さらばコタツムリ。また会う日まで。

佐藤ぶそあ

さらばコタツムリ。また会う日まで。

第1話

 翔学寮などという大層な名前とは裏腹に、建替えすらままならない木造三階建てのおんぼろ学生寮に、私は住んでいる。

 夏は扇風機と団扇で涼を取り、冬は錆の浮いたスチーム暖房に頼り切りという、あれ今って昭和だったっけと首をひねりたくなる施設だ。けれど、それらを差し引いても私はこの寮を気に入っていた。

 住みやすさはともかく、暮らしやすさという意味では地元に居たころとは雲泥の差がある。

 入学から一年と何ヶ月か。夏の暑さに根を上げて手回しカキ氷機を持ち込んだり、隙間風に耐えかねて中古のコタツ(おまけ憑き)を衝動買いしたりと、そういった変な経験も今となってはいい思い出だ。

 けれど、今日こそは心を鬼にしなければならない。折しも一昨日に梅雨が明けたばかりで、午前中だというのに目を細めたくなるほどの日差し。日曜日ということもあって、絶好のお掃除日和である。

 翔学寮の二階角部屋二一○号室。学校の指定ジャージに着替えて戦闘態勢を整えた私は、できるだけ真剣な顔を作り、重々しい口調で宣言した。

「今日こそコタツを片付けようと思います」

 昨年の十二月にリサイクルショップでコタツを買った時、おまけとして憑いて来た受験生の幽霊が、きょとんとした表情で私を見つめてきた。

 宅配で送ってもらったコタツを組み立てて、よし完成さっそく電源をと顔を上げたら何故かコタツに入っていた幽霊、それが秋さんである。

 季節が冬から春、夏へと巡っても、秋さんは変わらず、コタツに脚を突っ込んでドテラを羽織っているというスタイルだ。正直な話、見ているだけで暑苦しい。つい先ほどまでは、市立図書館から借りて来てあげた小説を、幸せそうに読んでいた。

 私が発した言葉の意味をようやっと理解したのか、秋さんは半透明の顔を蒼白にして、ぶんぶんと首を振った。

 春休み前、そしてゴールデンウィーク前の焼き直しである。今にも涙が零れそうな潤んだ瞳で見つめられても、今度こそ私の決意は揺るがない。

「なあに、言いたいことでもあるの?」

 背もたれがギシギシと鳴るボロい回転椅子にふんぞり返って、私は秋さんを睨みつけた。秋さんも負けじと睨み返して来たけれど、二秒と持たずに視線が逸らされた。弱すぎる。まるで私がいじめているみたいじゃないか。

 言いたいことがあるなら言えばいいと、私はポケットから携帯電話を取り出してコタツの天板に置いた。

 秋さんはしゃべれない。代わりに、メールを送ることができる。アドレスは何故か私のものなので、はたから見れば送信履歴の無いメールが自分から届くという怪奇現象である。

 まあ、メールの中身はと言えば「星の王子さまが読みたいから、春子ちゃん借りて来て」だとか「見たいワイドショーがあるから、テレビつけたまま学校に行って」だとかで、秋さんにホラーな存在としての自覚があるのか非常に疑わしい。

 しかし、秋さんとの意思疎通の手段である携帯電話が、今日に限ってはウンともスンとも言わない。

 これはいよいよ観念したか。などと私が考え始めた頃、防音性が低いことに定評のある壁の向こうから、どたどたと騒がしい足音が迫ってきた。

 足音の主は予想通りに私の部屋の前で止まり、ノックもせずにドアを開け放った。

「おい春子! 秋絵さんを片付けるってのは一体どういう了見だ!」

 休日ということで惰眠を貪っていたところを、秋さんからのメールに起こされたのだろう。薄緑のTシャツにホットパンツ、肩口で切りそろえた髪は寝癖がついたままという、いかにも寝汗をかいてたシャツだけ替えましたな格好で飛び込んできたのは、三○二号室に住んでいる同級生、夏ちゃんだった。

「どんなメールが行ったのよ。片付けるのは秋さんじゃなくて、コタツ」

「コタツに憑いてるんなら同じことだろ!」

 夏ちゃんは部屋に備え付けの学習机を右手でぶっ叩いて、私に詰め寄る。

 秋さんめ、私の説得を後回しにしてまず味方を増やすとは、小賢しい。この調子だときっと冬原にもメールが飛んでいるに違いない。

 額がくっつきそうな距離で睨み合って、先に目を切ったのは夏ちゃんだった。険しかった表情を緩めて、秋さんが持っている本に向かって笑いかける。

「おう、秋絵さんそこにいる? 呼ばれて飛び出て夏希ちゃんが助けに来たぜー」

 さっきまでの困惑顔をどこにやったのか、秋さんも蕩けるような笑顔になって、嬉しそうに夏ちゃんへ手を振った。

「なんで見えもしない秋さんに、夏ちゃんがそこまで肩入れするのか私には全然理解できない」

 私は不機嫌さを隠さずに口を開く。

 夏ちゃんには秋さんが見えていない。だと言うのに、秋さんがそこに居るものとして行動することを躊躇わない。

「そりゃ、私には見えないけどさ。秋絵さんからのメールはちゃんと届くし、そこに本だって浮かんでる。実在を疑う余地なんてないだろ」

 夏ちゃんはこういうことを堂々と言う変人だ。

 そもそも寮生は変人かワケ有りかの二択と言っても過言じゃない。夏は暑くて冬は寒い、風呂トイレ洗面所が共同という劣悪な住環境を、趣があるの一言で受け入れるのだから、夏ちゃんはれっきとした変人枠だ。

「メールが届くって言っても、私のアドレスからでしょ。その本だって天井からピアノ線で吊り下げてるだけかもしれないじゃない」

「それならそれで、春子が私の思ってる以上に面白い奴ってことだから別に良いよ」

 私達のやり取りに、秋さんがショックを受けたように目を見開く。そんなことは無いとでも言うように、ページをぺらぺらと捲って、ピアノ線では再現できないような動きを本にさせる。

 夏ちゃんはそれを見て、分かってる分かってると秋さんの持つ本に向かって笑う。

 もっと早く夏ちゃんや冬原に会えていれば、こんな地元から離れた高校に進学することは無かったかもしれないなんて、益体も無いことをたまに考える。もちろん、そんな事は仮定以上の意味を持たないけれど。

「あー、起き抜けにたくさん喋ったら喉が乾いた。お茶とか出ないの?」

 コタツの横に腰を下ろした夏ちゃんが贅沢を言う。

「夏ちゃんて、本当に自由だよね」

 私は小さくため息をついて立ち上がる。

 片付けるのを阻止しに来た癖に、コタツに入るつもりは無いようだ。当たり前か。七月も半ばになろうかというこの時期、コタツ布団にくるまろうなんて狂気の沙汰だ。コンセントが抜かれていることなど何の足しにもならない。

 壁際に置いてある卓上サイズの冷蔵庫を開けて、水出しの麦茶が入ったポットを取り出す。朝ごはんを食べてから仕込んだものなので、まだ少し薄いかもしれないが、夏ちゃんにはこれで十分だ。

 四十個パックの紙コップはもう半分くらい使い切ってしまったけれど、まだ買い足す必要は無いだろう。私はそこから三つ取り出して、それぞれにお茶を注ぐ。

 夏ちゃんは紙コップを差し出た私に礼を言うと、受け取るが早いか喉を鳴らしてお茶を飲み干した。私が秋さんの分をコタツの天板に置いて戻ってくるまでの、ほんの十秒程度の早業だ。よほど喉が渇いていたらしい。

「くー、やっぱ夏は冷たい麦茶だよなあ!」

「おっさんか」

 どうせ冷蔵庫で冷やした水道水を出しても同じような反応をするに違いない。

 私は元通り回転椅子に腰掛けると、一口だけお茶を口に含んだ。これからコタツを片付けようというのに、たくさん水分を取っては汗をかいてしまう。

 コン、と小気味良い音を立てて空の紙コップを天板に置いた夏ちゃんは、表情を改めて私に顔を向けた。

「もう一回言わせてもらうけど、秋絵さんを片付けるだなんて私は認めない」

「お金を出して買ったものをどうしようと、私の勝手でしょ」

「それはコタツの話だろ」

 夏ちゃんがコタツの天板を叩く。

 勢いで倒れた空の紙コップを、夏ちゃんが慌てて立てなおした。底に残っていたお茶が、少しだけ零れてしまっている。

「私は最初からコタツの話をしているの」

 学習机の上に置いてあったティッシュ箱を、秋さんに向けて放る。

 秋さんはそれを左手でキャッチした。右手に持っていた本を天板に置くと、秋さんは丁寧に零れたお茶を拭きとった。ティッシュを丸めて、ゴミ箱へシュート。外れ。

 困ったように眉を下げる秋さん。座った状態で手が届かない物を、秋さんは動かせない。だから外れたティッシュを拾いなおして捨てることも出来ない。

 夏ちゃんは床に転がったティッシュをゴミ箱に捨てて、それからもう一度私を見た。

「だったら、私は最初から秋絵さんの話をしてるんだ。コタツは百歩譲って春子のだって認めよう」

「譲らなくても私のだけど」

 私の言葉を無視して、夏ちゃんは言葉を続けた。

「でも、秋絵さんは春子のじゃないだろ」

「じゃあ夏ちゃんのだって言うの?」

「そんなこと言ってない!」

「言ってる!」

 夏ちゃんが勢いよく立ち上がったので、つられて私も立ち上がる。そして最初と同じように睨み合う。

 私よりも夏ちゃんの方が頭半分大きいけれど、目は逸らさない。

 分かっていないのだ。夏ちゃんがどれだけ秋さんを居るものとして扱っていても、私ほどには分かっていない。秋さんはどうしたってコタツに憑いてるだけで、秋さんだけでは存在することが出来ない。物に憑いた幽霊とはそういうものなのだ。

 先に根負けしたのは、夏ちゃんだった。

「分かった」

 呟いて、夏ちゃんはふいと顔をそらす。

「コタツの片付けでも何でも、春子の好きなようにすれば良い」

 それだけ言い置いて、夏ちゃんは部屋から出て行った。

 秋さんがその背中を追うような仕草を見せたけれど、それだけだ。秋さんはコタツから出ることができない。

 不意に、天板に置きっぱなしだった携帯電話が着信を告げた。

 取り上げて見れば、差出人は秋さんだった。どうせ自分宛てにメールを送ることなんて有り得ないので、私のアドレスは秋さんの名前で登録してある。

『ワガママ言ってごめん。夏希ちゃんとケンカになっちゃった』

 そう思うなら、初めから夏ちゃんを呼ばないで欲しい。いや、それでも呼んだからこそワガママと言ったのだろうけど。

 悲しそうな顔の絵文字がついたメールを、秋さんがどういう原理で送っているのか、私は知らない。

「いつものことよ」

 秋さんに視線を向けて、私は笑う。

「どうせ片付けを始めたらまた妨害しに来るに決まってるもの。春休み前の時と同じように」

 このコタツ攻防戦もこれで三回目だ。春休み前のときは、まるで我が子が背後にいるとでもいうようにコタツを庇う夏ちゃんの必死さに呆れて、やる気が失せたのだ。

 第二次攻防戦はゴールデンウィーク前で、その時は何故か妨害者が一人増えていた。

「夏希先輩が『春子のあほー!』とか叫びながら廊下を歩いていきましたけど、また怒らせたんですか?」

 その、増えた一人の妨害者が、呆れたような表情で部屋に入ってきた。

「出たね冬原」

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