5F:彼らの目覚め
夢見心地で関東から栗東トレーニングセンターへ帰厩し、どんちゃん騒ぎのサタンマルッコ祝勝会が明けて翌日。どれだけ騒ごうとも明日はやってくる。
朝の爽やかな日差しの下、サタンマルッコ担当厩務員座間クニオは痛む頭を抑えながら、ダービーの栄冠を手にした栗毛の僚馬の手綱を引いていた。
レース後と輸送で疲労は見られるマルッコだが、それはそれとして普段通りの運動はこなさなくてはならない。馬を休ませるというと厩舎でゴロゴロさせるようなイメージを抱くかもしれないが、余程のことが無い限り競走馬は毎日運動している。犬などの動物と同じで、身体を動かさない事がストレスになってしまうからだ。
とはいえ今日くらいはもう少しゆっくりさせて欲しいと思ってしまうのがクニオの本音だった。目敏いマルッコは「ん? お前なんか変な臭いするな。なんかいいモン食ってたんだろ俺にも寄越せ」とでも言いたげにフラフラするクニオの肩に頭突きを見舞っている。
「おうマルッコ。ダービーおめでとさん」
「フッヒン」
すれ違う人に祝われ、心なしかマルッコも得意気だ。
それはクニオも同じだった。肩で風を切るとまでいかないが、中央競馬に対して抱いていた漠然とした劣等感のようなものが綺麗さっぱり消え去っていた。
「よし、マルッコ今日もガシガシ歩くか」
「ひん」
とはいえ、肩書きが変わり周囲の見る目が変わろうとも日常はやってくる。
次走の予定は未定なれど、日々のトレーニングを確かに過ごす。それこそが競走馬を強くする大切な日常なのだから。
Eコース一周の引き運動でいいと言付けられていた所を結局マルッコに引きずられ二周付き合わされたクニオは、体調不良も相まって息も絶え絶えに厩舎へ戻ってきた。
「ひんっ」
「ぶるる」
厩舎の中から、ちょうど入れ替わりで鹿毛の馬が現れた。鼻先から目元まで広がる流星を持つ、ダイスケこと須田厩舎所属馬ダイランドウとその担当厩務員、大河原拓也(おおがわら たくや)だ。
「あ、大河原さんお疲れ様です」
「おーお疲れさん。マルッコ今戻り?」
「はい。今日は乗り運動やらないんで終わりです」
「そうか。調教師(センセイ)からダイスケの追い切りの話、聞いてるか?」
「ええ。安田の追い切りに併せ馬やる話でしょう?」
安田とはGⅠレース安田記念だ。
オーナーの二転三転する方針の所為で短距離路線に戻ったダイランドウは、春シーズンの最終戦として春のマイル王者決定戦、安田記念を選択したのだ。
ただこの安田記念は上の世代も参加可能な、いわゆる古馬GⅠ路線のレースで、三歳馬がこのレースに参戦することは珍しいと言える。
が、珍しくはあるが無くは無い。近年において三歳で同レースを制した馬も僅かながら存在するし、参加資格が三歳以上であるのだから、参加自体はおかしな事ではない。
問題はダイランドウが、1600m(マイル)をこなせるのかどうかなのだが、そこはダイランドウ自身の精神的成長を祈るより他なかった。
「そうそう。いやさ、あれだけ激しいレースした後だからマルッコも平気なのか心配で」
んー、とクニオはマルッコに目をやる。
マルッコは友好の証なのかそれとも彼等だけに通じる儀式なのか、ダイランドウと額をグリグリ合わせて首相撲のような事をしていた。この二頭。何故だか理由は不明だが、須田厩舎所属馬の中でも妙に仲がいい。見慣れたもので大河原もさせるがままにしている。
「なんなら今日やってもいいくらい元気でしたよ。まぁそれでも二、三日は様子見ておこうってセンセイに言われてるくらいです。木曜追い切りには間違いなく参加できますよ」
「おぉ。そりゃ良かった。じゃあ俺はこれから乗りに行って来るよ」
「はい。いってらっしゃい」
遠ざかるダイランドウにマルッコが間延びした挨拶のような物をしたのを区切りに、クニオはマルッコを厩舎へ引き入れた。
そんなこんなで木曜日。レースに出場する馬が一般的に強めの調教を施す日だ。
本番へ疲労を残さず強めの追い切りをこなせる限界が移動などを含めるとこの木曜日(二、三日前)というのが定説で、競馬予想において土曜日(前日)追い切りが嫌われるのは調教の疲労が悪影響を及ぼすと考えられているからだ。実際の競走結果を見ると、そうであるとも言えるしそうでないとも言える。結局、馬は人間ではないので本当のところは分からない。
マルッコとクニオ、それからダイランドウと大河原はCWコースに居た。
スタンドでは須田が見守っており、無線で大河原に指示を出している。片耳のイアホンから指令を受ける大河原の姿は、妙にアナログなところがある羽賀での調教と比較して幾段か格好良く映った。
「それじゃあマルッコに1ハロン先行してもらって、直線に向いたら1600まで追う感じで」
「了解です。合図とか必要ですか?」
「いんや、適当に始めてくれ。こっちはこっちで時計取れるから」
「はい。じゃあいきます!」
クニオの合図にマルッコはじわっと駆け出した。やがてクニオがそれなりに走らせる気である事を察すると「お? 今日はいいの?」と足の回転を速めていった。
足取りは軽い。やはり思っていた通りレース後の疲労は少ないようだ。
ややあって後方でダイランドウがスタートした。離れていても響いてくる力強い足音だ。
さすが世代を賑わせた一頭だと感じさせる。
すると。それを見たマルッコが何かを察した。
察したように、背中越しで鞍上のクニオには感じられた。
(あれっ、あれっ、アレアレアレ……何か速いぞ。平気かこれ)
何か速い。正確なカウンティング(200mごとのラップを体感すること)が出来ないクニオには大まかに速いか遅いかぐらいしか分からないが、その感覚で行くと今のマルッコは明確に『速い』のほうだった。
マズイと思ったとき、既にマルッコは臨戦態勢だった。レースで見せるダイナミックな掻き込みと力強い踏み込み。スピードがぐんぐん上がったままトラックのコーナーに飛び込んだ。
「ひっひーん!」
遅れて後ろの方から馬の嘶き。恐らくダイランドウの物。
あ、こいつダイランドウと競走できてはしゃいでるな!
それが分かったところでクニオでは"こうなった"時のマルッコの宥め方を知らない。というより基本的に"こうなる"と誰の制御も受け付けない。
試しに手綱を引いてみるが逆にハミを取られる始末。「やっべーどうしよう」と考えているうちに馬体が直線を向いていた。
背後から迫る力強い足音。ちらりと振り返ればダイランドウが物凄い勢いで迫っていた。
ぐいっと手綱が引かれる。もうどうにでもなれとクニオは手綱を緩めた。
二頭は馬体をびっしり合わせてウッドチップの直線を駆け抜けていく。差されれば差し返し、仮にレースだとしたら実況が大興奮するような熱戦は、最後にダイランドウがもう一伸びしたところが1600mゴール地点だった。
クニオは馬上で小さく息を吐く。想定と異なったがいい追い切りが出来たのではないだろうか。あとはペースを緩めてクールダウンさせれば。させれば……
「お、お、おいマルッコ? もう終わりだぞ」
手綱から伝わる不穏な手応え。
制止を訴え手綱を引くと一気に耳が絞られた。荒げた鼻息が「邪魔すんな!」とでも言いたげに吐き出される。ここに来てクニオも察する。これはヤバイ。
隣を見る。大河原もなにやら馬上であたふたしている。
「こらこらこらダイスケもう終わりだ! 落ち着けって、おち……のわああああッ!」
「あぁぁ大河原さ、おわあああああッ!」
制御不能に陥った二頭は馬体を併せたままコーナーに飛び込み、その際乗馬を御するため前方を確認していなかった大河原と、そんな大河原を見て前方を確認していなかったクニオは急なコーナーの揺れに耐えられず馬上から吹き飛ばされた。
伊達に羽賀でマルッコに振り落とされ慣れていないクニオはすぐさま受身を取って両馬に目を走らせた。
背中の重石が無くなって清々したと言わんばかりに、二頭は馬体を併せたまま颯爽とコーナーを爆走して消えていった。
「……あっ! 大河原さん大丈夫ですか! ってちげぇ、放馬あああああああああああああぁぁぁぁぁ!」
落馬などで馬が人の手を離れた時は全力で放馬と叫ぶのがマナーだ。マナーというか人の乗っていない馬は大変危険なので報せないと事故が起きる。
うわ! とか、おわ! とか、驚きの声が走り去った方向から薄っすら飛んでくる。
やべぇどうしよう。打ち身の痛みでジンジンしてきた肘を庇いつつ、クニオは天を仰いだ。
「本当にすみませんでした」
その後トラックを爆走した両馬が走りつかれた所を捕獲し、迷惑を掛けた各厩舎へ頭を下げ、ようやく帰って来た須田厩舎事務室。クニオはどこか面白がった表情の須田に改めて頭を下げていた。
「いや、まぁ関係各所に頭は下げたことだし、いいよ。というか併せようなんて言った俺が悪いわ。こっちこそ無理させちまって悪かった。まさかあんな事になるとは思わなかったわ」
「俺のことなんかいいんです。それより馬が、ダイランドウが……」
「あー……そうだなぁ。レース前に放馬してトラック4周とか普通はかなりまずいんだが、ダイスケのやつ、戻ってきたらスッキリした顔しやがってねぇ。案外馬ってのは背中に人間を乗せないほうがいいのかもしれねぇなぁ」
「は、はぁ」
「とにかく、気にするなって。大河原(タクヤ)も身体に異常なかったって話だし。案外これで良かったんじゃないか?」
須田の態度に拍子抜けするクニオだったが、事の顛末を小箕灘に伝えた際に、それはそれは怒鳴られたのであった。
尚、この調教の模様は競馬番組のテレビクルーにバッチリ撮影されており、あまりにも全力全開の二頭を見た解説員が『これはどっちがダイランドウですか?』等と質問する珍事を巻き起こした。
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日本ダービー反省会
1 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxu0
サタンマルッコってなんやねん……
2 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxI0
???「全然違うじゃん!」
P「……」
???「言ったよね!?『ダービーの8枠は20年近くきていないから切っていい』って! この結果は何?」
P(俺にもわかんねーよ)
???「もういいよ!私競馬辞める!」
4 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxu0
スレ立てから30秒でこのコピペもってきたお前の作文能力にびびるわ
7 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxX0
おい横田おまえほんまなにしてくれとんの
25 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxj0
16頭で買えた奴とかいるの?
40 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxA0
単勝100円ならとったぞ
もちろん赤字だ
43 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxy0
単勝……んっ、4700円!w
飯食って電車乗って帰れるな。明日から仕事頑張ろうな。お互い。
66 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxX0
竹田もやほんま
103 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxx30
12番人気か、そうかそうか……
110 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxr0
16-3-6だから12-1-3番人気か700倍は越えそう
大荒れとはいわんが波乱が起きたな
117 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxN0
いやサタンマルッコて
139 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxp0
まじで何が起きてんのかわからない
最後なんでライダー差し損ねたの
152 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxL0
最後足あがってたよな
距離が長かったのか?
185 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxv0
いうて後ろは3馬身だぞ
ついでにいえば着差からみてライダーもレコード走破だ
距離が長かったは言い訳にならん
204 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxh0
ワイ、サタンマルッコノーマーク
ウェブ競馬で血統をみる
父ゴールドフリートで二度見
母父アイネスフウジンで三度見した模様
240 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxe0
いつの時代からタイムスリップしてきたんだよ
256 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxx60
母母父トウカイテイオーwwwwwwwwwwwwwww
279 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxx00
血統表みて吹いたわ
ダ○スタかよw
311 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxi0
よくこんな血統の馬がダービー出れたな
313 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxd0
いうてお前、ルドルフ入れたら血統表だけでダービー4勝やぞ
勝って当然やな(白目
333 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxx00
ゆ、ゆうしょただしきけっとうだな~
352 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxo0
地方だと割りとこんな感じの馬みかけるぞ(居るとは言っていない)
377 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxu0
アイネスフウジンの代表産駒っていうとファストフレンドか
父系は途絶えたんだったか……?
まさか今日日ダービーとるとはおもわんだろ
378 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxQ0
全国の馬産関係者が父アイネスフウジンの牝馬を血眼になって探し始めたようです
395 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxU0
フリートもステマ配合みたいな怪しいニックス持ってたりするのだろうか
400 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxJ0
今世紀最大のフロック
404 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxm0
超超高速馬場になってたとか?
412 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxk0
それに関しちゃ数年前から竹一族が騒いだおかげで馬場の高速化は控えめになっているはず
実際皐月の時も皐月より前のレースは時計が出てなかった。
今の府中も昨日から言うほど時計出てなかったしダービー後の目黒記念も例年並みの時計
しかでてなかった
436 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxD0
じゃあなにあの馬つええの?
437 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxB0
よくわからん
441 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxG0
なんだこの、なんだ……
448 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxg0
俺はライダーに勝って秋まで三冠の楽しみに胸膨らませたかったぞ……
452 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxT0
ワイもや……
455 写真の人 20NN/05/27 ID:xxxxxxxw0
まあまあ君達。マルッコくんすこすこセットでも見て和みたまえ
在庫が増えたぞ
456 名無しさん@競馬板 20NN/05/27 ID:xxxxxxxC0
>>455
おまえー!!!!
ちゃっかり馬券とってんじゃねー!
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羽賀競馬小箕灘厩舎事務室にて。厩舎管理場の調教指示のため羽賀に戻ってきていた小箕灘は、無意識に拳を握り締め、テレビにかじりついていた。
まだ使えるからという理由で置いてある古きよきブラウン管は小箕灘の興奮に感応するかのようにチラチラと画面にノイズを走らせる。
同刻、遥か東の地、東京競馬場ではGⅠ安田記念の戦いの火蓋が切って落とされていた。
ヤニ汚れた画面に映し出される緑の芝生の上をやや長い隊列となって駆ける駿馬たちはまさに激闘の渦中にあった。
《……――800m通過が45秒0! 予想通り速い流れとなった先頭⑦番ダイランドウ!
さぁこのまま行けるのかどうか後続がぐいぐいと押し上げてくる、②番ホワイトナイト⑫番ゴウカケンラン⑪番ビーチドリームこのあたりが一団となってダイランドウに取り付いて直線を向く!
先頭⑦番ダイランドウは手応えがどうだ! ホワイトナイト、ゴウカケンランがダイランドウを交わすか、交わした! しかし内の方ダイランドウも食い下がる!
外のほうでは、ファンタスティールが猛烈な勢いで飛び込んできた!
馬群を割っては⑩番アレクサンド、ピンクの帽子は⑱番ヒエラルキーもスルスルと上がってきている!
残り200!
先頭はホワイトナイトとゴウカケンランが競り合っている!
大外ファンタスティールの脚色がいい! 前の二頭に並ぶか、これは大混戦!
内でもう一度、ダイランドウがもう一度伸びてくる!
ダイランドウ! ホワイトナイト! ゴウカケンラン! ファンタスティール!
並んでゴールへ雪崩れ込んだぁぁーッ!
…………
これは、わからなぁーいッ!》
妙な間を置いて放たれた実況のあんまりな言葉にずっこけながら、小箕灘は肩の力を抜いた。
「テレビの映像だとファンタスティールが優勢に見えたな……いやしかし、ダイランドウもすげぇな。息の入れ方を覚えたのか」
息を入れる、とは力を溜める、に同義だ。全力のラストスパートをかける前に少し力を抜かせる期間の事を指す。日本で見られるオーバルトラックの場合、逃げ先行馬は大体の場合3、4コーナーで息を入れる。マルッコもそのように走っている。
ダイランドウはそれが出来ない馬だった。一度力むと力尽きるまで走らずには居られない困った性質。一生懸命と言えば聞こえはいいが、競馬はただ力走すれば勝てるという物でもない。
それがどうしたことか。なんとあのダイランドウが。マルッコとの併走調教ですら本気駆けしてしまったという、あのダイランドウが、レースの途中で息を入れていたではないか。
800m通過の4コーナーから一度ペースを緩め、直線半ばから再加速。一度は差された馬
達に迫り、あわや差し返した所がゴール板だった。中々どうして見事なレースっぷりだと賞賛したい。
鞍上の国分寺騎手が上手く乗ったのだろうか、いや、そうだとしても馬変わりを感じさ
せる成長っぷりだ。須田さんはどんな魔法をかけたのだろうか、小箕灘の中で須田の評価が更に高まる。
とレースの余韻に浸っていると、入り口のサッシが開かれた。
「小箕灘センセ! 大変だ、大変なんだよ!」
大慌てで飛び込んできたのは中川牧場長、中川貞晴だった。突然の来訪に面喰らいつつ応対する。レースの結果は気になるがテレビの電源は切った。
「どうしたんですか中川さん」
「宝塚記念! 宝塚記念のファン投票!」
「あの、少し落ち着いてください。何を言ってるのかさっぱりですわ」
「だから、ファン投票で3位だったんですよ!」
「はあ。クエスフォールヴとかがですか? でもあの馬今は海外ですよね」
「ちーがーうーよぉ! マルッコ! ウチのマルッコが3位なんだよ!」
「はあ?」
宝塚記念は6月の最終週に行われる夢のドリームレースとして創設された春のGⅠシリーズ最終戦だ。
ファンによる人気投票で上位に選ばれた馬に優先出走権が与えられるのが他のGⅠには無い特色だ。とはいえこの投票は出場賞金に満たない馬を助けるという目的とは外れ、ファンが走って欲しい馬を指名するところに重点がずれているように思われる。
人気上位になった馬に参戦の義務はない。ないが、ファンによる期待をどう受け取るかは陣営次第である。小箕灘はダービーを勝った余韻でマルッコの今後に関しては頭が空白だった。そこへ宝塚だといわれても寝耳に水、まるで頭が追いつかない。
「もちろんマルッコは宝塚記念に出走させますよ! なんと言ってもダービー馬!
いやー楽しみだ! 俺は宝塚とか有馬みたいな世代の入り乱れるレースが大好きでねぇ!
まさかウチの牧場から、よりにもよってマルッコが出られるだなんてなぁ! ワッハッハ!」
「あ、あー……はい。お話は分かりました。中川さんのご意向は取り入れるとして、マルッコの体調次第で参戦したいと思います」
「ん? マルッコはどこか悪いんですかい」
「いえ、ダービーの後も元気いっぱいでしたよ。ただ、あれだけ激しいレースをした後な
もんで、今は少し様子を見ているところですわ。丁度いい、ちょっと電話で確認しましょうか」
レトロな黒電話を回し、クニオの携帯電話を呼び出す。呼び出し音は3回で途切れた。
『はい、お疲れ様ですクニオです』
「おおクニオ。俺だ。今平気か」
『ええ。馬房の掃除が終わったところなんで一息ついてます。どうかしましたか?』
「ああ。今、中川オーナーから宝塚出走の打診があってな、それでマルッコの調子次第で参戦するか決めようと思ってるんだが、どんな様子だ?」
『あ、あの……調教師(センセイ)』
「ん? どうした」
『それが…………』
「が、ガリッガリじゃねぇか……」
翌日栗東へ飛んだ小箕灘が見たものは、肋骨が浮き出るほどゲッソリやつれたマルッコの姿だった。ダービーを一番で駆け抜け、ゴール板前で勝ち誇った輝きは見る影も無い。枯れっ枯れである。額の白丸も心なしかひしゃげて見える。
側のクニオが済まなそうに付け加える。
「ダイランドウと走った辺りからさっぱり飼葉に口付けなくなっちゃって……いつもならすぐに食欲も戻るから平気だろうと思って……」
「そんで僅か数日でこの有様か。いや、細かく様子を聞かなかった俺が悪い。第一様子を聞いたところでマルッコの調子が良くなるもんでもないからな」
「ぶるるる……」
「獣医に診てもらわないとなんとも言えんが、恐らくオーバーワークで飯が食えなくなったんだろう。マルッコも普段通りの心算で走って、ダービーの疲れが重なってこうなった……ってとこか?」
だりー、とでも口にだしそうな様子でマルッコはぐったりと横たわった。
「とりあえず今週は休養だな。運動も乗りは止めて引き運動にまで戻すぞ」
「宝塚は、どうなるんです?」
「とりあえず出走保留でいいだろ。出走表明が多ければそれと体調不良を理由にオーナーは説得する。よしんば出れたとして、回ってくるくらいの気持ちでいれば気が楽なんじゃないか」
頭の空白を埋めた小箕灘は宝塚記念出走に対して、馬の事を考えるならば否定的だった。
かつてウォッカ、ネオユニヴァースといったダービー馬達が三歳夏で宝塚記念へ出走したが、その年の秋の成績は振るわずに終わった。春までの活躍を考慮すれば不自然とまで言われ、その事を小箕灘は強く記憶していた。
また、最大の理由は、秋の三歳GⅠ路線は三歳でしか出場できないが、宝塚記念は来年
以降いつでも出場できる古馬GⅠだからだ。ここで無理せずとも良いのだ。
しかし。
「……まぁでも、見てぇよな。宝塚を走るとこ」
「えっ?」
しゃがみ込んで寝そべるマルッコの口べらを引っ張りながら呟く。
「出るか。宝塚。なあマルッコ?」
「うぃーん」
返事をした訳ではないだろうが、その声は「まかせとけ」とでも言っているよう小箕灘には聞こえた。
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三週間後、6月24日。阪神競馬場パドックは春シーズンのGⅠ戦線最後のお祭りで華やいでいた。
観衆の注目は空前のハイペースでダービーを逃げ切りレコードタイムを叩き出したサタンマルッコに集まっていた。それはマルッコにしては初めての一桁オッズ、単勝8.3倍の四番人気に推されている事にも現れている。もしかしたらあの馬なら一発があるんじゃなかろうか。いやいや三歳の馬が勝つわけないよ。そんな静かなざわめきと期待感がファンの間に広がっていた。
誘導場に連れられて、出場各馬がパドックに姿を現し始めた。
毛艶のいい馬、イレ込んでいる馬、静かな闘志を感じる馬、そんな馬列の10番目にサタンマルッコは現れた。
栗毛、のようなしわがれた黄土色の馬体。ほんのり肋骨の浮き出た痩せた肉付き。その姿は幼駒の頃、貧乏くさいと言われていた風体にそっくりだった。
この瞬間、衆目の意見は一致した。
パドック後サタンマルッコの単勝オッズは急速に落ち、最終的オッズは11倍の六番人気にまで後退した。
「今日は回ってくるだけでいい」
騎乗した横田に小箕灘がそう告げた。
言われずとも、追い切りの時点でまともに動きそうにないことはわかっていた横田は苦笑いを浮かべ、
「まあ、見せ場は作ってきますよ」
と言い残して本馬場へ向かう馬列に加わった。
結局マルッコの身体は元に戻らなかった。いくらマルッコとは言え、生物の基本原則を超越するほどサラブレッドを辞めている訳ではない。疲労を抜くにも相応の時間がかかるのだろう。
馬場に出て、出場各馬が声援に送られながら返し馬をしている最中、サタンマルッコと横田友則は馬場の真ん中を発走地点へ向かって悠々と歩いていた。
開催最終週の馬場はところどころ荒れており、とても走りやすい状態であるとは言えな
い。刻み込まれた蹄鉄の跡や剥げた芝を見て、これまでの激闘の感傷浸るのは夢舞台に選ばれたジョッキーの特権なのかもしれない。
事も無げに、前を向いたまま口だけを動かして横田が呟いた。
「と、いう訳なんだがね、ダービー馬のマルッコ君。みんな今日はお前が走らない日だと思っているらしいぞ」
みしり。たてがみの毛穴が引き絞られたように感じた。
ふふふ。と口元に笑みが浮かぶ。
「一発ぶち当ててやろうじゃない」
「ヒンッ」
当たり前だ。枯れた馬体に湯気が立ち上る。
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《初夏の陽気に当てられて、今年もやって参りましたドリームレースGⅠ宝塚記念。
今年は17頭の選ばれた競走馬たちが、皆さんの夢を背負って走ります。
出走ゲートの前では各馬がゲート入りを始めています。
奇数番号の馬はスムーズに収まり、偶数番号も収まり――
ドリームレース、スタートです!
おおっと一頭落馬! 外の方サタンマルッコはスタート絶好!
抜群の出足で内へ切れ込んでいくサタンマルッコ。ぐんぐん加速して単独先頭のまま1コーナーへ向かっていきます。
落馬したのは③番のオードリー後藤正輝騎手! 空馬は馬群後ろを追走しています。
おっと場内どよめきと歓声。サタンマルッコぐんぐん離す。15馬身、16馬身、これは大逃げ、間違いなく大逃げに打って出ました横田騎手。
この馬はスタミナがある! 単騎で逃がしてしまって良いのかどうか――……》
打ち付ける風と流れる柵(ラチ)。手綱を伝って熱い鼓動が感じられる。
やはり三歳馬だから甘く見られている。横田は内心しめたものだとほくそ笑みながら後続との間合いを計った。
阪神内回りの急カーブ、4コーナーに入っても15馬身以上開いている差は、後続馬を柵越しに見せる。このような大差で直線を迎えた記憶は横田には無かった。
(あれ、これもしかしていけちゃう?)
マルッコだけが直線を向く。阪神競馬場内回りの直線は356mと少し。後続との差は3秒弱。この馬の実力を持ってすれば余裕を持って余りある。
この坂さえ越えれば――!
「ぶひー」
「げっ」
坂の上りに差し掛かった瞬間、背中の感触が変わった。
足の動きが鈍り、呼吸も荒い。限界がきたのだと横田は察した。
背後に足音も迫ってきている。後ろを見ることは出来ないが、もう3、4馬身も無いだろう。
「ふひっ!」
マルッコがハミを取った。まだ行く気だ。勝つ気でいる、勝負を捨てていない。
「マルッコ」
しかし横田は手綱を引いた。ちょうど坂を上りきった所だった。
「今日はここまでだ。秋。秋にまた走ろう」
「ぶふぉ……ぐう」
外の比較的馬場状態のいい所を走った馬の集団がマルッコを交わした。そこがゴールだった。
「また走ろう。マルッコ」
本番は秋だ。敗戦の怒りに震える僚馬を宥めながら、そう言い聞かせた。
数分後、阪神競馬場電光掲示板の三番目には⑩の文字が表示された。
「三着だったな。お疲れ様。羽賀に帰ってゆっくり休めよ」
酔っ払ったサラリーマンのような足取りのマルッコを計量室へ導きながら、次にこの舞台へ立つ時は、と誓いを新たにするのだった。
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宝塚記念 part4
1 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxu0
みとけよ
225 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxE0
さすがにダービーから宝塚は無理あるだろ。
陣営も散々体調が上向かないって言ってるし
227 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxu0
泣きの横田は買えって格言がございましてね
238 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxX0
サタンの調教とかの様子みたら今回はさすがに切りだわ
調教云々ってか馬体がもう無い。ガレてんじゃん
241 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxj0
そりゃあんだけ激走すりゃガレるわな
てかなんで出てきたんだか
242 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxA0
オーナーの意向じゃね
あと栗東所属だし阪神近いから
243 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxy0
何にせよパドックで分かることだ罠
455 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxX0
はい、サタンマルッコ消しで
456 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxx30
おっ、消しだな
457 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxr0
よしガレてる消しで
460 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxN0
予想以上のガレっぷりに草
461 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxp0
マイティウォーム頭でいいな
462 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxL0
クソワロ
465 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxv0
ガレガレのガレwwwwwこりゃないわwwwww
466 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxi0
トモさんも騎乗で苦笑い
666 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxh0
ファンファーレ上手い
阪神はオイオイ民いないから好き
670 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxe0
オイオイ厨名誉顧問サタンマルッコ
675 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxx60
現地にいたけどコールアンドレスポンスは意外と楽しかった
たぶん二度とあんなことないんだろうけど
681 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxx00
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおいいいい
682 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxi0
なんかおちたぞwwwwwwwwwwwwww
683 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxx50
あああああああああああああああああああああああああ
684 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxp0
後藤wwwwwwwwwwwwwwww
685 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxx60
マルッコ絶好いつもの
686 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxv0
コイツ本当にスタートはええな
687 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxS0
よしよしミューズは内入った
688 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxr0
げサタン離してる
689 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxp0
後ろおせーよ逃げてんのダービー馬だぞ
690 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxx60
おいおいおい大丈夫かたのむぞまじで
691 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxi0
実況メートルじゃねえ馬身でいえ
692 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxk0
カメラひきすぎわろす
693 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxr0
やばいこれ逃げ切られる
694 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxv0
おいおえhあやk
695 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxC0
ここ阪神だぞ捕まえられんのか
696 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxT0
やべ
697 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxx/0
やばい
698 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxR0
ほわあああああああたすかったああああああああああ
699 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxv0
ああああああああああああびびらせやがってええええええええええええ
700 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxx0
ばかやろう差すならもっと速く動けかすぼけ!!!!!!!
701 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxl0
直線入ったサタンマルッコの手応えでびびった奴の数ってスレたてよう
797 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxa0
外の三頭で決まりか?
802 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxg0
いやわからんワンチャン残してるかも
804 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxy0
いらんいらんいらんから
810 名無しさん@競馬板 20NN/06/24 ID:xxxxxxxy0
あ
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新緑の牧草地とすぐ隣の柵に囲まれた農地。アンバランスというか不自然なその場所こそマルッコの故郷、中川牧場だ。
ダービー、宝塚記念と春の激戦を終えたマルッコは故郷中川牧場で秋競馬への英気を養っていた。とはいえその生活は賑やかなもので、
「あ! こっち向いた……写真取って写真!」
「マ、マルッコくんかわいいなぁ」
新聞や雑誌、ニュースでマルッコを知ったミーハーなファン、競馬好きな熱心なファン、テレビや雑誌の取材員、時期的に夏休みなのも相まってそうした見学者達が後を絶たない。
一般的にサラブレッドは臆病な生き物だ。大きな音、見慣れない物、嗅ぎなれない匂い、それらに敏感に反応してしまう。
ともあれそれは一般的なサラブレッドの話で、マルッコのような図太く人懐っこい馬にはあまり関係が無い。せいぜいが気疲れするくらいだろう。
今もカメラを向けたファンに対し、「プーマか? プーマのポーズ決めていいんか?」とでも言いたげに、後ろ足立ちで探り探りポーズを決めようとしている。
牧場事務所では地元の商工会と協力(びんじょう)して作った『マルッコ饅頭』や『マルッコ煎餅』が売りに出されている。どちらも元から丸く、マルッコの額の星にあやかって丸いマークを押しただけの代物だが、そんな物でも飛ぶように売れ、中川牧場の財政を、延いては羽賀競馬周辺を潤した。
世はまさに、マルッコフィーバーだった。
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キーホルダーの無い無機質なシリンダー錠。それが彼の家の鍵だった。
勝手知ったる他人の家。男は友人宅の鍵を開け、無造作に廊下を進んだ。
鼻腔をくすぐる酒の臭い。リビングの扉を開けば、それはより濃度を増して纏わりついた。
乱雑に転がされた酒瓶は一応生活への配慮からかテーブルを中心に散乱しており、整頓された家具に反してそこだけが荒んでいた。側にはソファーで体を丸めている家主。三日前、部屋の掃除をしたのは男だ。記憶の画像を重ねてスライドさせれば、酒瓶以外がぴたりと符合する事だろう。
「また、飲んでいたのか」
声をかければ男の友人はもぞもぞと顔を向けた。
「…………ん。誰だ? ケルニーか?」
「そうだ。お前のママ役を遣わされているケルニー様だ」
「もう三日経ったのか」
ケルニーが友人のマネージャーから世話役を仰せ付かったのは、もう二年も前の話になる。友人は心を悪くしていた。
「クリストフ。そんなに酒ばかり飲んでいては身体を壊すぞ。お前の復帰を待っている人達が沢山いることを忘れるな」
「俺はもう乗らない。放って置いてくれ」
「こっちも金貰ってメードみたいな真似してる以上は義務があんだよ。本気で言ってねぇよ。だがなクリストフ、お前の健康を心配する俺の気持ちは本当だ。飲むな、とは言わないが、もう少しだけ俺を安心させるような生活をしてくれ」
「……悪かった」
クリストフと呼ばれた男は赤焼けた顔でぶっきらぼうに言い、テーブルの酒瓶に手を伸ばす。しかし目的の物まで手は届かない。ケルニーの手が遮っていた。
「ミネラルウォーターを飲むだけだ」
「ここに水があるってことは、一応割って飲むっていう理性が残っていたんだな」
「ストレートでなんてキツすぎて飲めたモンじゃないさ。俺は酒の味を楽しむ派なんだよ」
少しもそうとは思わせない口ぶりでペットボトルの水を呷った。
それを見届けて、ケルニーは転がされた酒瓶たちの片付けを始めた。
「シャワーでも浴びてきたらどうだ」
「汗はかいていない」
「そうか。あぁ、鞄の中に雑誌がある。適当に読んでいてくれ」
聞いているのかいないのか。クリストフはソファーに背を預け天を仰いでいた。
裏庭の集積場所へ瓶を片付けリビングに戻ってみると、クリストフは雑誌をぱらぱらと興味なさそうな目でめくっていた。一応、彼が能動的に興味を示したバイクの雑誌を持ってきてみたのだが、この様子ではさしたる暇つぶしにはならなさそうであった。
「…………最近じゃバイクの雑誌にも競馬の記事が載るのか」
ああチクショウめ。その話題を避けて雑誌を選んだというのに、よりにもよってそんな特集組みやがって。脳内で数十通りの呪詛を編集者へ吐きながらケルニーは取り繕った。
「へえ。まあバイクの雑誌だって少しはニュースを取り扱ったりするモノだろ?」
「それもそうだな」
手の進みを見るに、どうやらクリストフはその記事を読むことに決めたらしい。青い瞳が静かに文字を追っている。
平気そうか。そう肩の力を抜いた時だった。
「ケ、ケルニー……」
友人の声は震えていた。
「どうした?」
「この記事に書いてあることは本当か?」
「はぁ? まだ読んでないから知らないよ」
「見てくれ」
促されるまま側へ寄り雑誌に目を通す。
記事には『日本ダービーの勝ち馬、サタンマルッコ。圧巻のレコードタイム』とあった。
「競馬のことはさっぱりだ。だけど、ダービーの勝ち馬を間違えるなんてことは無いんじゃないか」
「違うんだ。違う……これは……これはセルクルだ。いや違う。いやでも……」
何事か、ケルニーには分からない言葉で呟いたクリストフは、やがて決然と顔を上げた。
「少し出かけてくる」
「は?」
言うが早いか、ジャケットを羽織り身の回りの物をポケットへ詰め込んで玄関へ向かって行く。ケルニーは慌てて追いかけた。
「お、おい。家はどうすりゃいいんだよ」
「いいようにしておいてくれ」
「待て待て待て! 行き先くらい教えていけ!」
玄関口の扉に手をかけたところだった。
「ニホンに行ってくる」
振り向いたクリストフの瞳は、かつての理知的な光を湛えていた。
-----
▼▼▼
「はい皆さんどうもこんにちはこんばんは。タケダダケTV春シーズン終了版でございます。
この番組ではJRA栗東所属騎手、竹田豊と司会の私、宮前譲一がゲストの皆様をお迎えして春競馬を回想する、という番組となっております。お相手はお馴染みこの方!」
「どうも。竹田豊です」
「はい。ということでねタケ君。今年の春競馬も終わったという事でね。ああ今年もタケダダケTVの時期がやってきたなって感じがしていた訳ですけれども。どうでした今年前半戦を終えてみて」
「うーん。毎年色々あるけど、今年も色々あったなって感じです」
「そらそーだ。じゃあその色々あった春競馬。振り返ってまいりましょう。
まずはこのコーナー。ジーワン、メモリィバァック!――……」
「……――てことがありましてね、この時は思われてた以上に必死でしたよ」
「タケ君っていつものほほんとした顔してるから、必死って言われてもちょっと想像つかないよ。
じゃあ次へ行って……はい。いよいよお待ちかね、日本ダービーです!」
「きちゃったかぁー」
――竹田騎手は苦い表情。
「今年の日本ダービーはそれはそれは大事件が起きましたね。皆さんご存知の通り、羽賀競馬出身のサタンマルッコ号が日本ダービーを制覇。地方出身馬としては初の偉業を成し遂げました。
そして! 今日はなんと! そのサタンマルッコ号主戦騎手である横田友則さんをお招きしております。どうぞ横田騎手!」
――スタジオ脇から現れる横田騎手。和やかな笑顔だ。
「どーも横田友則です」
「いやぁーダービー初制覇、おめでとうございます!」
「あざっす!」
「この人はぁ!」
――満面の笑みを浮かべる横田騎手。一方竹田騎手は渋い笑い。
「横田騎手は長年ダービーを勝ててなかったですが、念願かなってついに初制覇。しかもその様々な記録やジンクスを破っての劇的大勝利。連日報道されご存知の方も多いでしょうが、今一度申し上げますと。
まず地方出身の競走馬による日本ダービー初制覇。
次に青葉賞トライアル組からの日本ダービー初制覇。
ほぼ同意義ですが2400m以上経験馬による日本ダービー初制覇。
18頭立てになってから8枠16番での出走で日本ダービー初制覇。
さらにレコードタイムを更新し、何より鞍上横田でダービー制覇。これでしょう」
「ちょっとちょっとやめてくださいよ、もう勝ったんだから許して!」
「うふふ。それでどうですか横田さん。ダービージョッキーになって」
「最高ですね。やーこれで横田ダービー友則ジョッキーを名乗れますよ。ねぇ竹田ダービー豊ジョッキー」
「この人、最近酒の席とかずっとこんな調子なんですよ? だから宝塚じゃ絶対この人に負けないって決意してましたもん」
「それだけ喜びも大きかったということでしょう。そして横田ジョッキーは日本ダービー制覇を持ちまして、JRA全GⅠ競走完全制覇という偉業を達成いたしました! クス玉もどーん!」
――宮前がヒモを引くと、クス玉が割れて中から【横田騎手おめでとう!】の文字。
「スタジオに入ったときからこのクス玉なんだろうってずっと思ってたんだけど、トモさんのための仕込みだったんですか」
「いやぁ、祝っていただけて嬉しいです」
「尚、タケ君も同実績を達成しているので、この場には二人のグランドスラムジョッキーとでもいうんですかね、そんなお二人が揃っている訳ですよ。まさに大正義タケダダケTVといった具合で、日本ダービーのレースを振り返って行こうと思います!」
――日本ダービー発走直前のゲートの様子が映し出されている。スタートし各馬一斉に走り出す。
「⑯番のサタンマルッコが絶好のスタートを決めて、そのまま先頭に立ったと。
内のほうではタケ君のストームライダーやラストラプソディーも好スタート。このお馬さんたちもスタート上手よね。タケ君はこのときどうだったの?」
「スタートは良かったので行く馬いなかったら行っちゃおうかなとは思ってましたよ。外からサタン(マルッコ)が行くの見えたし、スティールソードも二番手を取りにいったから、じゃあその後ろでいいかなって感じで収まりましたね」
「1コーナーから2コーナーに差し掛かる頃には隊列が出来上がってたと。そしてここで場内からざわめき。サタンマルッコが後続を引き離して大逃げになっていたと。この辺はプランどおりだったんですか? 横田さん」
「ええ。ストームライダーに勝とうと思ったら前の競馬になると思ってたんで、その中で今回はこういったレース運びにしよう、というのは戦前からありましたね。
それと大逃げを打っているように見えるんですが、実はちょっと違うんですよ」
「と、いうと?」
「レースのラップ見てもらうと分かると思うんですが、この1コーナーでのリードはスタートでの差そのままなんです」
――サタンマルッコは(1F計測タイムそれぞれ秒)11.7-10.6-11.4-12.2-12.4で1000mを通過している。
「スタートだけで平均的な馬より1秒近く速い。後は出たままのスピードを維持すれば、だいたいこのくらいのタイムになりますね」
「1000m通過が58.3秒と。実況の馬場園アナも言っていましたが、ダービーとしては明らかに速かったですよね」
「タイムとしてはそうですね。けど本当に無理に力を入れた逃げでもないんでね。楽に行かせて貰ってますよ。これがダービーじゃなければ、僕は1コーナーで勝ちを確信していた位です」
――どこか納得した表情の竹田騎手。
「向こう正面に入っても先頭は変わらず。後ろも殆ど変わらなかったのかな? ここから12.4のラップタイムが続くと」
「実を言うとこの辺覚えてないんですよね。時計刻むのに集中してて、マルッコが息を入れる音で直線向いたって気付いたくらいで」
――4コーナーを曲がり直線を向くサタンマルッコと、それを猛追するスティールソードとラストラプソディー。
「ここでラストラプソディーとスティールソードが傍目には足の上がったように見えたサタンマルッコを追い抜こうとペースを上げました。このときタケ君のストームライダーはまだ馬群の先頭で後方集団と一緒にペースを上げてましたね。これは?」
「前の二頭がサタンを抜きに行ったのはすぐ分かったんで、包まれないように後ろとペースを合わせながら足を温存していました。仕掛けのタイミングとしてはちょっと早かったと思ったんでね」
「実際にそうなりました。仕掛けた二頭はサタンマルッコを交わせず坂の終わりで足を鈍らせます。この辺りでタケ君も仕掛けてますね。一瞬で二頭を抜き去って、さあ後はサタンマルッコだけとなったのですが」
――距離が詰まらないままゴールへ進む二頭。
「この時現地は凄い声援でしたね。声援っていうか、悲鳴と絶叫?
馬場園アナが最後に『どういうことだ!?』って実況するんですけど、私も何が起きてるのか分からなかったですねぇ。横田さんはサタンマルッコにどんな魔法をかけていたんですか?」
「物凄く端的に言うなら、足が残ってたってだけですね」
――椅子からずり落ちる真似をする宮前。
「あそこで足を残せるっていうのがサタンマルッコの才能ですね。抜群のスタート、強い心臓、僕が乗りたい理想の逃げ馬そのものですからね、マルッコは」
「ははぁ。最後なんか伸びてましたもんね。あの時僕、内が伸びる馬場なのかなって思ってましたよ」
――得心が行ったと竹田騎手はなんども頷く。
「そういえば横田さんはサタンマルッコとどこで接点を持ったんですか?」
「マルッコが阪神の未勝利戦に出てきた時ですね。その時僕も騎乗していたんですが、ずっと折り合わないまま圧勝して、ゴールした後も息が乱れて無くってね。こりゃすげぇ馬だって思って、マナー違反は承知の上ですぐ営業かけましたね。
けど次走に声がかからなかったからダメかーって半ば諦めてたんですけど、青葉賞から乗ってくれって言うじゃないですか。そりゃもう飛び上がって喜びましたよ」
「それじゃあ横田さんの慧眼は正しかったわけですね」
「そういう結果に結びついて、本当に良かったです」
――ゴール板を先頭で駆け抜けるサタンマルッコ。
「そして戴冠。終わってみれば府中12ハロンをレコードで逃げ切り勝ちと非常に強い内容。いやぁなんかこうやって振り返るとね、勝って然るべきであるように思えるんですがね。サタンマルッコの普段の様子を見ていると、どうにもちょっと、そうは見えないというかなんと申しますか」
「あはは。マルッコは変な馬ですからね。けど実力は本物ですよ。それに本当に可愛い奴なんで、皆さん引き続き応援よろしくお願いします」
「ここでちょっとCMです。ウェブ番組だからってCMを飛ばしちゃいけませんよ!」
Qサタンマルッコの名前の由来は?
元々は違う名前だったんです。私の字が汚すぎてサタンに読み間違えられてしまって。
本当はうちの冠の『サダノ』マルッコだったんですよ。
なんか、ダの濁音が『 ` 』にみえたらしくて、『サタ`ノ』になって、サタの次にソ
はおかしいからンだなってサタンマルッコになったんだそうです。
マルッコのデビュー戦の時は驚きましたよ。何か似てる名前の馬がいる。こんな事もあるんだなーと思って出走表探すじゃないですか。サダノマルッコの名前が無いもんですから、当然小箕灘センセイにきいたんですよ。そしたら名前の事が発覚したんです。
勝っちゃったからもうそのままでいいかなって思って今日に至っています。
「え、こんな理由だったの」
「トモさんも知らなかったんだ」
「ということで引き続きお話を伺って参りたいと思います。では春シーズンの締めくくり、宝塚記念です」
――阪神競馬場の馬場を悠然と歩くサタンマルッコの姿。
「横田さんにお聞きしたかったんですが、やっぱり宝塚記念、サタンマルッコは調子を崩していたんですか?」
「ええ。身体つきを見てもらう通り、はっきりと悪かったですね」
「それはダービーの激走が原因で?」
「んー根元の部分はそうだと思います。だけど、ダービー終わった後も元気ではあったんですよ。そのあとの中間でちょっと暴れちゃって。そこから疲れが噴出しちゃった感じだと伺ってます」
「あーダイランドウ全力暴走事件ですね」
「あの時僕栗東にいましたね。スタンドにいたんで、なんか騒がしいなって思った記憶があります」
――ダイランドウ全力暴走事件。須田厩舎所属馬ダイランドウが同厩舎滞在中のサタンマルッコと安田記念への併せ馬追い切りを行った際、制止する騎手らを振り落として空馬のまま僚馬サタンマルッコとCWコースを4周した。あまりに激しい走りっぷりから目撃した新聞記者が面白がって記事にした。
「だから本番も、勝ち負けまでは無理かなと思ってたんですよ」
「と、言っておきながら勝負を仕掛けた横田さん。映像を進めていきましょう」
――一頭落馬を横に見ながら、相変わらずの絶好のスタートから早々先頭に立ち、ぐんぐんリードを広げていくサタンマルッコ。
「このレースは力を使って逃げましたね。もう間違いなく切れる足は使えないと思ってたんで」
「大きくリードを取りました。最大25馬身ほど差が開いていたようですね」
「あ、そんなあったんですね。4コーナー回った時、あまりに後ろが来ないから一瞬いけるかもって思ったりはしましたけどね。タケ君なんかも一瞬まずいかも、とか思わなかった?」
「いや、僕はトモさんの馬差す気マンマンでしたから」
「またまたそんな事言ってぇ。で、どうなの?」
「………………ちょっとは」
――横田騎手、大喜びで手を叩く。
「実際レースを見ている立場でも逃げ切っちゃうかも、って思わされましたね」
「普段のマルッコなら残せたとは思います。馬もあの時行こうとしていたんですけど、ただやっぱり秋のことを考えたらアレ以上はね」
「懸命な判断だと思いますよ。三歳のこの時期にきついレース連続して走らせるのは後に引きますもん」
「そしてレースの方はタケ君のモデラートが差しきって勝利を収めたと」
「ダービーでの借りは返しましたね」
「いやいや、それは秋でやろうよ」
「ああそう横田さん。サタンマルッコは秋の初戦とかどうなんですか?」
「特に聞いてないですね。放牧から戻ってきたら調子を見てって感じだと思います。賢い馬なんで、レース間隔が空いても問題ないから、トライアル使わず菊花賞直行もあるんじゃないかな」
「まさに王者のローテーションって感じですね。タケ君はストームライダーのローテ何か聞いてる? というかそもそも菊花賞は行くの?」
「勿論菊花賞には出場しますよ。今度はこっちが挑戦者です。
どこかのトライアルを使う、とは聞きましたが詳細はまだまだ先のことなので」
「ということは両馬の激突がまた見られるということですね。秋の楽しみが増えたなぁ!
と、いったところで次のコーナーへ!――……」
▲▲▲
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医者には趣味を持つことを勧められた。
趣味。なるほどな。あの日以来色を失っていた心がさざめいた。
幸いにして金は余るほど持っていた。これまで趣味と仕事は同一だった。物欲とも縁が遠かった。女を抱くのは嫌いじゃない、だけど女に手間をかけるのは嫌いだった。過ぎれば仕事の邪魔になると気付いてからは特定の女と関係を持つことを止めた。
それでよかった。だって一番楽しい遊びが、騎手(しごと)だったのだから。
手近なところから、勧められた内の一つ、自転車を始めた。
最初は運動がてら、徐々に走ることを目的としてコースを選別するようになった。
だが、自転車では遅いと感じた。
己の足でペダル越しに大地と繋がる感触が不快だった。
それならば、と次はバイクを始めた。
やはり最初はそれほど複雑な事はせず、排気量や運動性を調べ、乗りやすい物を選んで乗った。
やがて速度に不満を覚えフリーウェイに乗り出すようになり、チューンで限界速度を高めるようになる。最早何のために速度を出すのか分からないような乗り物が出来上がった。砂漠の国道を走った時、向かい風がただ虚しかった。
分かっていた。自分がそれらに何を求めていたのかは。
度し難い事に、私は私が壊してしまった相棒の代用品を求めて彷徨っていたのだ。
自転車もバイクも、それぞれに魅力があるのだろう。自動で、自力で、自在で速くて。
だが、それは一人だ。独りでしかないのだ。
私は知っている。言葉を交わせずとも意志を疎通し、同じ目標へ向かって共に駆ける存在を。
競馬だけなんだ。二つの生命が一つとなって戦う競技は。
私を殺してしまった私はどうすればいい。どこへ行けばいい。何をすればいい。
どうして運命は私をあのロンシャンで殺さなかった。どうして私は庇われてしまったんだ。君に救われたこの命で、私は何をすればいいんだ。教えてくれセルクル。助けてくれセルクル。君がいないと、寒いんだ。
「お客様、お客様」
「……ぅ、うあ……?」
「大丈夫ですか? うなされていたようですが」
混濁とした意識が人面相を捉える。酷く歪んだ映像が女性のものらしき顔を認識した。
キャリアアテンダントだ。飛行機。機内。行き先、ニホン。脳が覚醒し単語と目的が連鎖して蘇った。
「夢見が悪かっただけだ。問題ない」
「さようで御座いますか。もし、お手伝いできる事が御座いましたら、お申し付けください」
「ああ……あ、君。到着まであとどれくらいか分かるかい」
「もう間もなく着陸の態勢に入ります」
「そうか。ありがとう」
チップを渡し、ペットボトルの水を口に含む。水は予想以上に身体に沁みた。
旅客機が着陸の軌道に乗せるため機体を傾かせた。翼の向こう側に大地が遠望できた。東京は夜だ。町の明かりが消え掛けた焚き火のように広がっている。
フランスからここまで12時間。目的地にはもう少しだけかかる。
羽賀という地名には聞き覚えが無かった。騎手として来日していた頃も、そのような地方で騎乗を請け負ってはいなかったはずだ。
とはいえサタンマルッコという馬はその羽賀という土地に居る。知っていても知らなくてもなんとかしてたどりつかなくてはならない。
もう一度飛行機に乗り込み、九州へ飛ぶ。九州は訪れた事がある。確かコクラという競馬場でレースをしたはずだ。
空港でアテンダントに場所と道を尋ね、翻訳サイトと地図を頼りに目的地を目指す。
情報サイトによれば、サタンマルッコなる競走馬は現在休養で生産地に戻っているのだそうだ。日本語を強引に翻訳して表示しただけなので、微妙な意味合いに不安が残るが、他にアテがない以上当たってみるしかなかった。
羽賀に到着した時は既に日も沈み夜だった。翌朝改めて訪問する事とした。
明けて翌日。中川牧場を訪れた。なんというか、みずぼらしい場所だった。ニホンにもこんな場所があったのかと新鮮な驚きを覚えた。
牧場の主に話を聞くと、今日は競馬場のイベントに出演しているらしい。入れ違いだっ
たようだ。
とはいえ時間的にはもう終わっているはずで、戻ってこないところを見ると今頃は競馬場と牧場の近所である(そう、この牧場と競馬場は歩いて行けなくも無い程度に近いのだ)砂浜で遊んでいるのだそうだ。フランスの馬産地は海沿いにないので珍しい風習だと感じた。
そして私は一つ愚かな間違いを悟った。早い時間にきたつもりだったが、時計の針がフランスのままで随分と遅い時間に牧場を訪れてしまっていたらしい。
場所を教えてもらい、海岸へ向かって歩く。
海の音が耳に届くようになって、すぐに砂浜が現れた。
海岸にいるといっていたが、遠目にはそれらしき馬も人も見当たらない。とにかく降りてみる事にした。
しかし。
私はここまでやってきて、何がしたいんだろうか。
あのセルクルと同じ星を持つサタンマルッコという馬に会ってどうなるんだろうか。
私の罪の意識が薄れるとでも言うのだろうか。それこそ笑い話だ。今更贖罪を求めるなど己が恥ずかしくなる。
いつしか私は地面を向いていた。砂を踏む薄汚れたスニーカーで背中を丸めた自分の影を追っているかのようだ。
急速に頭が冷えてきた。やはり私は冷静ではなかったのだ。こんなことをして何の意味がある。
いつしか歩みも止まっていた。
帰ろう。そう思った時だった。私の影を、より大きな影が覆い隠した。
顔を上げる。
栗毛の馬だ。どういう訳だか頭絡だけで鞍も乗せていない。くりくりした可愛らしい目をしている。どうした? とでも言いたげな表情で首を傾げこちらを見つめていた。
ああ。
覚えがある。額の白丸の星にも。その表情にも。
ああ。ああ。ああ!
「ひん」
ようジョッケくん。久しぶりだな。元気かい。
聞こえるはずの無い、そんな声が聞こえた気がした。
私の喉から、したくも無い懺悔が次々と飛び出した。女々しい感情が吐露された。
凪いだ表情でそれを見つめていたその馬は、やがて私の前で膝を突いた。
「ひーん」
背中を差し出しているのだと直感した。
馬具も無く、どころか手綱すらないその馬に、私は跨った。馬が立ち上がる。
ああそうか。
空と大地。高くなった視点。
そうだった。
私はこの日、悪夢より目覚めた。
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