第2話
廊下は昼間だと言うのに薄暗い。空を覆った分厚い雲からは、ぼた雪が際限なく降ってきている。隙間風が入ると評判の寮部屋だけれど、さすがに廊下の気温とは比べるまでもない。
私は腕の中のギスケを湯たんぽ替わりに抱きしめて、足早に二一〇号室の前へとやってきた。
ドアの前で足を止めて、一度深呼吸。冷たい空気が肺を満たして、少しばかり意識がしゃっきりした気がする。
覚悟を決めて、ノックをゆっくりと二回。
「はい、はい、はい、っと」
部屋の中から軽やかな声が返ってきた。かちゃりとドアを開いて顔を出したのは、当然のことながら部屋の主の小宮山さんだ。
「あれ黒川さん。めずらし……い……」
小宮山さんの声は尻すぼみに小さくなって、じっと、私の胸元を見つめてきた。そこに居るのは、ノックしたあと抱えなおしたギスケだ。一応、寮はペット禁止なので、見とがめられるのは仕方ない。
「あ、ごめん。えっと、何の用かな?」
「あ――」
何の用かと聞かれても、元から用なんてない。何をしゃべれば良いのかわからない。世間話とか、数えるほどしかした覚えがない。せめて台本を用意するべきだった。
あと二秒、助け舟が無かったら、ギスケはペットじゃなくて友猫だから寮監には言わないで欲しいとか、わけの分からないことをしゃべり出していたかもしれない。
しかし、そうはならなかった。私の腕の中のギスケが、笑い含みの声で言った。
『報告通り、当たりみたいだ』
「へ?」
何が報告通りなのか。ギスケは私の間抜けな疑問符に応えることなく、言葉を続ける。
『ミミコ、このお嬢さんには見えているよ。君に聞こえるのと同じように』
私の腕の中で、ギスケはしっぽをぴんと立てた。正面に立つ小宮山さんが、目を丸くする。
『聞いてごらん。僕の尻尾が見えてるか、って』
ギスケの言葉に押されて、私はぽろりと零した。
「見える、人?」
変化は劇的だった。
小宮山さんはドアを全開にして、廊下に身を乗り出すと、私の肩を掴んだ。
腕からギスケが飛び降りる。
その腕もまた、小宮山さんに掴まれた。
手がぶるぶると震えるほど強い力。
「い、たい」
「ごっ、ごめん」
私が声を絞り出すと、小宮山さんは慌てたように手を離した。
「入って、黒川さん。そこの子も」
そう言って、小宮山さんは私とギスケを部屋に招き入れたのだった。
◆
初めて入る小宮山さんの部屋は、私の部屋と同じ間取りのはずなのに、どこか温かくて家庭的な感じがした。冷蔵庫やこたつ、電気ポットと言った日用品があるからだろうか。なんだか生活感に溢れている気がする。
「番茶くらいしかないけど……」
小宮山さんは、電気ポットからお茶を注いだ紙コップを四つ、こたつに置いた。
私の分。小宮山さんの分。ギスケの分。あと一つは、誰のものなのか。もしかしたら、という思いがある。
「熱いわよ」
ギスケの顔を見て、小宮山さんは真顔で念を押す。
『言われなくても、見れば分かるよ』
「見れば分かる、って」
「ん?」
「ギスケ……この子が」
天板の上で丸くなっているギスケの首筋を撫でる。
「私は、聞こえる。見えないけど」
こたつの向かい側に座った小宮山さんは、不自然に右へ寄っている。そして、一つ多く用意されたお茶。
「そこに、居るの?」
私の問いに応えるように、お茶の入った紙コップがふわりと宙に浮かんだ。いつだったか、ギスケがもう一つの尻尾でボールペンを持ちあげて見せてくれた時とそっくりだった。
『臙脂色のどてらを羽織った、ミミコと同じ年くらいの女の子だよ。背中まである髪を三つ編みにしてる』
ギスケが教えてくれた外見を口に乗せると、小宮山さんは驚いたような顔をした。
「本当に見えてないの? どんぴしゃなんだけど」
「ギスケには、見えてる」
私が視線を向けると、ギスケは自慢げに尻尾を振ってみせた。
小宮山さんは手を額に当てて、大きく嘆息する。
「なるほど、合点が行ったわ。黒川さんっていつもイヤホンつけてたけど、聞こえすぎるからだったのね」
的を射た指摘に、どきりとする。実のところ今だって、ズボンのポケットに携帯音楽プレイヤーが入っているのだ。
次に何を言われるのか、私は身構えるようにして待つ。けれど、待っても言葉はやってこない。ただ、小宮山さんは紙コップからお茶をすするようにして飲んでいた。
大変だったね、なんて言ってこない小宮山さんが、ありがたかった。
私も一口、番茶を飲む。何度でも飲んだことのある味、それをとても新鮮に感じた。
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