第十七節 狼と、鈴蘭と。 その一




 屋内の照明で、時間の感覚も乱された。すっかり長居になってしまい、時刻は夕暮れを過ぎようとしていた。


 オフホワイトと、グレー。化粧敷きされた、結晶質石灰岩マーブルの駅構内の色彩の中。社会人の帰宅時間と重なり、それぞれの目的で行き交う雑踏の音に囲まれる。ここは、彼らの帰宅方面と、中央出入口との分岐路。八名は、この場で解散する事になった。


「じゃ、ここで解散だね」


 雑踏の中でも、青一郎セイイチロウの穏やかだが芯のある声は、全員に届く。


「お疲れさん。また明日な」


 千丸ユキマル一瞬いっしゅん、明後日の方向を見た。その後、控える用事の多さに消沈する声で、別れの挨拶を残して立ち去った。


「じゃ~な~、丹布ニフ。電話するから出ろよ~? もしくはでも良しとする!」


「用事があるから、どちらも期待するな」


 都長ツナガの要望に対して、あっさりそでにする士紅シグレだった。


 一同は、先程の直営店舗で各種設定と番号の交換や、一同のレールも構築済み。操作に慣れていない士紅への指導は、追々と言う事で決まった。


「おっし、行こうぜ。火関ホゼキ蓮蔵ハスクラ


 目的と行き先が、偶然同じだったメディンサリが、二人を先導する。


「……よろしく頼む。では、また。本屋で長居は禁物だぞ。昂ノ介コウノスケ


「分かった。気を付ける」


 行動の先を読まれ、その上に釘を刺された昂ノ介は、苦々しく答えた。


「皆さん、お気を付けて」


「うん。じゃあね」


「あぁ」


 八名は、帰路、迎え人、集合場所、本屋。各々目的地に向かって足を進める。人波によって構成される、動く衝立ついたてさえぎられ、呑まれて行った。




 ○●○




 部活仲間と別れた直後、例の黒い電話に着信が入った士紅は、人波の邪魔にならない位置に退避していた。


 無表情で通話の内容に応じているが、腹の底では何が渦巻いているのか判ったものではない。

 証拠に、量も豊かな岩群青いわぐんじょうの色をした髪を掻き上げた。端整な鼻先まで落ちる前髪が払われ、不機嫌そうな似紅色にせべにいろあらわになる。


「ほら、行こうよ。きっとキミ達も気に入るからさー」


「高くない、全然高くないから。オレ達が保証するってー」


 通話するための集中力がなくなったのか、士紅は近くで何かの勧誘をしている気配に視線を動かした。


 その先には、背伸びをしている服装と、大都市の雰囲気に気後れしている様子の成人女性が二人。高級ブランドを着崩した中年男性と、女性に声を掛けるようには見えない地味な若者に迫られていた。


 周囲に助けを求めるように、視線を走らせていた女性達は、付近にいた士紅と目が合うまでに時間は掛からない。


「何見てんだよ。もしかして、羨ましいのか? 甘えるなよ、自分で探せ」


 話し相手が、揃って同じ方向を見ているため、怪しい勧誘屋が視線の先を追うのは当然だった。


「え、何ですかコイツ。変な色してません?」


「放っておけ。出稼ぎの外圏人がいけんじんか、売れない音楽でもやってる若造だろ。ほら、あっちに行けって。あのピアノでも弾いてろ」


 そこそこ上背がある士紅は、中学生には見えなかったらしい。一応、学校指定の黒のピーコート。首には胡桃色くるみいろと黒の千鳥格子ちどりごうし柄のマフラー姿だった。


 しかし、怪しい勧誘屋には名門校の制服だとは記憶には、ないようだ。士紅を追い払おうと、中年男性が顔の半分をゆがめて差し示した。


 そこには、少し低くなった天井の下に設置されている、ストリート・ピアノ。千丸が、一瞬だけ見ていた方向と一致していた。


 唐突に。通話を切った士紅は、ケータイをに馬乗りセンターベントの向こう側へ仕舞い、立ち去った。


 女性達は、一縷の望みを絶たれ。あるいは力添えをしてくれなかった、士紅の背に恨みと失望。互いに身を寄せ合い、残された心細さに怯えていた。


 ように見えたが、士紅の行き先は本当に、ストリート・ピアノの元だった。


 漆黒のドレスを着た淑女のような、ルブーレンの老舗・サント=ジャイエのコンサートピアノ。わざと、型番や社名を隠しているため、その銘を知る者は少ない。


 広さや価格、触れる機会も限られる相手のため、演奏する客は多かった。この時は運良くいており、士紅は黒衣の淑女のふところへと滑り込む。


 音も立てず、丁重に鍵盤蓋を上げる。一度、フレーム内をのぞき込み、予備運動もなく士紅は恐ろしい選曲をした。


 原曲は知らなくても、有名な戯曲や映画、舞台。方々の媒体で使用され誰もがどこかで耳にしている。


 二〇〇〇年以上前にルブーレンで生まれ、今も愛され続ける。第二の国家とまでうたわれる、第二章・青の革命。リラーテ王女の円舞の中で最も有名、最も演奏者泣かせの曲でもある。


 何故なら、主旋律だけでピアノが二台必要な程に、コード進行が複雑で、音符が詰まっている。通常ですら、四手連弾で演奏される譜面だからだ。


 真珠の異名を持つ怪人が作曲し、真実を受け容れた人の子が編曲した。


 そうなのだ。作曲者は、。異様な指の長さと、驚異の身体機能が可能としていた奇跡の歌曲。当時は、一部で真実が伝えられていた。


 いつの世も、権力者によって事実は隠匿いんとくされ、第情報源泉ソースが現実となる。

 リラーテ王女の円舞の作曲者は、ブリューク=ノレ=ラロッスと、後世に伝えられ常識として認知されている。


 だが士紅は、第情報源泉ソース批判的思考クリティカル・シンキングの先に世界の一端があり、秘匿をとする必要がある事も、士紅は心得ていたのだった。





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