第10話 噛み砕いて、踏み越えて
1.
ミルは、母が好きだった。優しくて、子どもの目から見ても綺麗で、小学生の頃は友達に大いに自慢したものだ。
だが思春期を迎えるとともに、その好意は複雑な感情で阻害されるようになった。
原因は分かっていた。母の仕事だ。時々家を空けるのは、サキュバスとしての仕事をこなすためである。それがどうにも受け入れられなかったのだ。
なぜならば、帰宅後嬉々として戦果を報告する――それも夕食の席で――その内容は、赤裸々にも程があるいやらしいものだったのだから。
そして、それをまた興味津々で聞き入る姉たちに同調せねばならないことも苦痛だった。
そう、ミルはダメだったのだ。男女に関するあんなことやそんなことを見聞きするのも考えるのも。まして、自分が大人になったら
専門学校入学前夜、ついに堰を切ったように心情を吐露したミルだったが、母と姉たちの反応はいたってドライだった。
『すぐに慣れるよ。気持ち良くなるから』
そんなものだろうかと内心鬱々として入学した次の日の座学で、やはりダメだった。怒涛のごとく押し寄せる猥語と画像の波に、ミルという小船はあっさり転覆してしまったのだ。
具体的には目を回してしまい、気がついたら保健室に搬送されていた。担任の教師が付き添って。その場での三者面談で教師と母が見せた目つきは、ミルの心に深く刻み込まれた。
『この出来損ないめ』という、ミルを全否定した目つきだった。
その切り裂くような視線が、際限なく、あらゆる角度から襲ってくる。悲鳴を上げても、苦しみもがいても、誰も助けに来ない。この針の筵から逃れるためにすがった父すら。
ついに目を硬く閉じ、顔を両手で覆って、ミルは泣き続けた。
イリューシュが勢い込んで開いた屋敷の扉。その向こうは、家財道具すら無くなった、空っぽの大広間だった。かつて壁を飾っていた由緒あるタペストリーも、室内にきらびやかな光を取り込んでいたステンドグラスも、全て消え失せている。
それは、父の短くも厳しかった闘病生活とイリューシュの修行を支えるための費用を捻出するために、売り払われた結果だった。
いやそれよりも、本来そこにいるべき人々がいないことが、空虚さを増幅させているように思われた。屋敷に仕える使用人や、家臣たち、一門の面々がいないのだ。修行を終えて戻ってくると連絡したはずなのに。
ふらふらと大広間の中へ進むと、遮る物は枠だけになった窓から寒風が吹き込んで、イリューシュの心を凍らせた。同時に、聞くに堪えないヒソヒソ声が風に乗って室内を跳ね回る。
『トルドゥヴァもお終いだな』
『あんな小娘一人しか残らなかったとは、無残よの』
『あれで面構えだけは一人前だから、始末に負えん』
『許婚にも去られたらしいぞ。どうだお前もらってやれよ』
『あんな貧乏小娘を? おことわ――「うるさい!!」
双剣を抜き、悪口を閉じさせようとむやみに振り回す。だが剣は空しく宙を切り裂くのみ。その風切り音すら嘲弄の笑声に聞こえてきて、イリューシュの心は折れた。
気がつけば、自らが振るった剣で総身に傷を負い、見えない血を流してイリューシュはのたうち回り続けた。
津美零が出身地を離れたのは、中学卒業の時。そこまでが限界だったのだ。両親からも親族からも無視され、施設で育った彼女にとって、出身地は苦界でしかなかった。
無視された理由は分からない。誰もが津美零に関わることを拒否し、ネグレクトの理由すら明らかにしなかった。
そう、学校でも、事務連絡の伝達以外で津美零と接触してくる人はいなかった。施設の職員すら、腫れ物に触るように彼女を扱い、必要最低限の会話しかしてくれなかった。
その理由がようやく分かったのは、中学2年の時。それは、体操服が教えてくれた。
いつの間にか極太のペンで大書されていたのだ。
『産まれてこなくてよかったのに』
その言葉に、先日耳にした施設職員の茶飲み話の内容が合わさって、津美零は全てを理解した。
自分は、この街に住む有力者の子として生まれ、すぐに捨てられたのだと。父の火遊びから産まれた、望まれぬ子だったのだと。
街はおろかこの地方有数の名士である父の影響下から逃れるため、津美零は猛然と勉強し、遥か遠くの高校に合格した。寄宿舎に住み、奨学金ももらえる身となったのだ。
だが、父の下から脱出しても、次の苦難が待ち受けていた。彼女は他の生徒とコミュニケーションを取る術を知らなかった。みんなが何をしゃべっているのかさっぱり分からなかったし、何が流行っているのかも知らなかった。
そのそそり立つ壁に、津美零は挑んだ。
全員の会話に耳を澄まして――幸か不幸か、周囲の雰囲気と流れを読むことはこれまでの彼女にとって必須のスキルだった――知らない単語を調べ、会話に対応する。多いとは言えない奨学金をやりくりして、必要なアイテムを入手する。
そうやって少しずつ交友関係を広げ、彼女は崖を登る。
もう手も指も、崖にへばりつく身体もボロボロなのに。
『三つ子の魂百まで』は至言なのだ。まして12歳までまったくやってなかったことを、無理してやってるのだから。
痛い。痛い。もう休みたい。少しだけ、少しだけ。
「お姉ちゃん……」
いるはずのない者の名を呼んだ時、身を委ねるのに手ごろなくぼみが津美零の前に突如現われ、彼女の登攀は止まった。
ユンの放った雷球が消滅した地点は、神通力検定を受けたどの神よりも近かった。試験官は表情を変えずそれを記録して、その場から去っていく。
去っていくのは試験官だけではない。パパもママも、兄弟姉妹も、学校の友人たちも、全てが遠くなり、ユンは『為リ損ネ』として施設に収容された。
そこは、まさに必要最低限と表現するにふさわしい待遇で"生かされている"場所。神界外での活動に必要な知識を得るための座学とトレーニング以外は何も無いのだ。
その中で、ユンたちが楽しみにしたのは、実はその座学だった。人間界に送り込まれた時不自然でないようにと、さまざまなカルチャーを学ぶ。その資料に魅入られたのだ。
ヒトが笑い、泣き、戦い、挫折し、成功を勝ち取る。あるいは、破滅する。それは神界の高尚な文学とは違い、ただただ面白かった。密かに流通し、愛好家がいるという噂は聞いていたが、ユンの家庭にはなかったため新鮮だった。
そして恋愛物の資料も豊富にあり、なかには性的にどぎつい内容のものもあった。それを収容者仲間と語り合い、赤面し、笑い……
そう、笑うしかない。
ユンの過去は全否定されたのだ。この世界によって。
『為リ損ネ』と押された烙印が焼けるように痛い。それをかばうように、笑え。痛い。笑え。
ユンは滂沱の涙を流しながら、喉が嗄れているのもかまわず笑い続けるしかなかった。
2.
「くっくっくっ、なかなか上物のトラウマだな。ひひひひ」
オーガナイザーは女たちのトラウマを続けざまに味わい、いたって上機嫌だった。
戦闘終了直後の気の緩みを突いて、ヒトを顕獣人へとオーガナイズする念波を一味に浴びせかけた。今も継続している放射は体力を使うが、見返りは実に甘美だ。
敵の一味が集合する夕方を狙った策が見事的中したことも、彼の高揚感を増していたことは否めないだろう。
「さて、最後は男か」
地にうずくまる女たちと違って、そのまま固まってしまったかのように直立している男。今までの犠牲者とは違う姿勢に違和感を覚えたが、今宵の彼は乗っている。一気にけりをつけようと男を直視し――
「……! な、なん……だ?!」
白色、薄桃色、土色、赤茶色。
オーガナイザーが味わっているトラウマに踊る色は、登場人物や背景のそれ。それらが演じる一部始終を堪能し終えることなく、オーガナイザーの内蔵は悲鳴を上げた。
慌てて口を手で押さえたが間に合わない。いや、抑えたらダメだ。
オーガナイザーはその場に膝を突いて前のめりになると、嘔吐した。彼の人生でこれほど苦い嘔吐は初めてというくらい、吐いても吐いても不快感が消えない。
何者かが近づくザリザリという足音を間近に聞いた時にはもう遅かった。顔を上げようとした瞬間、スニーカーのつま先が口中に蹴りこまれた!
声にならないうめき声を上げて転げ、襲撃者から距離を取る。その耳に、男の声が聞こえてきた。
「へっ、汚ねぇな」
荒い息を吐きながら見上げれば、それは彼の念波を浴びて固まっていたはずの男だった。スニーカーについた汚物を地面になすり付けながら、その口の端が歪む。
「俺はあの時吐かなかったぞ」
路面を転げまわっていたオーガナイザーがようやく立ち上がって口をぬぐうのを、翔一は哀れみを込めて見ていた。
あんなものをわざわざ追体験なんて奇特なこった、と。
監禁されて拘束されて見せ付けられて。おまけにあんなものまで食わされて。
それらを美味として味わう趣味は、目の前のオーガナイザーにはなかったようだ。息も整わないままに、醜い顔が歪む。
「バ、バカな……念波が効かないだと?」
「念波? ああ、届いてるよ。苦しくて痛くてのたうち回りたいくらいさ。この子らみたいにな」
言及したことに反応して、女子たちの顔がわずかに上がるのを眼の端に捉え、さらに驚愕に歪む敵の顔に言葉を叩きつけた。
「けどな、こちとらそれを噛み砕いて、踏み越えて生きてきてんだ。過去は変えられないんだから。つまり――」
ここは胸を張るべきだ。そう信じ、腕組みをしてふんぞり返った。
「効いてねぇ」
敵が動揺している。そのわずかな時間を利用して、対処策を考えた。キーワードは『念波』だ。
まず、女子たちに声をかける。
「もう少しだけ我慢してくれ。念波を止めるから」
「けっ、俺を殺そうってのか? やれるもんならやってみやがれ!」
予想どおりの反応に内心ほくそ笑んで、
「そんな必要ないさ。放出場所は分かってるんだぜ?」
「なにを?!」
「ピクピクしてるからな」
オーガナイザーは、素早く反応した。両方の耳を平手で押さえたのだ。
「なるほど、そこか」
そして手で押さえるだけじゃダメだということだな。
引っ掛けに激怒した敵が襲い掛かってくる。ニヤケ顔を収めてそれを迎え撃ち、取っ組み合いになった。
上になり下になりを何度繰り返しただろうか。ようやく敵を押さえ込むと躊躇せず、翔一は敵の耳にかじりついた!
激痛に暴れる敵の馬鹿力も幸いして、ミチミチという音を発し、オーガナイザーの左耳はちぎれた。押さえ込みを振りほどかれてしまったが。
立ち上がって、血の味のする原因を吐き捨てる。なるほど、ミミガーはきっとあんな歯触りなんだな、と場違いなことを考えながら。
「よし、次は右だ」
だがその時、敵は思いもかけない行動に出た。突然あらぬ方向へダッシュしたのだ! その足が向かう先は、一番間近にいたイリューシュだった。
焦って追いかけるが間に合わない。オーガナイザーは駆け寄った勢いで、気付いて避けかけたイリューシュの腹に蹴りを入れた!
悲鳴を上げて転倒するイリューシュを見て、翔一も激高する!
「イリューシュになにすんだぅらぁ!!」
翔一も勢いをつけて敵に殴りかかる。が、かわされて体が泳ぐ。そこへ膝蹴りが腹に来た。カウンターになってもろに入り、エビのように身体を折り曲げる彼に畳み掛けるオーガナイザー。
殴打の嵐の中で、意識が薄れていく。誰かの叫び声が聞こえた気がしたが、翔一の意識はそこで途切れた。
3.
奇声を発したのは、津美零だった。いつもの冷静な彼女らしくない意味不明な叫びとともに、オーガナイザーに踊りかかり、ボコり始めたのだ。反撃をものともせず。
そのさまを、イリューシュを抱き起こしながら、ユンは呆然と眺めていた。
「……あいつ」
「ん? なに?」
イリューシュのつぶやきは、すぐに怒声に変わった。
「よくも翔一を……!」
そうだ! あっちのほうがより重傷だ!
突進は青髪に任せて、ユンは翔一に駆け寄った。急いで治癒を施すが、
「ううう……こんな……」
すぐに神通力が切れてしまったのが悲しい。
精々外傷が塞がれた程度の翔一はぴくりとも動かない。それをきっかけに、ユンの感情も爆発した。
「よくもやったな!」
左耳があった場所から血を流しながらも、津美零の掴みかかりとイリューシュの剣から逃れて距離を取る敵に、わずかながら遅れた。遅れたのだが……
「あの、すみません」
オーガナイザーの背後に、ユンたちは信じられないものを見た。
不審げに振り向いたオーガナイザーに、ミルが赤髪をなびかせて襲い掛かる。
いや違う。敵の首元に、耳から流れる血も厭わずに両手を添えて、接吻したのだ!
豊かな胸まで相手に押し当てて、口づけを続けるミルの後ろ姿と、その向こうでもがいていた敵の力が抜けるのが見える。いっぱいに開いていたその目がとろんと焦点が定まらなくなるのも。
ミルはそこまで待って、ゆっくりと唇を離した。
「わたしを見て。わたしだけを。わたしの声を聞いて。わたしだけを」
「……ああ、もちろんだ」
艶然と微笑むミルは、その微笑みのまま踵を返した。ユンたちのほうへ歩き出そうとする彼女の後ろ姿に、魅了が効いたオーガナイザーが追いすがろうとする。
だが、ミルはもう一度振り返って声を発した。その声はこの緊迫した場にそぐわない、たおやかなもの。
「動かないで。わたしがいいって言うまで、ずっと、直立不動でいて。ね?」
「……あ、ああ。でもこれはどういうことだ?」
身体をわずかにくねらせたミルは敵に、ユンがこんな場面で思わず嫉妬するほど色っぽく笑い、言い置いた。
「放置プレイよ」
聞いてうれしそうにくねる敵が気持ち悪くて、ユンの視線は駆けて来るミルに向いた。
「さ、イリューシュさん、やっちゃってください」
「ミル、お前……」
ユンには分かる。『あんなことして、平気なのか?』と訊きたいのだろう。そういうことがいたって苦手な――そのために悲惨な境遇に落ちた――のではなかったのか。
少しだけ小首を傾げたあと、サキュバスは微笑んだ。吹っ切れたような、実にいい表情で。やっぱりなぜか、ちょっと悔しい。
「はい。過去が変えられないなら、今の自分が変わるしかないんですから」
そして、迷わない女がもう一人いた。さっさとイリューシュの背後に陣取り、背中を支え始めたのだ。攻撃魔法発射の衝撃を抑えるために。
「粉々に吹き飛ばして、あれ」
「津美零……そうだな」
ユンもミルも津美零にならい、魔法貴族の背中を支える。
死の回避と魅了の命令とのあいだで葛藤を始めたオーガナイザー。それに対して、イリューシュの朗々たる歌声は揺るがない。
それは別の意味で言えば、じれったいということでもある。
「早く、早く、早く」
ユンは今ほど、自分に神通力が少ないことを呪ったことはなかった。
朗詠がやっと終わり、イリューシュの組み合わせた両手に光が集結する。
そして、生存本能が打ち勝ったのだろう、オーガナイザーは逃げようとした。
「砕け散れ! お前のごとき汚物、我が家門の名を聞かせることすら不愉快だ!」
イリューシュの叫びもほぼ同時に響き渡り、攻撃魔法が発射された!
予想以上の強い衝撃に負けないように、誰もが大声を出して踏ん張った。やや下目に構えていたはずの腕はそれでも上がったが、オーガナイザーの頭部にギリギリ届いたのだった。
ゆっくりと斃れる首無しオーガナイザーを正視できず、みんなで翔一の救護に意識を向ける。
警察のサイレンが近づいている気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます