エピローグ

第34話 正真正銘の悪女として

 アフシャーネフの処刑が実行された日から二年後の命日、ヴィーダは朝日がよく見える海辺の砂浜を歩いていた。


 西の空はまだ夜の色をしている頃合いである。


 潮風がヴィーダの木綿のギャザーワンピースと、ゆるく編んだ金髪を涼しく揺らす。


 ヴィーダは風になびく髪を手で押さえて、人影のない砂浜を見渡した。ギゼムに頼んでわざわざ郊外の海まで連れてきてもらったので、首都の中心地に近い海と違って静かな場所だ。


 後方に待たせたギゼムのいる車も遠く、ヴィーダは一人静かに砂浜に腰を下ろす。


 目の前に広がる海は朝日の中で波を打ってきらめき、空は淡い青色に柔らかく染まる。


 丸く美しい太陽は、ヴィーダも砂浜も金色に照らしていた。朝日が海に映って二つに見える様子は、いつでもヴィーダの気持ちを高揚させる。

 アフシャーネフは月夜を好んだが、ヴィーダの方は昔から海から昇る朝日が好きだった。


 さらさらとなめらかな砂の上に手をつき、ヴィーダは朝日が昇っていく地平線を見つめる。


(もうそろそろ兄上たちも、この朝刊を読んで慌てているところだろうな)


 ヴィーダは満足げに微笑み、そしてギゼムに朝一番に買わせた新聞の朝刊を開いた。


 一面記事の見出しには「祖国を売った国賊ヴィーダ・ザルトーシュト」と大きな文字で書いてある。


 その本文は、先の大戦は兵器製造企業を営むザルトーシュト家が共和国と裏で手を組んで起きたという暴露だ。その陰謀の証拠として、ヴィーダの起訴の取り消しの背景の内部証言と、その裏で取引材料として横流しになった新兵器の設計図の抜粋が載っている。


 ファルハードやオミードの地位だけではなく、現在の共和国による統治も揺るがしかねない告発の報道。

 この記事の元となった情報を提供者の名前を伏せることを条件に新聞社にリークしたのが、他でもないザルトーシュト家の末妹のヴィーダである。


(昔教師だったころの教え子の就職先とはいえ、こういう記事を載せてくれる新聞があっさり見つかったってことは、共和国の統治も大分ガタが来てるってことだよね)


 ヴィーダは笑みを深めて、新聞をめくって二面を見た。二面も一面記事の続きで、王女付の秘書官だったヴィーダが兄であるザルトーシュト家の当主のファルハードと共に国を乗っ取るために戦争を起こし、アフシャーネフが軍事裁判で死ぬように取り計らったという内容が書かれている。


 もちろんヴィーダは、そんな陰謀を企ててはいない。


 また現在ザルトーシュト家が共和国と蜜月関係にあることは確かであるが、その関係が戦前からあったというのも事実ではない。


 全てはヴィーダが共和国の戦後処理の不完全さを晒すために、共和国とザルトーシュト家の間にあった忖度を事実以上に盛り立てて自らを悪の一味としてリークした結果である。


(これで私も世間から見れば、主君を裏切って売国したうえに悠々自適な生活を送る今まで以上の悪女だ)


 とてもすがすがしい気持ちでヴィーダは、新聞に載っている自分の写真を見た。裁判から逃げた中途半端で卑怯な悪女扱いされるよりは、むしろ売国奴として存分に正真正銘の悪女扱いされた方が気持ちが良かった。


 ヴィーダが敗北を認めて全部一件落着だと思っていたファルハードとオミードには悪いが、ヴィーダは全てを暴露するという使わずに捨てた手札を再び拾って自分のものにしていた。


 敗戦から時が過ぎ、人の記憶が薄れ支配が緩むことで条件は整う。


 そしてちょうどアフシャーネフが死んで二年たったこのときに、ヴィーダは自分の発明の行く末には興味を持たない次兄ジャムシドから得た新兵器をめぐる書簡を使い虚実を交えて告発した。

 かつて兄たちにいいようにされていたヴィーダは負け続けた結果強くなり、自分の名を貶めることと引き換えに現在の平和の空虚さを暴くことができる意志と手段を持っていたのだ。


(それで私は今日でやっと、本当の意味でアフシャーネフをあの判決から救い出せる)


 次第に明るさを増す朝の光の中で、ヴィーダは静かに笑う。


 あのあっさりと死を選んだ本人がどう思うかはわからないが、ヴィーダとしてはこの行為はアフシャーネフを死なせてしまったことへの贖罪でもあった。


 おそらく皮肉なことに、大勢の人がアフシャーネフの死を都合の良いものとして受け止めていたからこそ、ヴィーダの暴露による反動はより大きなものになるだろう。


 この記事の告発により、アフシャーネフの死刑はもはや国民が罪を忘れるための手続きではなく、裏切り者による売国の結果となった。生き残った者として売国奴たちと同罪になってしまったという負い目が、民衆により喪失感を感じさせ、批判に駆り立てる。


 こうして君主の死によって得られる利益が消えたとき、数年越しに判決の正しさは変わる。

 アフシャーネフの死が正義の裁きよるものではなく、ただの謀略や算段による結果でしかないという大勢の人が見て見ぬふりをし続けてきた事実を、ヴィーダは嘘と真実を使ってこの世に知らしめる。


 これは敗戦から時間がたった今だからこそ、可能になる勝利だ。


(まあ共和国の人も兄上たちもこれくらいじゃ落ちぶれないだろうし、人びとも流されやすいからすぐにまた忘れちゃうだろうけどね)


 ヴィーダは新聞を折り畳みながら、現実的に考えた。


 結局はヴィーダが今日してみせたことも、焼け石に水になるのかもしれない。

 しかし程度はどうであれ、この暴露記事によって起きる混乱がヴィーダの復讐でありけじめだった。


(そもそも戦争か平和かって分けてどっちかを選ぶものだと思っていたのが、私の間違いの始まりだった。だってこの世界は、そんな単純には出来てない)


 民衆の不満に、辺境の反乱。外国に残された王朝の末裔。

 犠牲の重さに平和を願ったところで争いの種は消えず、権謀実数の世界は終わらない。


 それならばヴィーダは、許される限りは賽を振る努力をしたかった。


 かつてヴィーダの弁護人のリオネルは物事の意味を考えるために裁判はあると語っていたが、賭けから逃げない理由を得たことがヴィーダが負け続けた意味だった。


「何を背負うのか、決めるのは私。死んだあなたには、選ばせないから」


 ヴィーダは前を向き金色に揺れる水面を見つめて、つぶやいた。声に出して喋っていると、アフシャーネフが本当に生きて背中合わせに座っているような気がした。

 もちろんそれは錯覚であるので、返事が返ってくることはない。聞こえるのは、寄せては返す波の音だけである。


 ヴィーダは平凡ではない、特別な人生が送りたい。


 大切に想ったから特別になるのか、それとも特別であるために大切に想うのか、ヴィーダは自分のアフシャーネフへの本心がどちらなのかわからなかった。だがどちらが真実だとしても、それはヴィーダ自身が求めた結果だった。


 気付けばもう朝日は地平線を離れていて、あたりはすっかり明るくなっていた。


 ヴィーダは立ち上がってワンピースについた砂を払い、海に背を向けた。


 すると車で待ってもらっていたギゼムがこちらへと歩いてきていて、手を振ってヴィーダに呼びかける。


「あの、お嬢様。無線でファルハード様から、今すぐ帰ってこいって猛烈に怒った連絡が入ってるんですけど。それと……」

「わかった。今、そっちに行く」


 ヴィーダは潮風にそよぐ前髪をかき上げて、返事をした。


 太陽が昇り、晴天は広がる。


 倫理や道徳に従って罪悪感の中で一生を過ごすのではなく、あえて悪女と呼ばれてでも望みに忠実に生きる道をヴィーダは選んだ。


 失っても諦めない限り、ヴィーダの勝負はこれからも続くのだ。

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