第23話 庭と運転手
もしもヴィーダが繊細な人間であったなら、食事も取らずに部屋に引きこもったりしたのかもしれない。
だがヴィーダはそうやって死に惹かれたり健康を損なったりするほどの感受性は持ち合わせていなかったので、夕方には一階の食堂で鶏とサワーチェリーの蒸しご飯を食べ、その後は入浴して寝た。
そうして何も事情が変わることなくやってきてしまった翌日を、ヴィーダは朝からもてあました。
何もしないにはあきらめが悪く、だが無意味にあがけるほど馬鹿にはなれないヴィーダは、落ち着かない気分でもやもやと考え事をしてはため息をついた。本当ならこういうときは海かどこかに出かけるのがちょうどいいのだが、外出も許されないのでしかたがなく家の庭を散策することにする。
(一応罪人じゃないけど、自由の身になれたわけじゃない。今この状況でできるアフシャーネフを救う方法があるのなら、そんなの裁判が始まる前に実行しているよ)
一晩寝たことで少しは怒りが収まったが、それでも兄のしたことに納得できるわけではないし、何かやれることが見つかったわけでもない。割り切れない気持ちを抱えて、ヴィーダは敷石を踏みしめる。
屋敷の庭園は外国の流行を取り入れた様式で、ありのままの自然を意識した造りになっている。そのため花々は野草のように不規則に植えられ、木々も最低限にしか刈り込まれていない。今はそこまでよい季節ではないので花は少ないが、アーチや藤棚などで適度に日陰が作ってあるので居心地は悪くはない。
(とはいえさすがに広さはそこまではないし、一日中過ごすにはちょっと……。あ、あれは新しい運転手?)
ウッドデッキに置かれた椅子に座り、ぼんやりと庭園を眺めていると昨日迎えの車を運転していた男がつなぎを着て洗車道具を手に車庫へと歩いているのが見えた。ヴィーダは暇で仕方がなかったので、運転手の男に話しかけてみることにする。
敷地の隅にある車庫の前には、洗車のために設けられたスペースがある。男はそこに昨日使った黒いセダンを出して、洗おうとしていた。ヴィーダは車に詳しくはないのでよくは知らないが、この家の車はやはり高級な車種らしいので手入れも大事なのだろう。
ヴィーダが近づくと、男が気づいて先に挨拶をした。
「おはようございます。お嬢様」
スポンジを片手にうやうやしくお辞儀をする運転手に、ヴィーダは名前を思い出しながら挨拶を返す。
「おはよう。えっと、名前はギゼム、だっけ?」
ヴィーダが名前を呼ぶと、ギゼムは目を細めて笑った。
「そうです。覚えていてくださり、ありがとうございます」
黙っているときと違い笑うと案外若く見えるので、ギゼムは案外同年代なのかもしれないとヴィーダは思う。
兄が三人もいるので男性に慣れてないわけではないが、同年代の異性となると最近はリオネルくらいとしか話した覚えがない。ギゼムの日焼けした肌や短く刈った黒い巻き毛はリオネルや兄たちの風貌とはまるで違って、ヴィーダは少々特別なものを感じた。
「昨日はなんかごめんね。どうでもいい扱いにしちゃって」
「いえ、別に気にしていませんから」
初対面時の非礼をヴィーダが謝ると、ギゼムはスポンジをバケツの水で濡らしながら返事をした。二人の頭上を覆う木々の葉の隙間からこぼれる太陽の光が、バケツの水をきらきらと輝かせていた。
「あなた、元は兵隊だよね。その傷は戦争で?」
仕事を邪魔するのも悪いなと思いつつも車庫の横に置かれたベンチに座り、ヴィーダはギゼムの頬の傷を見つめ尋ねた。言葉も明瞭で表情も豊かなところを見ると後遺症はなさそうだが傷痕は大きく、切り傷を負ったそのときは大怪我だったと思われた。
だが本人にとっては特に触れられたくないものではないらしく、ギゼムは特に気負うことなく世間話のように近況を話す。
「はい。生活には特に困らないのですが、再就職先を探すのが難しかったので、ここで雇ってもらえてよかったです。地元も結構貧村だから、帰るわけにもいかなくて」
ザルトーシュト家の運転手ならそれなりに給金は出るはずなので、悪くはない就職先だとヴィーダは思った。だがギゼムのこれまでの人生を察すると過去はあまり幸せではないような気もする。
「じゃあ結構いろいろ、苦労したんだ」
「さあ、どうでしょうね。別にそれが普通だと思って生きていましたから。むしろ幸運なところもあると、俺は思います」
ヴィーダはつい気遣うような相槌をうつ。
だがギゼムの答えの芳は気を遣ったものではなく、そのまま自分の実感を話しているように聞こえた。ヴィーダからしてみれば貧村に生まれて兵士になり顔に傷を負うのは苦労でしかないが、おそらくギゼムの見てきた世界にはもっと大きな不幸が転がっているのだろう。
そんなギゼムの物の考え方に惹かれ、ヴィーダはつい何も考えずに口を開いた。
「……私は軍部の話を聞いたり戦略に関わったりはしてきたけど、戦場は知らない。元兵士のあなたから見れば、私は滑稽な存在なのかな?」
ヴィーダは自分がギゼムにどう見えているのかが気になり、迷惑な質問を向ける。裁判中に帰還兵に罵られたこともあるので、ヴィーダは自分が兵士だった人々からも広く憎まれていることを知っていた。
雇い主の家の娘からの無茶な質問に、ギゼムはあからさまに答えづらそうな表情になってタイヤのホイールをスポンジでこすっていた。だがゆっくりと考えながら、ギゼムは話してくれる。
「……俺には学がありませんから難しいことはわかりませんが、上の人間のことをいろいろと悪く言う奴が多いのは確かですね。俺も軍隊の暴力的な上下関係とか、理屈のよくわからない命令とかは苦手でしたし、何でこんなことやらされているのだろうと思ったことはあります。だけど国を動かしていた人たちをそこまで批判する気持ちにはなれません」
他の国民と同じように、ギゼムは国家への不信は抱えている。だが、その先に語られる結論にはなぜかとげがなかった。
ヴィーダはギゼムの姿勢を不思議に思い、真意を尋ねる。
「それは、なぜ? 憎むのも疲れた……とか?」
本来ヴィーダはあまりこうして相手の気持ちをわざわざ慮ることはない。だがギゼムが兵士でヴィーダが権力者だったという事実による負い目がそうさせた。
ギゼムはヴィーダの問いに答えるというよりも、自らのために思案をめぐらすような調子で考えを語る。
「それもありますが、戦争の世界もそこで命令に従っていた自分も、全部人間の本質だと思ったからでしょうか。どんな綺麗事を言ったとしても、人間が人間である限り、絶対に避けられない何かがあるような気がして……。すみません、うまくまとまらなくて」
風が吹き、ふわりとギゼムの黒髪を揺らす。
話を聞いていると、ギゼムは決して人がよいわけでも、あきらめて問題から逃避しているわけでもなかった。彼は静かな確信を持って、善悪から距離を置いて自分の立ち位置を決めている。
「いや、何となくだけど、わかったよ。変な質問に答えてくれて、ありがとう」
ヴィーダはギゼムの言葉の意味を本当に知るのは不可能であることを理解して、お礼を言った。
深く関わりながらも遠く見たことがない戦場の世界。ヴィーダはギゼムの話を通してその世界を垣間見た気分になったが、結局はそれも単なる想像に過ぎない。
ギゼムは机上の理屈だけで生きてきたヴィーダと違い、どんな言葉でごまかしたとしても戦場で行われるのは殺人と暴力でしかないことを身をもってよく知っている。
だがギゼムが嘘や欺瞞に気づきながらも、それを世界のすべてではなく一部として受け入れているのは確かだった。こういった、問題を起こさなさそうな性格だからこそ、ギゼムはこの家に雇われたのだろうか。
神妙な顔をしてヴィーダが黙っていると、ギゼムは車体を洗う手を止めた。
「俺からも一つ、聞いていいですか」
「いいよ、何?」
ためらいがちに口を開くギゼムに、ヴィーダは迷わず承諾した。ギゼムが真面目に考えてくれたのだから、自分もちゃんと答えなくてはならないと思う。
するとギゼムは顔を上げ、遠く空を飛ぶ海鳥を見るような目でヴィーダをじっと見た。
「あの、戦争をするって決めるとき、偉い人は何を思うんですか?」
ギゼムの問いはどちらかというと興味本位の問いだったが、心の準備をしていたよりもずっとヴィーダを戸惑わせた。
ヴィーダはアフシャーネフのことを思い出しながら、声を落として答えた。
「……私の場合は、じゃあ次は何をするべきかってことしか考えてなかったよ。他の人は……少なくとも王女はもっと違ったと思うけど」
そもそもヴィーダは、開戦が決まったその日のことを特に印象深く覚えてはいない。開戦前からすでに、戦争があること前提で準備を進めてきたからだ。
アフシャーネフはヴィーダとは違って犠牲となる人々のことを考えていたはずだと思っていたが、アフシャーネフに見えている世界が信じられなくなった今となってはよくわからない。
「やっぱり、そんなものですよね。庶民の俺もああ始まるんだな、くらいにしか思いませんでしたから」
ギゼムはヴィーダの答えを良いとも悪いとも言わずに、また車を洗い出した。
(そんなもの……。そんなもので片付くくらいのことしか考えずに戦争を始めたから、私は今こうして何重にも負けてるのかな)
ヴィーダはギゼムの言葉からそんなことを思ったが、口にはせずに黙る。
リオネルを前にしていたなら、きっと思ったことをそのまま話しただろう。
だがいま目の前にいるのはギゼムであるので、全てを打ち明けることはなかった。
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