IDOLIZEコラボ作品「眼鏡に映るヒエログリフ」

ヤミヲミルメ

眼鏡に映るヒエログリフ

 2040年5月6日、テレビ局のスタジオ。

 スクールアイドル高校新人トーナメントバトル『School Idol New Stars』の、指宿いぶすきひとみの三回目のステージ。

 ステージを見下ろすはりに腰をかけ、ツタンカーメンの幽霊は足をぶらぶらさせて全身でリズムを取っていた。


 古代エジプトの若きファラオがいきなり何をやっているのだと、どうか思わないでほしい。

 ツタンカーメンは今日、冥界の王・オシリス神の指令を受けてここに来ているのだから。


 見下ろすステージで、歌う少女を浮遊させている装置。

 聞くところによるとかなり危険なもので、しかも使っている人間達はその真の危険さを理解していないらしい。


 浮遊フィールドは三年前に暴走し、死者を出した。

 人間が知っている危険さは、そこまでだ。

 暴走の際に時空を歪めて冥界ドゥアトに穴を開けたということまでは、この世の人間には知る由もない。




 三年前に開いた穴は、冥界ドゥアトに来るはずではない女の子を吸い込んでしまった。 

 帰れなくなった女の子は、エジプト人ではないが特例として、今は死後の楽園の“アアルの野”で暮らしている。


 その女の子が、完成した浮遊フィールドのお披露目が今日のコンテストで行われると聞きつけて、オシリス神に泣きついた。

『嫌な予感がするんです』

 女の子の真摯な目を、ツタンカーメンは思い出していた。


(でも三回とも問題なく動いてるんだよな)

 拍子抜けしつつもツタンカーメンは、純粋にイベントを楽しむモードに気分を切り替えていた。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆




 指宿瞳がステージ袖に下がる。

 結依ゆいを含む誰もが瞳のパフォーマンスの余韻を引きずりながら拍手を送る中、ただ一人だけ、冷たい目で瞳を睨む者が居た。


 その男はアイドルにも音楽にも興味などなかった。

 男の仕事は、今は、浮遊フィールドを作った研究施設の職員ということになっている。

 本当の職業名が身分証に記される日は来ない。

 男は殺し屋なのだ。


 殺し屋は、真のターゲットである指宿リノに目をやった。

 依頼主の目的は、瞳の養母である政治家・指宿リノの評判を落とすこと。

 リノ本人を狙うのはハードルが高く、後釜への同情票にも繋がりかねない。

 しかし瞳なら……

 瞳が実の娘なら、リノは瞳に危険な機械を使わせたりはしなかった、というストーリーをマスコミを利用してバラまくなどたやすい。

 養女のを、冷徹女・リノの虐待の果てに起きたものに見せかけるのだ。


 殺し屋は、アイドルに興味がないのと同様、政治にも興味などない。

 単に今回の依頼主が、リノが所属する政党の中の、リノが所属派閥の関係者だというだけだ。


 年寄りの多い大政党。

 芸能の出の、まだまだ若い、しかも女に、縄張りを荒らされたと感じている党員は決して少なくない。


 瞳の歌が終わる。


 浮遊フィールドは過去に暴走事故を起こし、死者まで出して、しかもその事故は隠蔽されている。

 再びの暴走となり、過去の事故とその隠蔽が明るみに出れば、その件ばかりが注目される。

 暴走後に研究所の人間が、二度目の暴走が人為的なものである可能性を訴えたとしても、聞く耳を持つ者は居ないだろう。


 瞳が浮遊フィールドを使用するのは四回。

 浮遊フィールドを利用した暗殺のチャンスは四回。


 一曲目では、ベンチでちょっとした騒ぎがあったために見送った。

 殺し屋は浮遊フィールドについて調べる際に、火群ほむら結依についての記録も見ていた。

 浮遊フィールドの暴走事故に巻き込まれて聴覚を失った少女。

 その人物がこのコンテストに参加していることに殺し屋は驚いた。

 火群結依の事故を知る職員はわずかしか居なかったが、感じるものがあったのだろう、警戒が強まり、殺し屋はしばらく浮遊フィールドに近づけなくなった。


 瞳の二回目と三回目のステージが無事に終わった今は、誰もが油断している。

 その隙を突いて、殺し屋は浮遊フィールドの制御装置に細工をした。

 次に浮遊フィールドが作動すれば、それから60秒後、歌の最中に暴走する。



 仕事は終わったはずだった。

 殺し屋は一刻も早く現場を離れようとした。


 スタジオの出口へと足音をひそめて急ぐ殺し屋が、ふと振り返った視線の先で、薩摩さつま芳乃よしのが浮遊フィールドで浮いていた。

 指宿瞳よりも先に。



 殺し屋は唖然とした。

 殺し屋は、アイドルにも薩摩芳乃にも興味はなく、芳乃の命がどうなるかなど気にならない。

 ただ、浮遊フィールドの制御装置に仕組んだ細工を、今から止めに戻っても間に合わない以上、指宿瞳の暗殺方法は変えざるを得ない。

 殺しに失敗したとなれば、殺し屋自身の命が危うい。

 どうすればいいっ。


 浮遊フィールドの暴走までは50秒。

 暴走が始まればコンテストは終わる。

 会場は大混乱になるはずだ。


 指宿瞳は出場者のベンチに居る。

 混乱に乗じれば瞳に接近できるか?

 いや、一般人ならまだしも、相手は政治家の娘だ。

 混乱が起これば、SPの護りは堅くなる。

 殺すなら暴走が始まる前だ。

 だが、どうやって……?

 暴走が始まるまで40秒……

 どうするどうするどうするっ。




 突然、殺し屋の耳に、不気味な笑い声が響いた。


 周囲を見渡す。

 スタッフしか居らず、誰も大口を開けて笑ってなど居ない。

 それどころか、自分以外の誰にも笑い声が聞こえているという様子がない。

 客席の笑い声とは距離があるし、そういう類の笑い方ではない。


 浮遊フィールドの暴走が、30秒後に迫る。

 笑い声がやみ、次いで、聞きなれない外国語が殺し屋に話しかけてきた。

 英語ではない。中国語でもない。どこの国の言葉なのか見当もつかない。


 辛うじて聞き取れた『セト』という単語。

 これがこの声の主の名前なのだろうか……




☆ ☆ ☆ ☆ ☆




 火群結依はステージの袖で、対戦相手の歌唱を見守っていた。

 補聴眼鏡グラス越しに輝くのは、空中を舞う薩摩芳乃の姿。

(……目をそらしちゃダメ……!)

 浮遊フィールドへの恐怖からも。

 ライバルの勇姿からも。


 その結依の視界がいきなり、見慣れぬ文字に覆われた。

 補聴眼鏡グラスに表示される、読めない文字列。


 思わず声を出しそうになって、ぎりぎりでこらえる。

 大丈夫、舞台の邪魔はしていない。


 それにしても、これは何?

 見たこともない……いえ、見たことはある。

 子ども番組をやっていたころに。


 その文字は……ヒエログリフは赤黒かった。

 結依は今までこの補聴眼鏡グラスに、ヒエログリフを映せることも、こんな赤黒い文字色が登録されていることも知らなかった。



 ヒエログリフが流れ去り、入れ替わりに、未登録の成人男性を表す黒い文字が現れた。

 先ほどのが翻訳されたのではなく、別の誰かの言葉だ。


「何だお前は!?」

 答えるように、ヒエログリフが紡がれる。

「知らない! 知らない!」

 またしてもヒエログリフ。

「助けてくれ!!」


 結依は辺りを見回した。

 誰もしゃべってなどいないし、もちろん芳乃の歌詞でもない。


(いったい何て言っているの……?)

 結依はミラホを取り出し、翻訳アプリを探した。

(でも、古代エジプト語の翻訳なんて……あ! あった!)

 補聴眼鏡グラスとテザリングして落とし込む。

 レンズに通信中の文字が出る。

 それ以外の人も景色も、芳乃の歌や伴奏も、ヒエログリフの濁流に飲まれて消える。


 結依は気づいていなかった。

 芳乃を浮かべる浮遊フィールドが、今まさに暴走を始めたことに。

 補聴眼鏡グラスがミラホから受け取っている電波に、浮遊フィールドの暴走した磁場が発する電波が入り込み、結依をこことは別の時空に連れ去ろうとしていることに。




 アプリが起動し、補聴眼鏡グラスに表示されたヒエログリフを、さかのぼって最初から翻訳する。


『感じる……感じるぞ……』


『玉座を求め、禁を犯せしか。懐かしい……否、人の世では絶えぬ話か……』


『驚くまでもない。邪悪は邪悪を引きつける。我は古の邪神なり』


『汝の悪しき心が、重力祭壇の魔力を通じ、我が闇の神界への扉を開いたのだ』

 アプリが自動で再翻訳して“重力祭壇の魔力”の文字が“浮遊フィールドのエネルギー”に書き換えられる。


『我に供物を捧げよ! 汝の願い、叶えてくれよう!』


「薩摩芳乃を生け贄にする! 指宿瞳の息の根を止めてくれ!」


『聞き届けよう!』



「ダメ!!」

 結依が叫んだ。


 補聴眼鏡グラスの画面を埋め尽くしていた文字が、結依の声を受けて霧散した。

 現れた景色に結依は息を呑んだ。


 辺りは一面の砂漠だった。

 砂嵐の舞う、暗い空の下の、どこまでも果てしのない砂漠。

 結依が居るはずのテレビ局もスタジオもステージ裾のカーテンも、どこにも欠片すらも見つけられなかった。



 二つの人影が結依を見つめていた。


 一人は、作業服を着た、地味な顔の男。

 しかしその地味さは、子役として芝居に関ってきた結依にはどこか不自然な、エキストラとして埋もれるために意図的に特徴を消したもののように思えた。


 もう一名は……

 子役時代に番組で、この“神”を模した着ぐるみとなら共演したことがある。

 筋骨たくましい体と、ツチブタに似た幻獣の頭。

 古代エジプト神話の邪神……


「……セト……」

 まさかと思いながらその名をつぶやく。


 邪神が唇を開く。

 紡がれるヒエログリフを補聴眼鏡グラスが訳す。

『お前も我輩への生け贄か?』


 砂地に伸びるセトの影の中で、無数の目玉が赤く光った。

『行け! 悪霊ども!』

 影の中の目玉の一対一対が、はっきりとした形を持たない人魂のような姿になって、結依を取り囲んだ。



 結依は恐怖を押し殺し、必死の思いで凛々しさをしぼり出してセトを睨めつけた。

「瞳さんや芳乃さんに何をする気なんですか!? 生け贄とか言ってたみたいですけど、まさか芳乃さんにひどいことをするつもりじゃ……っ」

『我輩が手を下すまでもない。浮遊フィールドの仕組みは把握している。すでに装置は暴走し、芳乃とやらの体はボロボロになっているはず。故にあとはその魂を取り込みて、我がしもべとするのみ。この悪霊どものようにな』

 結依を囲む影が一斉に笑い出した。


『芳乃とやらを取り込みしのちは、瞳とやらも、それにお前も、同じく取り込んでしんぜよう』

 セトが手を振り上げる。

 その先の空間が歪み、結依が先ほどまでいたスタジオへ通じる穴が開く。

 闇色の穴の向こうから強烈な光が差し込んで、結依は思わず目を覆った。



 結依の補聴眼鏡グラスが自動でサングラスモードに切り替わる。

 見ると殺し屋どころかセトまでもが目を覆っていた。


(この光は……セトが出してるんじゃないの……?)

 結依は穴の向こうに目をやった。


 ステージ上に、太陽が居た。


 比喩ではない。

 太陽のような女の子という話ではない。

 確かに芳乃は魅力的なスクールアイドルだし、彼女のファンには彼女を太陽と称える者も居るだろうけどそうではない。


 真っ赤な円盤の体。

 放射状に伸びる、金色の光の触手。

 まさに太陽そのものの、太陽神アテンが顕現しておられた。



 アテン神の触手が、芳乃を包んで守っている。

 芳乃はパフォーマンスに夢中でアテン神に気づいておらず、観客はアテン神をセットの一部だと思い込んでいる。

 神の偉大なる光のもと、誰も異常事態に気づいておらず、誰の身も、少なくとも今すぐ危険という状況にはなかった。




 アテン神の後ろ……背中に張りついて隠れていた誰かが飛び出してきた。

 黄金のサンダルを突き出してのフライング・キックを、セトは影から引き出した悪霊を盾にしてガードする。

 弾かれた人影が、空中で回転して着地して、真っ白な亜麻の腰布がふわりと広がる。


 赤銅色の素肌の胸に、黄金の首飾り。

 大きな目に凛々しい眉。

 独特な形の青と白の縞模様の頭巾ずきん


 その青年が指を鳴らすと、結依を拘束していた悪霊達が、悲鳴を上げて霧散した。

「あなたは!?」

「ツタンカーメンだ!!」

 外見からして予想通りの答えが、結依の補聴眼鏡グラスに表示される。

 青年の言葉もまた、セトと同様、登録してもいないのに固有の色で表示されている。

 ツタンカーメンの色は、晴れた空のようなブルーだった。



『我輩の邪魔はさせぬ!!』

「この子にも他の誰にも手出しなんかさせない!!」


 セトが悪霊の群れを弾丸のように撃ち出す。

 それをツタンカーメンは、黄金の杖を振るって薙ぎ倒す。


 ヒエログリフで交わされる言葉と翻訳の文字列が途切れ、ようやく補聴眼鏡グラスに、時空の穴からの音声を拾える余裕ができた。

 芳乃のパフォーマンスがもうすぐ終わる。

 次は結依の番だ。

(でもその前に! 命を狙われてるって瞳さんに知らせないと……!)


 結依が時空の穴へと走り出した刹那、銃声が響いた。

 弾丸が結依の髪を掠めた。

「悪りィな。顔を見られてんのに、生かして帰すわけにゃいかねェよ」

 殺し屋の手もとから煙が上がっていた。


 ツタンカーメンが振り返るが、それを隙と見て、セトが執拗な攻撃を繰り出す。

 とても結依を助けに行ける戦況ではない。

 殺し屋は砂の足場に注意しながら、慎重に結依に狙いを定める。



 結依の補聴眼鏡グラスの画面の端で、先ほど入れた翻訳アプリのアイコンの、くちばしの長い鳥の絵が光りだした。

 子ども番組に出てきた、知恵の神のトートの絵だ。

 アイコンのくちばしの絵が開き、そこから文字が流れ出る。

 結依はそれを読み上げた。


「メジェドよ、我に力を!」


 補聴眼鏡グラスのレンズからビームが発せられ、殺し屋を打ち倒した。


「えええええっ!?」


 撃ったのは結依なわけだが、さすがに叫ぶ。

 殺し屋は仰向けに倒れたまま、うめき声を上げている。

(う、動いてるし血も出てないし、わたし、殺したりしてないよねっ? それよりここから逃げなくちゃっ!)

 結依は殺し屋をそのままにして時空の穴へ飛び込んだ。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆




 ステージで芳乃がお辞儀をするのが見える。

 スタジオに戻った結依には、何もかもが夢だったかのように思えた。

 だけどステージ裾にはける芳乃の後ろには、そ知らぬ顔でアテン神が続いていた。


 瞳が芳乃に駆け寄る。

 アテン神が二人を見守っている。


 アテン神は、円盤状の胴体から伸びる無数の光の触手の一つでマルを作って結依に示すと、そのままスゥッと全身を透明にさせた。

 神の姿は人間にむやみに見せてはいけないのだ。


(神様がついているなら二人とも大丈夫だよね)


 ほっと息をついた結依の補聴眼鏡グラスの画面で、アイコンのトート神がしゃべり出した。

『ツタンカーメンが苦戦している。応援してやってくれ』

 結依はうなずき、近くにいたスタッフに声をかけた。

「ギリギリですみません! セットリストの変更をお願いします!」




 エキゾチックなイントロが流れ、結依がステージに躍り出る。

「みんなの心に――火をつけます!」

 結依の子役時代の持ち歌。

『パパママといっしょ』のワンコーナーの『ほーい! ふぁら丸くん』の劇中歌。

 メロディや詞の言い回しこそ現代風に変えられているものの、もとになっているのはエジプトで発掘された実在の古文書パピルスである。

「やんちゃなあなたにパパもママもおかんむり♪ きちんとあいさつしにきてよ♪」

 結依の歌声がスタジオいっぱいに響き渡った。





 Aメロを過ぎ、Bメロに入る頃……

 ステージの下手のカーテンの陰で、突如、時空の穴が開き、ツタンカーメンが後ろ向きに吹っ飛んできた。

 ツタンカーメンは、ちょうどダンスの振りで天井を指差した結依の頭上を飛び越えて、ステージの端まで飛ばされ、上手のカーテンに受け止められて滑り落ちる。


 時空の穴から悠然とした足取りでセトが出てくる。

 ツタンカーメンはすぐに起き上がり、セトが撃ち出した悪霊弾をバリアで防ぐ。

 光と闇のぶつかり合い。

 しかし客席に動揺はない。

 二人とも、人間に見えないように姿を消している。


(今のところ、みんなには被害はない……でも、セトが勝ったらどうなるかわからない……)

 結依にだけは邪神とファラオが見えていた。

 古代エジプトの歌を通じて、結依の身には今、古の巫女の魂が宿っているから。



 セトの流れ弾が客席や結依のほうへ向かわないように、ツタンカーメンはステージの後ろ側を通ってセトとの距離を詰める。

 ツタンカーメンの杖が光り出す。

 至近距離からビームを撃ち込むつもりだ。


 セトはニヤリと笑い、素早くステージの前側に……結依をツタンカーメンとの間に挟んで盾にする位置に回り込んだ。

「ぐっ!」

 攻撃できぬまま、ツタンカーメンの杖の光はチャージを切らして収束する。

 一方、セトは、目の前の結依ごと飲み込む勢いで闇の弾を膨らませる。

 ターンを終えて、結依が振り向く。

 結依の目と邪神の目が、バチリと合った。


「わたしの歌を受け取って!」

 それは、もともと詞の中に組み込まれている、サビ前の台詞だった。

 客席から、待ってましたとばかりに歓声が上がった。



 サビが始まる。

 客席の誰もが、結依の全身が光り輝くのを、目ではなく魂で感じた。

 偶像アイドルたる結依の身に、太陽神アテンの魂が宿ったのだ。

 ステージに現れた太陽の光は、邪神の影を吹き飛ばし、スタジオの隅々までをも照らしつくした。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆




 歌い終わり、ステージ袖に戻った結依とアテン神を、ツタンカーメンの拍手が出迎えた。

 セトはいつの間にか居なくなっていた。


 ツタンカーメンが、笑顔で何か言っている。

 結依は、ちょっと待ってと手で示し、補聴眼鏡グラスをかけた。


「!?」


 ツタンカーメンは口を閉じている。

 それなのにヒエログリフが表示される。

 赤黒い、セトの文字が、翻訳される。


『我輩への貢ぎ物、しかと受け取ったぞ』


「貢ぎ物!?」

「どうした、結依!?」

「わからない……もしかして……ああ!! 芳乃さんと瞳さんが危ない!!」



 アテン神は芳乃が戻ったはずの楽屋へ、ツタンカーメンはステージへ向かっているはずの瞳のもとへと急ぐ。

 スタジオを出たところで置いてきぼりにされ、廊下に一人だけ、ぽつんと取り残された結依の前に……

 殺し屋が、現れた。



「何かわからんが計画は台無しだ! せめて目撃者だけでも消しておく!」

 殺し屋の銃口が結依に向けられる。

「いや! 誰か助けて!」

 結依が叫んだその時……おどろおどろしい邪神の高笑いが、廊下と補聴眼鏡グラスの画面に轟いた。


『我に供物を捧げし者よ、汝の願い、聞き届けよう』


 殺し屋の足もとの影がグニャリと歪み、悪霊が伸び出て、殺し屋の手足に巻きついて拘束した。

「セト!? どうして!?」

 結依が辺りを見回すが、邪神本体の姿はない。


『歌を受け取れといわれたからな。汝の歌唱、我輩への貢ぎ物として享受した』


「じゃ、邪神が何でそんな!? アンタは悪い神のはずじゃないのか!?」

 殺し屋が驚愕の声を上げる。


『くだらぬ。真の邪悪たるこの我輩が、人間ごときの瑣末な善悪に振り回されるとでも思うたか? それより汝、我輩への供物の儀式を途中で放り出しおって、許されると思うでないぞ!!』


「たっ、助けてくれっ!!」

『貢ぎ物と引き換えならばな。汝は何を差し出すか?』

 悪霊が殺し屋の頬を舐めた。

「ひぃっ!?」

『肉体は食らわぬ。もとよりしたる価値もなし。魂の端っこをかじる程度に留めてやる』


 殺し屋の絶叫が響く。

 結依はこの隙に自分の楽屋に逃げ込んだ。


 しばらくして、扉の隙間から廊下を覗くと、すっかり放心状態となった殺し屋が、警備員に連れて行かれるところだった。


 セトはもう居ない。

 結依は、何だか夢を見ていたみたいな気分になった。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆




 火群結依と指宿瞳の対決の火蓋が切って落とされる。

 ツタンカーメンとセトはスタジオのはりの上で、適度な距離を取って並んで、ステージを見守っていた。

 セトが戦う気をなくした以上、ツタンカーメンのほうからわざわざ食ってかかるようなことはしない。


『あのムスメは負ける』


「そんなことないさ」


『我輩がもう一人のほうを食ろうてやれば、あのムスメの優勝となる』


「そんなことするまでもない」


『あのムスメは打ちのめされる』


「それでも勝つさ。最後には」


 結依のパフォーマンスが始まった。




参考文献

 ヒエログリフで読む古代エジプト愛の歌

    小山雅人[監修] アンク・ジェト 深川慎吾[共著]  文芸社

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