第5話 長兄と妹

 風呂から上がったヴィーダは若葉色の質素な長着に着替えてミヌーに髪を編ませ、軽く麦の粥と揚げ餅を食べて面会用の部屋で兄を待った。


 面会用と言っても刑務所のように柵で区切られているわけではなく、入口に見張りの兵士が立っている他は普通の客間だ。

 メフル宮殿は海沿いに建てられているので、白亜のバルコニーのついた大きな窓からは海峡の港が綺麗に見える。織布張りの椅子も寄せ木細工の丸机もどれも丁寧な作りで居心地がよく、待つのは苦にはならなかった。


(外には出られないけど、いい天気だなあ)


 ヴィーダは窓際に座り、ほどよい午後の静けさの中で眠気に屈した。しばらくうとうとしていると、到着した兄の声に起こされる。


「待たせたな、ヴィーダ。道が混んでいて遅れた」

「ファルハード兄上」


 目を開けると、部屋に入ってきた長兄のファルハードがヴィーダの前に座っていた。


 多忙な兵器製造会社の社長らしく、第一声は遅刻への弁明だ。そこに申し訳なさというものはなく、ファルハードはヴィーダに似て薄い顔に冷たい笑みを浮かべて、話を続ける。


「思ったよりも元気そうだな。この間新聞で見た外務大臣よりもずっと表情がいい。お前はただでさえ前評判が悪いんだ。これからの裁判、もっと不幸そうな顔をして同情を引いた方が有利に進むんじゃないのか?」


 硬質で金属的なファルハードの声が、危機にいる妹に対してもなお思いやりのない皮肉を並べる。


 その変わらぬ非道に慣れたヴィーダは、何を思う訳でもなく久々に会ったスーツ姿の兄ファルハードを見た。

 西方とは違う文化を残しているリラ帝国であるが、男性の、特に都市部の上流階級の人間には洋装が広まっている。ファルハードの着ている濃茶のスリーピースのスーツは、生地も仕立ても一級だ。


 兄たちの中でももっともヴィーダに近い容貌の持ち主のファルハードは、金髪と緑色の目以外はとりたてて特徴のない平凡な中年の小男である。目の悪いヴィーダと違い眼鏡をしていないので、さらに全体の印象が薄い。

 だが地味な外見に反して態度は異常なほどに尊大で、酷薄な眼差しがただ者ではない雰囲気を醸し出していた。


「兄上こそ、戦時中の工場での強制労働で会社が訴えられるかもしれないわりには余裕そうだね。そんなに安全なご身分なの?」


 薄情な兄ファルハードに負けることなく、ヴィーダは兄妹愛とは無縁の遠慮のない物言いで現状を尋ねる。

 ファルハードが社長を務めるヴィーダの実家の兵器製造会社は帝国内でも屈指の大企業で、先の大戦にも深く関わっているため探られると危ない部分は多い。


 だがファルハードはまったく動じることなく、意地が悪そうに腕を組んで受け流した。


「愛国者のお前とは違い、私は基本的には商売人だ。戦争に勝っても負けても、求められる戦略の本質は変わらない。多少の犠牲は必要だが、ザルトーシュトの家名は守ってみせるよ」


 ザルトーシュトというのは、建国から続くヴィーダの一族の名前である。

 ファルハードの語る多少の犠牲というのは、あくまで彼にとっての多少だ。犠牲に含まれてしまった者の事情は、一切考慮されない。ヴィーダの思考にもそういった面はあるが、兄には負けるだろう。


「相変わらずだね、ファルハード兄上は。オミード兄上や、ジャムシド兄上はどうしてるの?」


 自信満々なファルハードの姿勢を再確認したヴィーダは、他の二人の兄について聞いた。

 次兄のジャムシドは兵器の開発、三兄のオミードは法務関係の役職にそれぞれついている。


 ファルハードは弟たちの様子について、妹へと同じく愛情の薄い態度で伝えた。


「ああ、オミードには占領軍との交渉役をやってもらっている。ジャムシドは設計屋だから戦争が終わった今もまた新兵器の設計をしているな。完成の目途はわからないが」

「それなら良かった。ジャムシド兄上は、設計以外のこともした方がいいと思うけど」


 常識や人間性といったものを何もかも放ってすべてを兵器の設計に捧げている次兄ジャムシドの人生は少々不安ではあったが、大きくは変わらぬ兄たちの暮らしぶりに、ヴィーダはひとまずは安心した。


「……しかし、お前と王女の起訴ももうそろそろになってきたな。あの法廷で戦争責任を問われて裁かれれば、死刑になる可能性が高い。共和国人は、敗者を虫けらか何かだと思っているからな。相当旗色は悪いが、勝つ算段はあるのか?」


 ファルハードが偉そうに椅子にもたれ、ヴィーダに問いかける。


 敗戦後何か月もかけて行われている軍事裁判も佳境に入り、アフシャーネフとヴィーダが裁かれる日も近くなっていた。

 西方の国々の中でも早い段階で産業の近代化を迎え高度な文明社会を築いている共和国は、帝国のような東方の国々を野蛮な国として見下している。そのため今回の軍事裁判も体裁は保ってあってもやはり公正とは言えず、生き残るには厳しい戦いが待っているであろうことが予想された。


 心配するというよりは試すような口ぶりの兄にプライドをくすぐられ、ヴィーダはつい必要以上に強気に答える。


「何が何でも助かろうとは思ってないけど、ただで死ぬ気はないよ。方向性はもう、だいたい決まっている」

 見栄を張って不安を隠してはいるが、概ねは嘘ではなかった。


「そうか。どうせお前のことだ。他人の意見なんか聞くわけがないから、詳細は聞かん。なるべくこっちに飛び火しないところで燃えてくれれば、それでいい」

 ファルハードは妹の話す決意を余所事のように聞き、投げやりに言い捨てる。


「それは励ましってことでいいのかな?」

「そう受け取ってくれても構わんよ……。おっと、もうこんな時間か。私の用は終わったが、お前は他に何かあるか?」


 肉親ゆえの乱雑さがある兄の言動にヴィーダが一言入れて皮肉ると、ファルハードは腕時計を見ながら笑った。バルコニーから射しこむ日光が、ファルハードの冷淡な笑みを照らす。


(要するにこの人は、自滅するなら一人でしろって言いに来たんだろうか)


 ヴィーダは、言いたいことだけを言って帰ろうとするファルハードの意図を推察した。優しさの裏返しであるなどとは、まったく思えない。


「ないよ。忙しいところ、どうもありがとう」


 名残惜しさもなく、ヴィーダは別れを告げた。伝えたいことが何であれ、自分のために時間を割いてくれたのは事実ではあるのでお礼はする。


「では、な。今度は多分、オミードあたりが会いにくるだろう」


 そしてファルハードは席を立ち、さっさと部屋を出て行った。

 あと何回見えるのかわからない兄の後ろ姿を見送り、客間に残されたヴィーダは一息つく。


(そういえば昔ファルハード兄上に、権力者に嫁ぐ意外に私が歴史に名を残す方法はないって言われて喧嘩したっけ)


 少々感傷的な気持ちになって、ヴィーダはふと幼かったころのことを思い出した。


 それはヴィーダが九歳で、ファルハードは二十歳くらいの昔である。


 ヴィーダは戦争を勝利に導いた遠い先祖のように国を動かすことができる人間に憧れて、刺繍や舞楽などの女性としてのたしなみそっちのけで勉学に励んでいた。

 留学から休暇で帰省してきたファルハードは、そんなヴィーダを見て「身の丈に合った夢を持てないやつは馬鹿だ」と鼻で笑った。ヴィーダは女の自分でも不可能ではないと反論したが、年季の入った性悪のファルハードには勝てなかった。


 ファルハードは覚えていないかもしれないが、それはヴィーダにとって忘れられない出来事だった。そのときからずっと、いつか兄が間違っていることを証明したいと思い続けていた。


(頑張ったところでせいぜい田舎の先生止まりだと思ったこともあったけど、結局はコネでも一応は官吏として政治の世界で生きることができた。でもやっぱり、その先は甘くはなかったなあ)


 アフシャーネフに仕えることになってからの日々は、志破れて地方の学校の教師として過ごしていたときと比べればずっと理想に近いものだ。

 しかし罪人として裁きを待っている今、夢を叶えることができたのかどうかの答えはわからない。


(だけど、あのときの兄上に「だから言っただろう」と笑われるような人生にはしたくない)


 幼少時からずるずると引きずってきた願望を噛みしめ、ヴィーダは窓のむこうの海を眺めた。太陽の光を反射して、海はきらめき輝いていた。

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