第三十六節 始動。




 監督室の内側から出入口の扉へ、黒い視線を向けたまま、動かないのは青一郎セイイチロウだった。その姿を、生まれた頃からの付き合いがある昂ノ介コウノスケ礼衣レイが見守る。


 不自然に空席が目立ち、荷物が片付く無機質な印象を受ける監督室。


「ちょっと待っててくださいね~」


 と、新入部員の八名を押し込めたのは、蒼海ソウカイ学院中等科男子硬式庭球部の顧問・監督を兼任する深歳ミトセだった。


 普段の調子そのままで言い含め出て行ってから、十数分が経過している。


「……心配か?」


 動かない青一郎から、涼しげな視線を移した礼衣が、昂ノ介に問い掛ける。


「何度か、現場を見ている身としてはな」


「現場、ですか」


 沈黙を取り払うため、昂ノ介の言葉を拾った蓮蔵ハスクラが、銀縁眼鏡の位置を整えながら、話しを広げる一言を投げた。


「小等科の頃ね、何度か中等科の庭球部の見学に足を運んだんだけど、顧問の先生方が、穂方ホガタ先輩を中心とした部員達に〝お仕置き〟を受けている最中だったんだ」


 出入口から、穏やかな黒い瞳を離した青一郎が、記憶を辿たどるように答えた。


「うわ~、あの噂って本当だったんだ」


「最中って、お前らが見てんのに、続けてたってのか?」


 都長ツナガと、メディンサリも加わり、当時の話しは続けられる。


「ああ。あの連中は、少しでも練習量を増やしたり、気に入らない言動を取る先生方や監督を、親が持つ権威や暴力で追い出しては、新たな先生方や監督を招き入れ、言う事を聞きやすい部員を増やしていた」


「……ここ数年、各部活でもそれらの傾向があったが、特に庭球部は渦中にあった。方々ほうぼうで顔が利き、蒼海学院の運営に色々と口を挟める、穂方氏の影響が大きかったのだろうな」


 昂ノ介は眉間にしわを寄せつつ、当時の風景を。礼衣は静かに、考察を加えて語った。


「ンフフフ」


 女性の笑う声が立つ方へ、八名はそれぞれ眼を向ける。


 所用で残っていた中等科女子硬式庭球部顧問・春波ハナミが、手を止めて薄化粧の顔を上げた。


「面白い話しをしていたから言っちゃうけど、子煩悩な穂方氏をはじめ、学校運営を阻害していた父兄委員は、本日付けで免職になったわよ」


「あの穂方を免職に追いやるとは、この学院も、なかなかやるの~」


「辞職でも不自然ですが、どうやって従わせたんですか」


「もっと大きな権威が動いた。先生も、ここまでしか言えないわね。とにかく、そんな事は気にせずに、今しかない子供の時間を、たっぷりと楽しみなさい」


 同じ年頃の我が子達と重ねたのか、そのまなじりは母親の温かさが込められている。現に、春波は仮入部期間から彼らに対し何度も気遣い、声を掛けていた。


 彼らに構うだけで風当たりが厳しくなる中でも、矜恃きょうじを折らなかった春波を、彼らも信頼を置き続けている。


「皆さん! お待たせしました。さあさあ、練習場がきましたよ。全国制覇へ向けて、幸せ過ぎる日々の幕開けです!」


 監督室へ駆け込んで来た深歳が、満面の笑顔で手を一拍した。


「深歳監督、お怪我はありませんか」


 心配になった昂ノ介が、思わず緊張の糸を通した質問する。


「ないない。どこにもありませんよっ。そんな事より早く行きましょう! 数は減りましたが、心から庭球を楽しみたい方は残ってくださいました。皆さんを待っています」


「はい!」


 八名が声を揃え返事をした時には、嬉しさを全身で表していた深歳の姿はなかった。先陣を切って、屋外練習場へ走り出していたからだ。

 その後を追う八名は、それぞれに春波に礼を言いながら、退出する事を忘れない。


「どっちが子供か、分かんないわね」


 音もなく閉じられたら扉を見送り、春波は可笑おかしそうに独り言をいた。彼女の視線は、彼らが去った扉に向かう。


 扉の明かり取りは、鋼線が格子状に走る硝子がらす。そこから入はいる明度は、扉を開放するまでもなく分かる。


 桜並木がほころぶ気配を映す、春の陽光だった。





        【 次回・三の幕 はなくも 】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る