皇太子さまとお散歩 2

 庭園に出ると、夜風が少し肌に沁みた。とはいえ、寒くはない。

 地面におかれたランタンの光が、咲き乱れたバラを幻想的に照らし出していた。大理石の敷かれた小道から、ほんのり甘い香りが漂う。眩しいくらいに明るかった室内とは対照的に、灯された灯は小さく、自然のものだ。

 アステリオンはテラスから庭園へと先導し、私を夜の庭園へと誘った。

 さすがに、本物の皇太子様だけあって、立ち居振る舞いは優美かつ無駄がない。イシュタルトほどではないにしろ、剣もかなり使えそうだ。庭園へと降りる階段で手を貸してもらった時に触れた手には、硬い剣ダコがあった。

 そういえば、この人は、父の顧客である。いろいろテンパっていて忘れていたけど、彼のおかげでうちの店に箔がついたのだ。

 庭園の入り口には、いくつかのベンチが置かれ、紳士淑女が肩を寄せ合っている。庭園の奥へと進む小道に出ると、どこからか水音がしていた

 眩しい室内の明かりを離れ、目が闇に慣れてくると、美しい夜空が広がっていることに気付く。

 慣れない華やかな喧騒から離れたものの、私はまだ夢の中にいる気分だ。庭園には魔道灯が使われていないので、しんとした空気の中に広がる感覚に魔術の波動は感じない。

 不意にくっくっという忍び笑いの声が聞こえ、私を先導するアステリオンの肩が小刻みに揺れているのに気が付いた。

「あの。私、何かしでかしましたでしょうか?」

 不安になり、私は口を開いた。

「いや、君を笑ったわけじゃないよ」

 笑いをかみ殺しながら、アステリオンが振り返った。

「イシュタルトが、必死すぎて想い出したら、笑えただけだ」

 そう言って、アステリオンは私を見た。私は、なんのことだかわからず、きょとんとする。

「……あそこまで、所有権誇示したら、エレーナの作戦が台無しだ」

 言葉に反して、アステリオンは非常に楽しそうだ。

「エレーナ様の作戦?」

「あれ? 聞いてなかった?」

 アステリオンはバラで作られたアーチを潜り抜け、庭園に通された水路沿いの道を進んだ。等間隔におかれた、ランタンで照らし出された水路の水面が闇の中でテラテラと反射している。

「イシュタルトが美女を俺に紹介して取り入ろうとして、俺がまんまとそれに引っかかるっていうシナリオ」

「はあ?」

「マヌケな皇太子が、女を口説いているところを、敵さんが狙うに違いないって、エレーナはそう考えた」

 なるほど。それで、私は必要以上にセクシーなドレスを着せられたわけだ。

 つまり、私はイシュタルトが皇太子を籠絡させるために用意した女という役割だったらしい。

「申し訳ございません。それは、私には荷が重い役割でした」

「何が?」

「だって、私の色香で皇太子さまが血迷うなんてシナリオ、現実的ではありませんよね」

 冷静に考えて。本物の令嬢を見慣れた皇太子さまが、私に魅了されるわけがない。

「うわっ。ロバートの言ったとおり、本当に自覚ないんだねえ」

 言いながらアステリオンは大爆笑する。

「作戦が台無しになったのは、君のせいじゃないって。いや、君のせいといえば君のせいか」

 激しい水音に目をやると、人工的な滝が作られていた。人の身長の二人分くらいの高さの石垣が組まれたその滝の上は闇に溶けて、よく見えなかった。

 滝のそばに据えられたベンチに、私とアステリオンは腰を下ろす。

「自覚ない? イシュタルトのさっきのキスは、完全に俺への牽制だろ?」

 先ほどの耳へのキスのことだろうか。

「あれは、演技だと思います」

 私は首を傾げながらそう言った。

「演技?」

「あの。実は私、ある事情から、イシュタルト様に愛人のふりをしていただくようにお願いをしておりますので」

「愛人のふり? なんで?」

 面白げにアステリオンが首を傾げる。

「私、ある方に、求愛されておりまして。いえ。お断りできる立場ではないのかもしれませんが……」

仮にも、ジュドーは男爵様だ。本来、平民の私が望まれて断れる相手ではない。

「ああ? そういやアゼルがどうとかエレーナが言っていたな。それで陛下にあいさつした後、突然、君を抱き寄せたのか」

 納得したように、アステリオンが頷いた。

「ま。リゼンベルグ侯爵が、意味深に陛下に君を紹介してしまった以上、男爵も諦めるだろう」

 詳細は聞いていなかったらしいが、エレーナから私がジュドーから逃げ回っているというのは聞いていたらしい。

 緊張して気が付かなかったけれど、ジュドーは、私たちが皇帝に挨拶していたのを見ていたそうだ。イシュタルトがあの時、急に腰を抱いたのは、アステリオンを見たからではなく、ジュドー・アゼルに気が付いたからなのだろう。

「なんか、私の個人的な理由が、作戦の妨げになったみたいですね」

 私は申し訳ない気持ちになった。

「大丈夫だ。イシュタルトの行動についても、実は織り込み済みだから」

 ニヤッとアステリオンが笑った。

「君の優秀な弟は、こうなる可能性について、しっかり指摘していた」

 アステリオンは腕を前に伸ばし、伸びをした。

「俺はこの目で見るまで、あんなイシュタルトは想像もつかなかったが……実に面白いものが見られた」

「面白いもの、ですか?」

「ああ。君は演技だと言うけど……あいつはそんなに器用な男じゃない」

 アステリオンは本当に楽しげだ。

「あんな演技ができるなら、ロバートと噂になったりはしないさ」

 私は目を丸くした。

「あの。その噂、殿下のお耳に届くほどの大きな噂だったのですか?」

「ん? まあ、ゴシップネタは、小さい声で大きく広まるものさ」

 なんでそんなふうになるまで、噂を放置していたのだろう。イシュタルトならば、いくらでも寄ってくる女性に困りはしないだろうに……。

「君も、俺の従妹とイシュタルトの会話を見ただろう? まあ、いつもは誰にだって、あんな調子だ。アイツが君をエスコートする様子を目の当たりにしながら、声をかけた従妹殿は、勇気があるというか無謀というか。空気を読まないにもほどがある」

 アステリオンはそう言って首を振る。

「いくら俺でも、あれを見た後で、君を口説く気にはなれないからなあ」

 私は思わずくすりと笑った。

「失礼ながら、殿下はお聞きしていたより、ずっと紳士でいらっしゃいますね」

「ロバートとイシュタルトを敵に回すほどの度胸がないだけさ」

 アステリオンの言葉は半分サービストークであろう。が、イシュタルトはともかく、ロバートは確かに私が皇太子に弄ばれたら怒るだろうな、と思う。立場的には、許容しなくてはならないだろうが、弟の国家への忠誠心は軽く吹き飛ぶに違いない。

「殿下は、恨みを持たれたりする心当たりはあるのですか?」

 女癖が悪いと聞かされていた時は、どうかと思ったが、話してみるととても理知的で感じのいい人だ。

 政敵というのは当然いるだろうが、不用意に人の恨みを買うタイプではないと感じた。

「そうだな」

 アステリオンは小さくそう頷くと、黙るように私に合図した。魔術の波動は感じないが、複数の人の気配を感じる。

 私は、目を閉じ、いばらの生垣にある木の元素を密かに集めた。

「アリサ、後ろへ」

 アステリオンが叫ぶと同時に、人が生垣を飛び越えて降ってきた。アステリオンは、儀礼用の腰にさした剣を抜き、応戦する。数は十くらい。闇の中に、白刃が光る。

「我、魔の理を持って命ずる。絡め獲れ!」

 私の詠唱が完成し、茨がのたうつように襲撃者に襲い掛かった。茨は、数人の足に絡みついたが、残りの襲撃者は抜身の刃を振り上げ、せまってきた。

 アステリオンは最初に降ってきた襲撃者をいなすように倒しながらも、次々に繰り出される剣にさすがに防戦一方となる。

「アリサ!」

 アステリオンの剣戟の隙をついて飛んできた白刃から守るように、私は身体を横抱きにされたまま大理石の上を転がった。

「レグルス様?」

 転がった姿勢から、襲撃者の足をけり上げ、そのままレグルスは、跳ね起きる。

「殿下の側に居ろ!」

 そう叫ぶと、レグルスは抜刀して、アステリオンの前に出た。

 気が付くと、レグルスを含め、四名の騎士たちが私の前で戦っている。

「大丈夫? アリサ!」

 ロバートが私の側にかけよった。

 私は身を起こしながら、返事をしようとして、ふと、首筋にざらつくような感触を感じた。

――来た!

 はっきりと魔力の波動を感じた。

「ロバート!」

 あの時感じたのと同じ魔力の波動。でも、感触が全然違う。もっと強く。そして、生々しい。

「ダメだ! 追えない!」

 ロバートが叫ぶ。魔力の波動は絶ち消えた。消えるのと同時に、禍々しい瘴気が庭園中に噴き出し、圧倒的な重量感のある黒い塊が闇の中に出現した。

 メリメリと木々が踏みつけられる音がする。

 不意に、闇の中に光源が生まれた。誰かが魔術で灯りをともしたのであろう。

 山のような大きなテラテラと鈍い鉄色に輝く体躯が浮かび上がる。

「ハイドラ?」

 そこに現れたのは、九つの頭を持つ、巨大な水蛇だった。


 緑色がかかった暗い青色をした鱗が煌めく。大きな水蛇の巨体が、のたうちながら、生垣の上を這ってピシピシと枝を折る音が鳴り響く。

 体長は二階建ての建物くらい。九つの鎌首は四方に向けているものの、まっすぐにこちらへ向かってくる。

 テラス側から悲鳴が轟く。

 不意に頭上で風切音がして、ハイドラの頭の一つに弓矢が突き刺さった。グワッっと奇声を上げてハイドラがのたうつ。

「イシュタルト様!」

 ロバートの声にふり仰げば、滝の上から大きな弓を構えたイシュタルトの姿があった。

「ロバート!」

 イシュタルトの呼び声に弾かれたように、ロバートは補助魔法を唱えた。

 イシュタルトの持つつがえた弓矢が闇の中で、青白く発光する。

 矢は、まっすぐに先ほどと別の頭の一つに突き刺ささり、魔力を帯びた矢をうけた頭は絶叫を上げた。

 飛び散った鮮血が茨を焼く音がした。ハイドラの血は、全てを焼く毒液である。

 襲撃者たちは騎士たちに倒されたものの、大きな鎌首をもたげ、ハイドラはこちらを狙っている。血液もそうだが、彼奴の唾液も、毒液だ。吐き出された毒液を浴びたら、間違いなく、大火傷をする。

「アリサ、足止めを!」

 接近戦は危険だ。ロバートの指示を受け、私は、意識を大地に集中し、のたうつ水蛇を睨み付けた。

「我、魔の理を持って命ずる。捕えよ!」

 私の言葉に反応して、大地が鳴動する。ハイドラの大きな下半身を土くれから生まれた竜がからめとった。

 彼奴の全身を縛り上げたイメージを脳裏に描きながら、私は必死で魔力を注ぎ込んだ。

 そしてそのまま、魔力を維持する。少なくとも、ハイドラの足は止まった。じわじわと私は魔力を強めていく。

 ロバートはイシュタルトと連携をして攻撃を続けている。気が付けば、いつの間にか、エレーナやルクスフィートも駆けつけ、ハイドラに、雷を落としていた。

 こちらに伸びてきた鎌首と最前線で対峙しているのは、レグルスだ。俊敏な動きで、吐き出す唾液を避けながら、剣を繰り出すチャンスを狙っている。

 イシュタルトは、ロバートの呪文に合わせ、次々に矢を射かけていく。

 イシュタルトは剣の達人とは聞いていたが射手としても、超一流らしい。よくみれば、正装の上着を脱いだだけの姿らしく、プールポワンにプレスのきいたズボンという格好だ。

 次々に射かける矢は、標的に面白いように突き刺さる。

「アリサ、維持したまま、石化イメージ。僕の呪文にあわせて。 エレーナ、ルクスフィート様もお願いします」

 ロバートの言葉に、エレーナたちが頷き、私も頷いた。

 自信はない。ないが、やるしかない。

「我、魔の理を持って命ずる。巌となれ!」

 ロバートの鋭い呪文が完成する。

 私はその言葉と同時に、縛り上げるために練り上げた土の元素をハイドラの体躯に浸透させていった。

 そのイメージに、ロバートの強い波動とエレーナやルクスフィートの波動が混じり合い膨らむ。

 ぺきぺきと音を立てながら、のたうつハイドラの身体が徐々に岩へ変化していき、そして、完全に沈黙が訪れた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る