めているので、この宮殿にいてもおかしくはない。きっとファルハードあたりに指示されて、ヴィーダがアフシャーネフに関して勝手な行動をしないように気を配っているのだろう。


「我が家の使用人なのは間違いないが、念には念をだ。少し確認させてもらう」


 車の前に進み出るオミードに、兵士が下がって場所を譲る。


「かしこまりました、どうぞ」

「ああ」


 オミードが兵士に軽く愛想笑いをする。

 兵士はヴィーダたちに特別な事情があるとは考えておらず、問題が起きる可能性はまったく考えていない様子だった。


(ここを切り抜けないと、アフシャーネフには会えないんだ。言い負かされたりは、絶対にできない)


 オミードの邪魔を前にして、ヴィーダは裁判に臨んでいたときと同じ気持ちで覚悟を決めた。身内が相手だとしても、負けは許されなかった。


 オミードはまずは助手席の横に立ち、リオネルに話しかけた。


「こんばんは、リオネルさん。ミヌーやギゼムはともかく、あなたも妹の協力者になってくれたんですね」

「そういう貴方は、お兄さんに言われてここに来たんですか?」

「はい。ヴィーダが王女のことで問題を起こすのは、避けたいことですから。ここで俺が何か理由をつけてしまえば、ヴィーダは許可なく王女のもとへは行けません」


 穏やかに争う気配もなく、オミードとリオネルはお互いの立場について話す。


「問題を起こさない、ね。ファルハード兄上とオミード兄上はいつもそれだ。だけど本当に問題を起こしたくないのなら、黙って私を通すのが一番だと思うよ。私はただアフシャーネフにちゃんと会いたくて来ただけだから」


 彼らの会話が本人の意思を無視して進められるのが気に入らず、ヴィーダは口を挟んで兄に噛みついた。リオネルが頼りにならないわけではないが、他人に手綱を任せる気はない。


「なるほど。それで通さなかったら、どうするんだ?」


 ヴィーダが後部座席から反論すると、オミードはリオネルへの対応とは口調を変えて聞き返す。親しみやすい笑顔を浮かべてはいても、妹に寄り添う気はまったく感じられなかった。


 そんなオミードと対峙していると、起訴取り消し後にファルハードに手酷く批判された記憶が蘇る。

 オミードはファルハードに比べれば癖のない性格をしているが、自分と無関係であることにはまともに取り合わないところがあった。ヴィーダに喧嘩腰ではないからと言って、説得しやすいというわけではない。


(だけど同時にオミード兄上は、対立を避けたがる傾向が強い。そこを利用すれば何とか……)


 ヴィーダはオミードやファルハードの妹であるので、彼らの気性は良く知っているつもりだった。

 その利点を生かし、落ち着いて言うべきことを言う。リオネルもギゼムも、また侍女のミヌーも特別ヴィーダに加勢しなかったが、それでもどことなく心強さは感じた。


「ここでアフシャーネフに会うことが許されないのなら、また他にできることを考えるよ。だけどそれはなりふり構わない腹いせで、兄上たちをもっと困らせてしまうかも。私はアフシャーネフを救うことに関しては無力だけど、兄上たちを損させるだけの材料は十分に持っているからね」


 ヴィーダが持っている実家に関する情報をすべて使ってしまえば、兄たちにある程度の痛手を負わせることができる。


 しかし結局のところ兄たちに守られた存在であるヴィーダが普通にそれを言ったところで、脅しとして成立するには厳しいのは事実である。

 だからこそヴィーダは今はまだ無力であることをあえて強調し批判を誘うことで、わざわざ要求を蹴る必要がないことを理解してもらうことを目指す。格好が悪い論法ではあるが、役に立たない自尊心は捨てなければ先には進めない。


 オミードはそうしたヴィーダの意図に気付かないまま、ヴィーダの持つ弱さについて指摘する。


「俺たちが損をするということは、妹であるお前にも不利益があるということだ。威勢だけはいいが実際は臆病なお前に、そんなことができる度胸があるとは思えないけどな。ファルハード兄上はお前だけを馬鹿にしていたが、本当のところは俺たち兄妹全員がぬるい机上の世界に生きている。だから俺もお前も、浅い覚悟しか得られない」


 自虐にもならないほどのあきらめでオミードが笑う。

 オミードはファルハードと違って自身もまた一族の名によって守られた存在であることに自覚的であり、それゆえにヴィーダが決して自分たちに逆らえないことを強く確信していた。オミードのそうした意見は無責任だが正しくはあり、議論がしづらい。


(だけどそんなことは、部屋に閉じ込められている間に私も考えていたことだからね)


 だが一方でヴィーダはファルハードに言い負かされてからずっと、自分の無力さを噛みしめてきた。

 人生を否定され尽くされても、手放せなかったものがある。

 だからヴィーダはオミードの諦観に対しても、言い返す言葉を見つけることができた。


「オミード兄上の言うとおり、私たちの見てきた世界は本当は狭い。今の私には、その世界から抜け出す力はない。でも私は兄上たちよりも馬鹿だから、敗北して現実を知った。もしも勝ち続けていたのなら、きっと私は自分の愚かさにも気づかなかったと思う。でも今は、少しは違うものを見ることができるよ」


 己の弱さを正直に認めながらも、ヴィーダは緑色の瞳に強い意志をこめて正面からオミードに向き合う。


 ヴィーダは政治でも裁判でも失敗し、人から馬鹿にされる結末を迎えた。だが共和国の人間や兄たちと違って何回も負けたからこそ、ヴィーダはより多くの真実を知った気がした。そしてオミードの語るような生き方ではない自分の道を歩めるように、ヴィーダは少しずつ成長する。


「今のお前はまだ弱い。だがファルハード兄上や俺がお前を否定すればするほど、お前は戦う強さを得る。そういう理屈か」


 妹の考えを理解したオミードは、ため息をついて考えこんだ。ヴィーダを支配下に置こうとすることが逆に問題を長引かせることに、気付いた様子であった。


 ヴィーダは何も言わず、オミードの出す結論を待つ。


 やがてオミードは、しばらくの沈黙を挟んで口を開いた。


「……仕方がない。お前を通そう。ファルハード兄上には、きっと言わなきゃばれないだろう」


 勝ち負けにこだわらないぶん変わり身の早いオミードは、あっさりとヴィーダの言い分を認めた。オミードは常日頃、交渉役を務めることが多い。もしかしたらオミードのこうした話の早さこそが、ヴィーダと同様に負けず嫌いのファルハードを不要な争いから守っているのかもしれない。


「わかってもらえて、嬉しいよ。オミード兄上」


 あきらめよく身を引くオミードに、ヴィーダは思わず笑みをこぼす。


 だがオミードは鼻で笑い、ヴィーダの要求をのんだ理由を補足した。


「別にお前のためじゃないからな。どうせ今のお前に大それたことはできやしない。だったら黙ってやりたいことをやらせた方が、面倒ごとが避けられることに気づいたんだ。お前が王女に会ったところで、今後には何の影響もない」


 あくまでオミードは、ヴィーダを弱者として位置付けた。結果的にはヴィーダの利益になる選択をしてくれたが、オミードも決して妹を思いやるような人物ではない。

 いつだってヴィーダの兄たちの行動は、自分にとって利益になるかどうかで決まる。


 しかしオミードに自分は無力だと思わせることこそが、ヴィーダの狙った結果ではある。


 オミードはリオネルの席をのぞきこみ、妹想いの優しい兄のふりをした。


「愚妹がご迷惑をおかけします、リオネルさん」

「俺はただの傍観者ですから、大丈夫ですよ」


 リオネルが車の窓の外に立つオミードに微笑む。彼は彼で、ヴィーダの味方にはなりきらない距離にいた。

 その答えを面白がるように、オミードはリオネルに会釈をする。


「そうですか。それなら気の向くまま、こいつの人生を見てやってください」


 オミードはまるで見世物のように妹を扱い、その言動はヴィーダをやはり苛立たせた。だがそれでも自分の望みを聞いてもらえたことは確かなので、ヴィーダは渋々文句を飲み込む。


 そしてオミードが発進を促すように車から離れて、ギゼムに声をかける。


「もういいぞ、ギゼム。車を出せ」

「はい。かしこまりました」


 ギゼムが一速でアクセルを踏むと、車はゆっくりと門の内側へと走り出す。

 車を見送ることなく立ち去るオミードの背の高い後ろ姿も、だんだんと遠ざかっていく。


「説得が成功して、よかったですね」


 リオネルが窓を閉めながら、ヴィーダに言う。


「そうだね。兄上たちも私も、結局は自分に一番甘いから」


 ヴィーダは座席にもたれて、ほっと一息をついた。


 過程はどうであれ、ヴィーダは一歩前進した。


 負け続けたヴィーダが、それでも立ち止まれなかった意味がある。その答えは、アフシャーネフに会わなければ手に入らなかった。


 ◆


 その後ヴィーダはミヌーとともに車を降りて、アフシャーネフがいる棟に向かった。


 ミヌーがアフシャーネフの使用人と連絡を取って下調べをしていたうえに、元々はヴィーダもいたことがある場所であるので、オミードに見逃してもらってからの移動は想像以上に円滑だ。


 ただ一つの難点が眼鏡がないことで、ヴィーダはあまりものが見えない暗闇の中で注意して行動しなければならなかった。贅を凝らした宮殿内の内装も、まったく意味を成さない視界である。


「ヴィーダ様。この階段を上がれば、おそらく見張りに会うことなくアフシャーネフ様の部屋に行くことができます」


 螺旋階段に立つミヌーが、ヴィーダを小声で手招きする。


 踏み外さないように十分に気をつけて、ヴィーダはミヌーの後をついて階段を上った。


「確か、アフシャーネフは四階にいたはずだよね。部屋の周りに見張りはいないんだ」


 アフシャーネフの部屋の状況についてヴィーダが尋ねると、ミヌーが答える。


「この時間にはいません。どうやら夕方以降は、時折巡回の見回りがやって来るだけになっているようです」


 ミヌーが語る情報は今なおこの宮殿に残っている使用人から得たものであるので、それなりに正確なものであると思われた。


 階段には人の気配がまったくないので、ヴィーダは確認の意味も含めてさらに詳細を聞いた。


「見回りの時間は、だいたい決まっているんだっけ」

「はい、おおよそは。見回りが来る頃合いは避けて計画を立ててありますが、万が一鉢合わせしてしまったら路に迷ったふりをしましょう」


 気がはやるヴィーダなだめるように、ミヌーは慎重に失敗したときのことについて話す。

 宮殿への入館は許可されているし身なりも使用人そのものであるので、道に迷ったという言い訳は十分通用するだろう。


 そしてヴィーダの息が若干乱れたころ、二人は階段を上りきった。通路へと通じる扉を開け、以前も歩いたことのある廊下に出る。


(本当に静かだな)


 ヴィーダとミヌーは突き当たりにある、アフシャーネフの部屋の方へと歩いた。廊下にも部屋の前にも、人は誰もいない。


 部屋の扉の前に着くと、ミヌーはそっと内通者から手に入れた鍵でドアを開けた。


「では私は、部屋の前で立って待ってます。もしも人が来る気配がしたら、ノックしてお知らせしますので」

「うん、わかった」


 ヴィーダはアフシャーネフのいる部屋のドアを目の前にしてうなずく。


 無茶なやけっぱちで決断したことであるのに、案外簡単に実現してしまっていることが不思議だ。

 オミードと別れた後は特に何事もなく着いたので、ヴィーダは自分が忍び込んでいることも、自分とアフシャーネフの未来が違うことも一瞬忘れた。


(私はただ、アフシャーネフに会うために来たんだ)


 ドアノブに手をかけ、ヴィーダは扉を開けた。ミヌーが開錠したので以前と同じように鍵はかかっていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る