第6話 目指す未来

 すると背後から、柔らかな声がした。


「お兄さんとは、よく話せましたか?」

「アフシャーネフ……」


 振り返ると、アフシャーネフが立っていた。

 アフシャーネフはヴィーダの隣に歩いてきて、同じように海を見た。


「ちょっと休憩しようかと思いまして。この部屋は眺めがいいですよね」


 深紫色の瞳に海と空の青を映して、アフシャーネフが目を凝らす。

 ヴィーダはバルコニーの手すりに頬づえをつき、うなずいた。


「うん、私も好きだよ。兄上は景色なんか全然見なかったけど」

「それはもったいないですね。でもお兄さんは、お仕事がお忙しいんじゃないですか?」


 ヴィーダが兄を遠まわしにけなすと、アフシャーネフがやんわりと配慮する。ヴィーダはその流れにさらに重ねて、ファルハードの薄情さを語った。


「そうだね。好きに生きればいいけど家には迷惑がかからないようにしろって、私に言いたいことだけ言って帰ったよ」


 なおざりな兄ファルハードの言動を思い出し、ヴィーダは冗談っぽく笑った。実物を目の前にすると面白くも何ともないが、こうして人に話してみると案外楽しみがあったように思えてくる。


「何だか、兄妹らしくていいですよね」


 アフシャーネフが羨ましげにぽつりとつぶやく。王女であるアフシャーネフが私情を話す機会は少ないが、ヴィーダの前では時折本音を言うことがあった。


「そう? あんまりいい兄じゃないよ」

「でも気兼ねなく話せるって感じで、ちょっと憧れます」


 謙遜ではなく現実的に考え、ヴィーダは答えた。

 兄が三人いること自体は心強く、話の種にはなる。だが世間で妹想いと言われる兄たちに比べれば、ヴィーダの三人の兄は基本的に自分のことしか考えていない。


 しかしそれでも歳の離れた異母弟一人しかいないアフシャーネフにとっては、良い関係に見えるのだろう。アフシャーネフは海に視線を向けたまま、正直にさみしそうな顔をする。

 その少々ふてくされたようなアフシャーネフの態度を一人の友達として可愛らしいと思い、ヴィーダは笑みをこぼした。


(こういうときのアフシャーネフは、あんまり王女様って気がしないんだよね)


 期待に応えてあげようかという気持ちで、ヴィーダはアフシャーネフとの距離を詰めた。そして手すりに手をつきながら、親しみをこめてアフシャーネフの顔を覗きこむ。


「私は、アフシャーネフにも気兼ねしてないつもりだけど」

「それにはいつも、感謝してますよ」


 いたずらっぽく頬を寄せるヴィーダの手に自分の手を重ね、アフシャーネフは小さく笑った。手すりの上で絡まるアフシャーネフの指は細く、少し冷たい。

 アフシャーネフの真面目な反応は、ヴィーダにはくすぐったく感じられた。


「素直に感謝されると、反応に困るなあ」

「だって私が困らせても平気なのは、あなただけですからね。存分に困ってもらいますよ」

「どういう扱いなの、それは」


 ヴィーダが茶化すと、アフシャーネフも負けじと言い返す。二人は目を合わせて笑いあい、心地の良い沈黙にしばらく浸った。

 しかし二人は罪人であり、残された幸福な時間もそのうち消える。


(あとどれくらい、こうやって一緒にいられるんだろう)


 やがて迎える猶予期間の終わりを思い浮かべ、ヴィーダは考えた。正式に起訴されればヴィーダはしかるべき場所に移送されるので、こうして二人で過ごすこともなくなる。

 秘書官になってから、ヴィーダはずっとアフシャーネフの側に仕え続けた。この数年間に限って言えば、親兄弟とよりも長い時間をアフシャーネフと過ごした。そんな相手と離れるのは、さみしいというよりは実感がわかない。


 ヴィーダにとってのアフシャーネフは、かつては単なる遠い高貴なクラスメートだった。

 だが最も近い側近としてよく知ってからは、臣下としての気持ち以上にアフシャーネフ個人がかけがえのない存在になった。ヴィーダは少々面倒くさいところがあったとしても、アフシャーネフの孤独や優しさが結局は好きだった。


(でも無二の友情があったって、私たちの罪は軽くはならない)


 二人に待つ未来が、ヴィーダの思考に影を落とす。

 アフシャーネフも同じことを考えているのか、沈黙を破りぽつりとつぶやいた。


「外務大臣、首相、元帥……と来たら、もうすぐ私たちの番です」


 裁かれた臣下たちについて口にするアフシャーネフの声は、悲痛な響きを持っている。


 アフシャーネフの言葉に、ヴィーダは一瞬何と返せばいいのかわからなかった。ヴィーダはただ、すぐ側にいるアフシャーネフの体温を感じながら考えた。


 国家の中枢にいた人間が次々と裁かれていく。戦争に敗けるということは、そういうことである。

 勝利者などいない戦いという言葉がよく使われるが、少なくともリラ帝国が敗北した戦争はそういうものではなかった。敗者である我々はすべてを失い、裁く権利は勝者だけが持つのだ。


 アフシャーネフは雲一つなく晴れ渡った空を見上げ、静かに語る。


「青く澄んだ空には天の意思が宿ると言いますが、多分、全てを終わらせるために死ぬのがあの戦争を起こした天子である私に与えられた最後の天命なんでしょうね」


 天命というのは、古の遊牧民族の時代からリラ帝国に伝わる信仰である。

 晴天に宿る運命神が、人の定めを決める。天命に認められた者が天子として国を始め、天子が失政を行い徳を失えば国が終わるのだ。それは近代化が進んでも消えることのない強固な教義であり、多くの異民族によって構成される帝国をまとめる一つの理念であった。


 ヴィーダも帝国に生まれ育った人間であるので、それなりにはその天命の思想を持っている。

 しかしアフシャーネフはヴィーダよりもずっと深く天命を信じており、自らを王朝の滅亡に殉じるべき存在であると考えていた。


 アフシャーネフはゆっくりと重ねた手でヴィーダの手を握りしめた。


「私は無能な王女ですから、与えられた天命に従う以上のことはできません。だけど私が死ぬことで罪を問われずにすむ人の数を一人でも増やせるなら、そうしたいです。できればヴィーダ、あなたのことも」


 思い詰めた瞳がヴィーダを見つめる。戦乱により大勢の民を死なせたことを悔やむアフシャーネフが望むのは、責任をすべて負ったうえでの死だ。ヴィーダの友でもあり主君でもあるアフシャーネフは、その死でヴィーダの罪も贖おうとする。


 無論、ヴィーダはアフシャーネフの極端な自己犠牲に同意する気にはなれない。

 ヴィーダはもう片方の手でアフシャーネフのさらりとした黒髪をそっと撫で、アフシャーネフの言葉を遠まわしに否定した。


「……アフシャーネフが無能だとは、私は思わない。私はあなたに代償を支払わせる気はないよ」


 アフシャーネフが国民のために努力し続けてきたことを、ヴィーダは誰よりも知っている。それでもなお訪れたこの敗戦は、アフシャーネフ個人が原因ではないだろう。

 熟慮の末のヴィーダの素朴な言葉に、アフシャーネフは表情をわずかに緩ませる。だが本当の意味では気持ちは届かず、アフシャーネフが意見を変えることはない。


「私に国を統治する才能があったのだとしたら、それはより救いがないですね。でも、そう言ってくれてありがとうございます」


 そっとヴィーダの耳元にささやき、アフシャーネフが手を離す。

 アフシャーネフの振る舞いは物静かで穏やかだが、思い込んだ場合の決意は固く強い。だから説得してどうにかできるものではないことを、ヴィーダはよくわかっている。


 潮の香りのする風が、二人の間を吹き抜ける。


「アフシャーネフ」


 もうこの場でできることはないと知りながら、ヴィーダは執務室に戻ろうとするアフシャーネフに呼びかけた。

 だがアフシャーネフはヴィーダの頬にほんの一瞬ふれて微笑んだ後、何も言わずに立ち去った。


 足音は静謐に遠ざかり、やがて消える。ヴィーダはその音を聞きながら、ため息をついた。


「……残念だけど、私はあなたの思うようになる気はないよ」


 誰もいなくなった部屋で、ヴィーダは一人つぶやく。一人語るのはアフシャーネフには明かしていない、ヴィーダ側の意思である。


「私はアフシャーネフを一人で死なせない。絶対に二人で生き残ってみせる」


 言ったところで認めてもらえないので本人には話していないが、二人で生き残るという結末こそが罪人として裁判を受けるヴィーダが得ようとする未来であった。


 ヴィーダは本当のところは、アフシャーネフが生きてさえくれれば自分自身への判決はどうなっても構わないと考えていた。

 だがヴィーダが死ねばアフシャーネフにさらなる罪悪感を抱かせることに繋がるので、二人そろっての生存を目指す。


 アフシャーネフの無罪を目指すのはアフシャーネフのためでもあり、またヴィーダ自身のためでもあった。アフシャーネフが独裁者の汚名を着せられたまま死ぬのは、何よりも臣下であるヴィーダの自尊心が許さない。


(主君に責任を負わせてのうのうと生き延びるなんて、そんな格好悪い人生はごめんだよ)


 ヴィーダは眼鏡を手で押し上げて、再び海と空を見据える。まだ日没までには時間があり、外はまぶしかった。


 打倒王政の革命を掲げて周辺諸国を滅ぼしてきたディヴィンヌ共和国によって処刑された君主は、数えきれないほどいる。そんな国が行う裁判であるので、アフシャーネフと二人で生き残るのは非常に難しいことだ。


 だがどんな困難があったとしても、戦い抜く覚悟がヴィーダにはあった。

 最後まで胸を張って法廷に立てるだけの主張ができると、ヴィーダは自分の歩んだ日々を信じていた。


 ◆


 ヴィーダが教師を辞めてアフシャーネフに仕えはじめたばかりのころ、南の砂漠地帯に住むタリフ族の反乱が起きたことがある。タリフ族の反乱は各国の近代化が進む中で辺境での民族主義が高まったことが原因で、彼らは帝国を封建的な支配者として非難し独立解放を掲げた。

 反乱の裏には勢力圏の拡大を図る共和国の存在があり、タリフ族は共和国から秘密裏に得た最新鋭の武器で武装していた。


 共和国と繋がり帝国の支配体制を揺るがすタリフ族の反乱を見過ごすことはできない。しかし同時にタリフ族は帝国を構成する民でもあり、彼らへの処遇は議会でも意見が分かれた。

 アフシャーネフは基本的にこういった民族の問題に対して穏健な姿勢を取っていたのだが、戦乱が起きてしまっては宥和も難しく、政策の方針を決められないでいた。


 そのためヴィーダはその夜、秘書官として各所からの情報をまとめて報告書を作り、宮殿の執務室にいるアフシャーネフに渡しに行った。


「タリフ族の反乱についての報告書を持ってきたけど、あなたはずいぶん悩んでいるみたいだね」


 部屋に入ったヴィーダは、タイプ打ちした書類の束を机の上に置き、それとなく尋ねた。

 夜も更けた宮殿の一室は薄暗く、オイルランプが部屋の中心だけをぼんやりとしたオレンジ色の光で照らしている。


 アフシャーネフは疲れた様子で椅子に座り、机の上で頭を抱えていた。机に広げた地図の上には書き損じの紙が何枚も重なっており、苦心しているのがよくわかる。


「当然、悩みますよ。私の決断によって人の生き死にが決まるのですから。私は父上のような王にはなれませんのに」


 広大な帝国の領土が描かれた地図を見つめ、アフシャーネフは迷いを吐露した。他者の不幸に敏感なアフシャーネフにとって、政治の世界は生きづらいようだ。


 アフシャーネフの弱気な本音を、ヴィーダは最も近しい側近として聞くことができる。ヴィーダはアフシャーネフを気の毒にも思ったが、同時に主君の本当の姿に触れられる自分の地位に優越感も覚えていた。

 ヴィーダにとっては政治におけるジレンマは別にどうということもなく、むしろ望むところですらあるので、慎重に言葉を選びつつも率直に考えを言う。


「共和国の煽動が裏にあるんだから、これはもう単なる民衆の反乱では終わらない。武力鎮圧の選択を避けるのは、難しいんじゃないかな」


 ヴィーダがランプを背にしてアフシャーネフに向かい合うと、濃い影が机の上にできた。


 もはや血を流さない道はない、というのがヴィーダの見解だ。あくまで報告書は情報をまとめただけであるが、最後は武力行使の結論になるように論理が組み立てられている。

 アフシャーネフは机の前に立つヴィーダを、何か思いを凝らすようにゆっくりと見上げた。


「……わかりました。報告書はこれから、じっくり読ませていただきます」


 そしてアフシャーネフは、書類を手に取った。


 彼女はそれ以上は何もヴィーダに言わなかった。

 だがその後に決定されたタリフ族の反乱への対応には、ヴィーダが報告書で示した見解が反映されていた。


 それがヴィーダがアフシャーネフを通して国を大きく動かした一番初めの出来事で、本当の意味での始まりだった。


 アフシャーネフへの提言という形を取って、ヴィーダは政治に関わった。アフシャーネフは自らとは違う姿勢を持ったヴィーダの言葉を、もうひとつの意見として耳を傾ける。

 こうしたアフシャーネフとのやりとりを繰り返し、ヴィーダは権力に触れた。王女付きの秘書官という、権限が不確定な役職だからこそ可能だった方法である。


 国を動かすことで、ヴィーダの野心は満たされた。アフシャーネフには呪いである権力も、ヴィーダには祝福だった。


 ヴィーダにはアフシャーネフと違い、虐げられる者への同情がない。

 田舎の学校で教師をやっていたときには生徒を通して貧しい農村の暮らしを垣間見たが、その経験がヴィーダを大きく変えることはなかった。


 結局のところ、ヴィーダにはヴィーダに見えるものしか見えない。街で渦巻く批判も辺境の民の恨みの声も、ヴィーダにとっては雑音だ。


 アフシャーネフの臣下として生きる中で、ヴィーダは一人の政治に関わる人間として自分の正しいと思うことを選んできた。それができるだけの力を持っていた。


 そうであったはずなのだ。

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