第26話 あの日の満月
アフシャーネフの判決を知ったヴィーダはさすがに食堂で兄たちに会う気にならず、食事はミヌーに運ばせて自室で過ごした。
シーツがぐちゃぐちゃになったベッドにネグリジェのまま寝転がって窓の向こうを見れば、外は目が痛くなるほどによい天気だった。
首都ネスフェは元々温暖で乾いた気候が特色の土地ではあるが、それにしても今日はよく晴れている。もくもくと湧き上がる雲の白さでさえも目に痛いほどに、空は明るい。
街ではいろんな人が働いて生きているのだろうなと高く上っていく太陽を眺めながら考えていると、主君が死ぬことが決まったというのに家でやることもなく寝ている自分がどうしようもなく情けない人間に思えてくる。
だが未だ外出も許されないヴィーダにできることは、遠い昔を思い出すことだけだった。
◆
同じ女学校に通ってはいたものの、ヴィーダは学生時代のアフシャーネフのことはあまり詳しくは覚えてはいない。
アフシャーネフの周りにはいつも礼儀正しく意識の高いご学友がいて、家柄と成績だけは良いが教師を馬鹿にして生きていた問題児のヴィーダと会話することはほとんどなかった。
当時のヴィーダの一番の楽しみは授業中に落書きをしたノートを悪友と回し合うことで、真面目に手を上げて発言していたアフシャーネフとは正反対の遠いところにいた。
ただ一つはっきりと覚えているのが、音楽の時間に舶来の鍵盤楽器を弾いていたアフシャーネフの姿だ。
聴衆に囲まれてもまったく緊張を表に出すことなく、アフシャーネフは音楽室に置かれた鍵盤楽器の前に座っていた。
アフシャーネフの長い指が鍵盤の上を流れるように動き、普段の理性的な態度とはまったく違う感情豊かな音を奏でる。ヴィーダは当時も今も芸術音痴だが、アフシャーネフの演奏技術がかなり高い水準にあることはさすがにわかった。
その音色の美しさはアフシャーネフが王女であるのがもったいなく感じるほどで、いつもは音楽の時間は寝て過ごすことが多かったヴィーダもそのときは起きて聞いていた。制服である焦げ茶色のワンピースも、楽器を弾いているアフシャーネフが着るとまるで舞台衣装のようにあでやかに見えた。
後に何かの縁で側近になってからは、ヴィーダはアフシャーネフともっと多くの時間を過ごすようになった。
そうしたアフシャーネフとの思い出の中でもヴィーダが特別に覚えているのは、秘書官になって最初に迎えた建国祭の最終日の夜のことだった。
リラ帝国は初代国王が即位した日を国慶節として祝っている。その国慶節の日を中心に首都ネスフェで行われるのが、建国祭だ。
建国祭の時期になると軒下など街のいたるところが国花である赤いバラで飾られ、屋台が出て旅行者も増えるので非常に活気がある雰囲気になる。
中でももっとも盛り上がる祭りの最終日には、仮面劇や舞踊劇など様々な伝統的な芸能が街中で行われる。特に旧市街を一周する仮装行列は、道にバラの花弁を絨毯のように敷き詰めて絵を描いた上を祭礼衣装で着飾った人々が練り歩くので、見物客が大勢やってくるのだ。
街で人々が楽しく騒ぐ一方、宮殿では先祖を祀り国の安寧を願う祭祀がいくつも執り行われる。それらは手順が事細かに定められている上に一つ一つに時間がかかるので、宮殿は華やかでにぎやかというよりは慌しい。
そのため建国祭の時期になると、あまり祭りには関わる役職ではないヴィーダもしわ寄せで仕事が増えて困り、祭祀の中心を務めるアフシャーネフはいつ寝ているのかわからないほどに急がしくなった。
だがすべての祭祀が終わった最終日の夜、アフシャーネフは行事続きで疲れているはずなのに、ヴィーダを宮殿の最上層にあるバルコニーに呼んだ。
近代化政策の中で建てられたセターレ宮殿は外観や装飾に西方の影響を強く受けており無数の白い大理石の彫刻によって外国風に彩られているものの、構造は古来より続く建築様式に基づいている。また意匠も唐草模様等の伝統的なものがところどころに使われており、バルコニーがある棟もそうした東方の文化を色濃く残した場所であった。
「アフシャーネフは眠くないの? 私は眠いし疲れたんだけど」
花弁の柄が規則的に描かれたタイルの敷かれた段を踏みしめ、ヴィーダはアフシャーネフの後をついて延々と続く狭い階段を上った。
高い場所にあるバルコニーに辿り着くには時間がかかり、体力に自信がないヴィーダはだんだんと息が上がる。
だがアフシャーネフはまったく疲れた様子はなく、踊り場に立ってヴィーダを手招きした。
「多分後悔はさせませんから。ほら、来てください」
「そんなに言うなら、行くけどさ」
ヴィーダは長着の裾を踏まないように上げ、アフシャーネフを追った。
金と銀の刺繍が施されたアフシャーネフの白い祭礼服はヴィーダの真っ黒で地味な服の三倍くらいは重そうな生地なのに、先を歩けるのが不思議だ。
やがて外の空気を感じたときにやっと、ヴィーダは階段が終わることを知る。
「長かった……」
最上階に到達したヴィーダは、すぐには景色を見ることはできずにへたりこんだ。
アフシャーネフはしゃがんでいるヴィーダを見て、くすくすと笑う。
「それは大げさすぎませんか」
「いやだって、疲れたから」
ふらふらと立ち上がり、ヴィーダはやっと到達した最上階を見渡した。
最上階は高い柱に支えられた屋根に覆われているものの壁はなく、柵状の手すりに囲まれているだけであとは開けている。
そこから見える星の瞬く夜空に誘われ、ヴィーダはアフシャーネフのいるバルコニーの端へと歩いた。
「はあ……、なるほど……」
ヴィーダは手すりの向こうに広がる景色を眺め、嘆息した。
星々がきらめく深い藍色の空の下で、白く輝いて見える煉瓦の街並み。薄闇に浮かぶ青いドームに、高い塔。それらの光景はある種の完璧さを持って、ヴィーダの目に映った。
首都ネスフェが美しい街であることをヴィーダはよく知っていたが、こうして夜に高い場所から見下ろすとまた違った趣がある。
また祭りの最終日の夜ということで、深夜に近い時間であるもののまだ多くの場所で明かりが灯っていた。その明かりの数が、祭りの夜を過ごしている人がヴィーダとアフシャーネフを含めてまだ大勢いることを示す。
その街も人も、夜空に大きく浮かぶ満月の光に照らされている。月は冴え冴えと白く美しく、丸く満ちていた。
「ね、結構いい眺めですよね? ここは基本的に国王しか来れない場所ですから、貴重ですよ」
隣に立っているアフシャーネフが、ヴィーダと同様に手すりの向こうの景色を見つめながら自慢げに言う。
返事もできないくらいの気持ちで、ヴィーダは夜空と街を見続けていた。
するとアフシャーネフはそのまま、半ば独り言のように感じたことをつぶやく。
「澄んだ青空に天命は宿る。でも私は見る分には月夜の空の方が好きですね。この夜の空の下でなら、国も何もない気分になれますから」
その月明かりに照らされた横顔は、ヴィーダだけが知るアフシャーネフの素顔のはずだった。
天命に従い天子として生きるアフシャーネフに義務を与えるのは晴天で、政治や祭祀から離れることができるのはこの月夜。アフシャーネフは重責から少しだけ離れて、ただ美しいものにふれているように見える。
そのささやかな幸せのあり方に儚さを感じつつも、ヴィーダはアフシャーネフに同意した。
「そうだね。今までは月は好きでも嫌いでもなかったけど、私もこれからはちょっと好きになりそうだよ」
同じ景色を目に映す二人。
アフシャーネフはなぜかヴィーダを時間を共有する相手として選んだが、ヴィーダはアフシャーネフを選んだ覚えはない。
それでもヴィーダはこの先に待つ未来もアフシャーネフと生きていくのだと強く感じていた。
◆
これが、ヴィーダがアフシャーネフとともに過ごした中でもっとも大きな思い出の一つである。
ヴィーダはあくまでアフシャーネフの臣下にすぎない。だがその日の夜にヴィーダはアフシャーネフと二人で同じ月を見て、その後の人生も共に生きるのだと思った。アフシャーネフに仕え続けるのがヴィーダの一生なのだと確信した。
しかしそのアフシャーネフ自身が勝手に、彼女が死んでヴィーダは生きるのだと決めた。アフシャーネフはヴィーダを大切に思っていたかもしれないが、二人で生きようとするほど自分を大切にしてはいなかった。彼女は君主として以前に、人として自分の命を捨てていた。
(じゃあアフシャーネフが本当に死ぬのが平気なんだとしたら、私のあの日の気持ちはどうなるんだろう。ただの勘違い?)
ヴィーダはかつて感じた確信が無駄な誤りとは思いたくない一心で、ベッドの上で目を閉じた。しかし今はもう、裁判の死刑判決を受け入れたアフシャーネフはひどく遠い。
このままじゃ終われないと、ヴィーダは強く思う。
判決を変えることはできなくても、みじめに一人で生き残ることになっても、何もしないでアフシャーネフを死なせることはできなかった。
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