第19話 分岐点

 そして決意を新たにして数日後、ヴィーダは晴れやかな気持ちで裁判所に向かった。


(今日はパルウィズだろうが何だろうが、どんな人が待ち受けていたって平気な気がする)


 敗色濃厚な予感がしても、兵士に連れられて赤い絨毯の敷かれた廊下を歩くヴィーダの足取りは軽い。

 勝ち負けではないところでの戦う理由があれば、無理をしなくても自然と自然体でいられる。


 だがいつも使っている控え室に到着してドアを開けると想定外の光景が広がっていたので、ヴィーダは先ほどまで持っていた心構えを早くも忘れて驚いた。


(ええっ? 何で裁判長とか判事がここにいるの?)


 普段はリオネルがだらだらと待っているはずの控え室の中には、なぜかヴィーダの裁判を担当している裁判長や数人の判事が並んでいた。


「申し訳ありません。間違えました」


 てっきり部屋を間違えたと思ったヴィーダは、ドアを閉めて立ち去ろうとする。


 だが裁判長が、ヴィーダを呼び止めた。


「秘書官殿は間違えてはいない。我々は今日の裁判は中止になったと伝えに来た」

「ああ、誰かが病気して延期でしょうか」


 被告人ではなく秘書官殿と呼ばれたことに引っかかりを覚えつつも、ヴィーダはその言葉に納得しかけて部屋に足を踏み入れた。


 しかし裁判長は、続けてヴィーダに信じられないようなことを告げる。


「いや。秘書官の裁判は、この先ずっと行われない」


 ヴィーダは裁判長が言った言葉の意味をすぐには飲み込めず、今体験していることはすべて夢か何かのような心地になった。


「は? それはどういうことですか?」


 思わず失礼な言葉で聞き返すヴィーダ。


 裁判長は、粛々とヴィーダに説明になってはいない説明を続けた。


「新たに発覚した情報により、秘書官殿への訴状は取り下げられた。秘書官殿は単なる王女の伝令役であり、政策に関与する存在ではないという判断である」


 裁判長の言葉を文面通りに受け取ると、要するにヴィーダはアフシャーネフに情報を伝えるだけの存在として発言権のない存在として、罪を問われないことになったようだった。

 だがそれは今まで裁判で議論されていた内容とはまったく正反対の見方であり、いきなり法廷の外で告げられて納得できるものではない。


「今までの話と全然違うんですけど。新たに発覚した情報って何ですか?」

「それは残念ながら、今この場で我々が話すところではない」


 裁判長の隣に立っている判事が、厳格に話すことを拒否する。明らかに言葉を濁された部分についてヴィーダが追及しても、裁判長も判事もまったく口を開く様子はなかった。


 相手が沈黙したからといってこちらも黙る気にはなれないヴィーダは、さらに問い質した。


「裁判で話し合った結果ならともかく、これはおかしいですよ。今まで散々悪者扱いしたくせに、全部帳消しにして無罪放免するってことですよね」


 ヴィーダは声を荒げて、裁判長の前に進み出る。どんな結末であっても受け入れる決意はしたつもりだが、こんな規則破りな方法で生き延びるとなると話は別だ。


 しかし裁判長は、ヴィーダの顔を見なかった。


「……迎えの車がやってくるので、秘書官殿はそちらに乗って速やかに帰るように」


 裁判長はヴィーダにそう言って指示を出すと、判事を連れて部屋を出ようとする。


 ヴィーダは一行を追って廊下に出て、思わず叫んだ。


「これで納得する人はいないでしょう! 裁判長!」


 怒鳴るヴィーダを、廷吏の役割を果たしている兵士が静止する。


 ヴィーダの鋭い声が廊下に響いても、法衣を翻して歩く裁判長たちは振り返ることなく去って行った。


 いきなり罪人ではなくなったヴィーダは、呆然として廊下に立ちすくんだ。


 すると、背後からヴィーダに語りかける声がした。


「私は最初から、あなたが処刑を免れることを願っていましたよ」


 振り返ると、アフシャーネフが穏やかに微笑み立っていた。

 共和国の兵士が側にいるところを見ると、先ほどまでのヴィーダと同じように裁判を受けるための移動中なのだろう。


「アフシャーネフ、あなたが訴状を取り下げさせたの?」


 ヴィーダはアフシャーネフがあまりにもタイミングよく冷静に現れたので、彼女がヴィーダを不起訴にしたのではないかと思ってしまった。


 黒い詰襟のアフタヌーンドレスを着て髪を編み上げたアフシャーネフには張りつめた美しさがあり、ヴィーダには死に向かう殉教者のように見える。

 だがアフシャーネフは、静かに首を振った。アフシャーネフは本当に何も詳しいことは知らないようだ。


「残念ながら違います。あなたが不起訴になったこともさっき知ったばかりですし、そもそも私にそんな力はありませんから」


 アフシャーネフはヴィーダに歩み寄り、そっとその手をとった。少し冷えたアフシャーネフの手にふれられて、ヴィーダは反射的にその手を握り返す。

 そしてアフシャーネフは、ヴィーダの耳にそっとその端正な顔を寄せてささやいた。さらりとなびく黒髪が、ヴィーダの頬にわずかにふれる。


「でもあなたが助かったなら良かった。きっとこれが、私たちの天命なんですよ」


 ヴィーダの状況が変わっても、アフシャーネフは今も変わらずいずれ死を迎える罪人であるらしい。


 アフシャーネフが信じ従う、この国を統べるとされる天命。

 晴天に宿る、天の意思。

 アフシャーネフはそうした概念で、二人の道が分かれた理由を説明した。このまま死刑判決が下されて処刑されるのも、彼女にとっては天命なのだろう。


 別離を惜しむようにヴィーダの手を強く握った後、アフシャーネフが手を離す。


「では、これで。また面会には来てくださいね」

「待って、私はこんなの嫌なんだけど」


 別れを告げ一方的に立ち去ろうとするアフシャーネフを、ヴィーダが呼び止める。

 アフシャーネフも一緒ならともかく、ヴィーダだけがこのような形で助かるのは認めがたいことだった。


 ヴィーダの声に廊下を歩くアフシャーネフが一瞬立ち止まり、わずかに振り返る。


「こちらは別に、あなたが生きていてくれるならそれで構いませんよ。私は君主ですけれど、本当は命令するよりも従う方が得意なんです。だから自分が死ぬ天命に従うのも、別にどうってことはありません」


 それは強がりや気遣いなどではなく、かえってヴィーダを突き放すように響いた。しかしその本意を語る言葉こそが、孤独な天子であるアフシャーネフが示す友情の形だった。


(アフシャーネフは本当に、死んでも構わないんだ)


 思っていたよりもずっと離れていたアフシャーネフの想いに、ヴィーダは呆然とした。


 ヴィーダは今まで、自分はアフシャーネフの素顔を知っていると思っていた。

 戦犯としての死を受け入れているのも、君主としての責任からだと信じていた。しかし実のところは、アフシャーネフの心は最初から何かを欠いていた。


 優雅な立ち姿に、諦観した微笑み。肖像画の中の人のように、一人犠牲になるアフシャーネフの姿は遠く手が届かない。


「アフシャーネフ!」


 ヴィーダが名前を呼んでも、別れにふさわしい感傷的な雰囲気になる以外の意味はない。


 アフシャーネフは遠ざかり、ヴィーダは残される。


 ヴィーダがその隣を歩くことは、元々許されてはいなかったのだ。

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