第二十五節 雄飛、その兆し。 その一




 月が改まった、三月。硬式庭球部の東側は、小等科と共有する敷地の境界が桜並木で区切られている。桜のつぼみはまだ固いが、春に向かうかすかな空気の変化を屋外で感じるようになった。


 蒼海ソウカイ学院中等科の入学式から、およそ一カ月が過ぎていた。放課後。

 庭球部屋外練習場には、珍しく所属部員が整然と並ぶ風景が、そこにある。


 一五十余名に対面するのは、部活動時間でも白衣姿の若い男性だった。


「今まで、申し訳ありませんでした。本日から、この庭球部を預かる顧問兼監督に就任した、深歳ミトセタマキです」


 笑うと童顔が際立ち、印象としては、どこにでも居そうな人の良さそうな近所のお兄さん。年令不詳の深歳と名乗る顧問兼監督に、不快と怪訝けげんを多くの部員が隠しもせずにあらわにする。


 その理由は、深歳一人に注がれた物ではなかった。


「な~んだ。育児休暇って言うから、女の先生かと思えば男の先生だったんだ~」


 都長ツナガは、人垣の高さと密度に時折、背伸びをしながら前方をうかがっていた。


は多忙ですからね。深歳先生が育児休暇を取られたそうです」


 蓮蔵ハスクラは、既に正体を知っている口振りで、周囲に説明した。


「ほっほう~。姫様も、ご主人を差し置いてォやるわ」


 千丸ユキマルも、対抗するように配偶者の噂を立てる。


「それにしても、地味に凄いなこの学院。名字変わってて分かんなかったけど、〝あの人〟じゃねェの?」  


 メディンサリは、視認を諦めたらしい。耳にした話しから察しを付け、仲間の同意を求めた。


「あ、やっぱりそう思った?」


 青一郎セイイチロウが姿勢を前傾し、メディンサリに応える。


 後方に控える仮入部員改め、新入部員の八名。彼らは、部員の数に埋もれながら小声で情報交換を行っているのだが、肝心の深歳の声が聞き取りにくい。


 それは、位置ばかりの事ではなく、その声を掻き消す元気の良い乳幼児が、腹の底から存在感を放っていた。


「深歳先生の子だろうか」


 昂ノ介コウノスケが腹の前で腕を組み、顔を正面に向けたまま隣にいる礼衣レイに話し掛けた。


「……恐らくな。放課後は、教師にとっても課外の事だ。公私混同とは言いがたい」


「小さい子は嫌いじゃねェが、これじゃ挨拶になんねぇな」


 メディンサリが、ポニーテールの位置を確認しながら再び発言する。


「先生」


 好転を見ない状況に、士紅シグレが挙手と共に注意を引く。その士紅に新入部員と言わず、深歳や周囲の意識も引き寄せた。


「えっ、あ、はい。えっと、キミは?」


「新入部員、一年一組二一番。丹布ニフです」


「えっと、資料資料。あ、あ~、ありました。丹布君ね。どうしました?」


「先生の御子息ですよね。よろしければ、今だけでも面倒見ます」


「い、良いのかな。でも、確かにコレじゃ話にならないし。では、お願いしちゃいます」


 深歳の返事に応え、移動する士紅には、「さっそく、ゴキゲン取りか?」「お忙しい事ですナー!」「あんなのに媚びても意味ねーぞ?」先輩部員の不穏当な言葉や嘲笑の数々が向けられる。


 当の士紅は微塵みじんの反応も見せず深歳の元に寄った。慣れた様子で、危な気もなく幼子おさなごを受け取る。


「あらら? 今年度の新入部員って少ないんだなぁ。じゃ、残りの新入部員も、丹布君と一緒に監督室に向かってください。伝える事も違うから丁度良かったです」


 深歳の言葉に、新入部員八名は快く揃って大きな返事で応え、速やかに行動へ移す。士紅を囲み、愛息に話し掛け、彼らの様子を深歳は満足そうに見送る。


 そんな深歳は再び、一部が愚連隊と化している集団に向き直り、飄々ひょうひょうと就任挨拶を続けた。





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