第15話 光のさすほうへ
自分よりも体の大きい誰かを背負って歩くような、そんな感じだった。うんと重たいものが、のしかかるようにして体の上に乗っている。あるいは、粘度の高いぬかるみの中でもがいているみたいだ。
一歩踏み出すごとに、身体中が重く軋む。寒くないはずなのに、カタカタと歯の根が合わない。心が恐怖を感じるよりも何よりも先に、身体が拒んでいる。
全身が、魔物に近づくことを拒絶している。
「エミリアなんて死んじゃえ」
「死んじゃえ」
クスクスという笑い声まじりの罵倒が魔物から聞こえてくる。マリエとユリアの声でそんなことを聞かせてくるなんて、良い趣味をしている。
……拒絶しているのは、私の体ではなく魔物のほうらしい。
私が近づくごとに悪意のある言葉を私の知り合いの声で聞かせてくるのだから。
「お前には死んでもらわなければ困るのだ」
「ああ、困る」
「死んでしまえ」
「死ね」
今度はそんな村の偉い人たちの声が届く。聞こえるというより聞かされるという感じのそれは、一言一言、ずしりと私の胸に突き刺さってきた。
そんな言葉、今まで誰にも言ったことがないし、言われたことがない。それだけに自分に向けて発せられたのを聞くと、どうしようもなく悲しい気持ちにさせられた。
悪意の礫が、確実に私の心を削り取り傷つけようと投げつけられる。残酷な言葉が、大粒の雨のように降り注ぐ。
でも、今さらそれが何だと言うのだ。
どんなにその言葉が胸を抉っても、死にはしないのだ。そんなことがわかってしまうくらい、私はこの森で心を傷つけられた。容赦のない悪意にさらされた。
クーノが体験した辛さに比べたら、何てことないのだろうけれど。
疑似体験をさせられても、記憶を見せられても、彼が実際に感じた絶望や恐怖には、きっと届かない。
「……そんなこと、ばっかりしてたら……人に嫌われちゃう、よ……」
見えない空気の壁という拒絶の中を突き進んで、やっと魔物に触れられる位置までたどり着いた。腰を落として踏ん張っていないと、倒れてしまいそうなほどの圧を感じる。
それでも、私は闇の中でなお黒い“それ”に手を触れた。
「他人にされたことを返しているだけだ」
「……こんなことを、されたのね……よしよし」
「気安く触ると、その手を噛みちぎるぞ」
魔物は、ひどく風邪を引いたときに無理に話すような、そんなガザガザとした声をしていた。そのしわがれた声でさらに感じの悪い、愛想というものがまるでない話し方をするのだ。
こちらと決して相容れない、分かり合えないといった様子だけれど、それが逆に同情の念を引き出した。
「私を食べても、美味しくないのよ……お腹が、空いているのなら……パンを、あげるわ。……食べる?」
魔物のそばはとても息がしづらかった。喉元を誰かにクッと押さえつけられたような息苦しさがある。もしかしたら空気が薄いのかもしれない。荒く息をしても、胸にあまり入って来ないような感じがするのだ。
「媚びても無駄だ」
「媚びてなんて、ないよ。……ただ、仲良くなりたいだけ……」
魔物は私が両手を広げてしがみつくと、腕の中にすっぽりと収まるほどの大きさしかなかった。人だ。黒々とした闇に覆われてその姿を見ることはできないけれど、腕の中のそれが人なのだとわかる。
魔物は、かつて人だったものは、森の中にぽつりと佇んでいたのだ。
たったひとりきりで、あらゆるものを拒みながら。
「……そんなこと言って、どうせ裏切るくせに」
冷え冷えとした感情の籠らない声で魔物は言った。それはまるで氷のような、冷たく鋭い声だった。
これがもし、愛の告白をした結果の返答なら、そのあまりのつれなさに私は泣くだろう。そのくらい、冷たく拒絶感に満ちていた。
それでも、私はめげない。
「……仲良くなっても、喧嘩は……するかもね。でも、裏切らないって……約束する……カッ……」
聞きたくないとでも言うように、魔物が放つ圧が一際強くなった。それによって、まるで首を絞められているみたいになって、息ができなくなった。
苦しくて、目が霞む。頭もガンガンと痛み始めた。
このままの状態が続けば、私はきっと死んでしまう。
それでも離したくなくて、私はしがみつく腕に力を込めた。撫でさするように、何とか手を動かしてみる。
「……恨みたく、なかった。憎みたくなんてなかった。……それなのに、酷いことをされて……怒りが抑えられなかった。ドロドロとした気持ちがあふれて、黒いそれに塗りつぶされそうになって……人のそばにいたいのに……一緒にいられない……」
薄れいく意識の中で、絞り出すようなそんな声を耳がとらえた。
魔物が、小さな声で話しているらしい。うめき声のような、その苦痛に満ちた吐露は、ひどく悲しいものとして私の耳に届く。
「……怒りの心は周りを侵食する。だから、それをどうにか抑えようと森に篭って、怒りを……恨みの念を、自分から切り離したんだ。森で静かに暮らすうちに、その恨みが時間をかけて
長い長い魔物の独白を聞いているうちに、気がつくと私は涙を流していた。
あまりにも悲しい。
人に理不尽な悪意をぶつけられなければ、こんなふうに呪いを撒き散らす存在にはならずに済んだのに。
魔物は……クーノはたぶん人とは少し違う存在で、それゆえに怒りなどの負の力を制御できなかったのだと思う。普通の人間であっても、強い恨みを持つと魂が人から外れて悪いものに変わるという。それがクーノのような存在なら、尚更なのだろう。
こんなふうになってしまっては、もう決して人とは交われない。そのことに、クーノはひどく苦しんでいるのだ。
本当は、人間のことが好きだったから。
人と一緒にいる楽しさを、喜びを知っているからこそ、憎みきることもできずに苦しんでいるのだ。
「……恨みたくなかった。……憎みたくなんて、なかった……」
クーノは悲痛な呟きを繰り返す。
それは恨み言でもあり、懺悔でもあるのだろう。
そんなふうなクーノが可哀想で、私はその体に最後の力でぴったりと寄り添った。
「……クーノ……私が、一緒に……いてあげる。……逝って、あげ、る……」
「……一緒、に?」
「うん……もう、寂しくないよ」
このまま負の感情を撒き散らしながらひとりでいるのは、あまりに可哀想だ。黒く塗りつぶされることを、彼は望んでいないのだから。
恨むのも、憎むのも、クーノの本意ではないのなら、それから解放してあげたい。楽にしてあげたい。憎しみそのものに変わってしまう前に、救ってあげたい。心がすべて魔物と化してしまう前に、悲しむ気持ちが残っているうちに、終わりにしてあげたい。
クーノを苦しめた悲しみも憎しみも寂しさも、全部私が受け止める。一緒に抱えていく。
その一心で、私はクーノにその思いを伝えた。
それがクーノに届いたかどうかはわからない。
私の体は、もう痺れて感覚がなくて、耳も目も、もうその役割を果たしていないから。
私が最後に視界に捉えたものは、ただただ真っ白な世界だった。
光が、私の視界を満たす。
私の体も、しがみついていたはずのクーノの体も、その白に飲まれて見えなくなった。
その真っ白な世界で、私の体はゆっくりと昇っていった。ふわふわと、軽やかに浮かび上がっていく。
これはきっと魂の浮遊で、その感覚によって私は自分が死んだことを理解した。
私はこれから、魂の存在となって空高く昇っていくのだ。
ふわふわと漂っていると、頭の中に何か状景が流れ込んできた。
でも、それは森で見せられた恐ろしげなものではなくて、静かなものだった。
誰かの視線で見る、ありふれた生活の様子だった。
小さな家で暮らす、ただそれだけの景色。
時々人が訪ねてくるだけで、誰かと暮らしている様子はなかった。静かで淡々とした、色のない暮らし。
(死んだときは目まぐるしく自分の人生を振り返ると言うけど、これはクーノの人生かしら?)
突然流れ込んできたクーノの淋しい一人暮らしの様子に、私は少し戸惑った。
けれど、単調だったクーノの世界に変化が訪れたことで、ようやくその意味がわかった。
クーノの家に、年若い青年たちが訪ねてきたのだ。五人の元気の良い若者――それはウォルたちなのだとすぐにわかった。
ルーファスが、小人サイズからそのまま大きくなった姿でその中にいたから。
他の四人をよくよく見ると、一番若い少年は綺麗な赤毛をしていた。これが、ウォル。
一番オシャレをして、かっこつけた動きをしているのがたぶんティノだ。
一歩引いたところで四人をニコニコと見守っているのがクラウスだろう。
そして、はしゃぐルーとティノを少し斜に構えて見ているのがハインだ。
みんな楽しそうにしている。
それに、クーノも楽しいのがわかった。
五人が訪ねてきたことが楽しくて嬉しいというクーノの思いも、光景と一緒に流れ飲んできた。
そして、五人の呪いが解けたのだなということが何となくわかった。
五人に対するクーノの好意が伝わってくるということは、クーノが彼らに対して抱いていた負の感情から解き放たれたということだろう。
がんじがらめになっていた心が、するすると解けて楽になってきたのだろう。
恨みや憎しみを捨てた心はこんなにも軽いから、上へ上へと昇っていけるのかもしれない。
クーノの記憶は、五人の姿から別のものへと移り変わっていく。
魚釣りをする湖の水面や、色づいた葉、空の青さ、花の色――クーノが美しいと感じた様々な景色が頭の中に流れ込んでくる。
これはきっと、クーノが愛した村の景色なのだ。
たぶん、村はもうじきこの景色を取り戻すことができる。
そのことを確信して、私は安心することができた。
(これで、もう全部大丈夫)
クーノが憎しみから解放されて、村は呪いから解放される。
すべてが丸く収まるのだ。
クーノも私もこれから、ずっと安らげる場所に行くのだ。
……きっと、おばあちゃんもそこにいる。
そう思うと、少しだけ淋しくて悲しかった気持ちが和らいだ。
真っ白な光に満ちた世界は、少しずつ収束していっていた。私を包んでいた光はどんどん小さくなっていき、遠く小さくなっていった。
もうすぐ、果てにたどり着くのだろう。
安らぎの世界の入り口はきっとあの白い光だ。
あそこに吸い込まれたらきっとたどり着ける――そう思って私は、泳ぐように宙を進んでいった。
「エミリア」
どこからか私を呼ぶ声がした。
懐かしい、ずっと聞きたいと思っていた声だ。
柔らかな、耳をくすぐるような甘い声。その声の主に、ずっと私は会いたかったのだ。
最後に一目でも会いたくて、私は声の主を探した。
「エミリア」
「神様!」
ぐるりと見回すと、私が昇ってきた道筋の少し下に神様はいた。
美しい白金の髪を揺らし、淡い青の目を細めて、その人は私を見上げていた。
神様は笑顔で私を手招きする。だから私は嬉しくなって、文字通り飛ぶように神様のところへ行った。
「エミリア……ありがとう」
飛んできた私を受け止めて、その両腕の中に抱きしめて神様は言った。それを聞いて、やっぱりそうだったのかと私は納得した。
「クーノ?」
「うん、そうだ。……その名前と一緒に恨みの念を自分から切り離して、浄化しようとしたんだ。浄化どころか長い年月をかけて森から漏れ出して、村に天候不良なんていう被害をだしてしまったわけだけれど。……でもそれもエミリアのおかげで解決したよ。ありがとう」
「クーノの心は救われたってこと?」
微笑みを浮かべて頷くクーノを見て、私は心から安心することができた。
最期に神様に――クーノに会うこともできたし、もう思い残すことはない。
だから光を目指して飛んでいきたいのだけれど、クーノは私を離してくれそうになかった。絶対に離さないという、強い意思が感じられた。
「クーノ?」
「エミリア、そっちじゃないよ。……一緒に帰ろう」
「一緒に?」
「そう。まだ死なせないよ。一緒に帰るんだ」
クーノがそう言うと、私たちの体はゆっくりと下降していった。
気がつくと森の中で、私はクーノの膝に抱かれて地面に横たわっていた。
今度こそ死んでしまったと思ったのに、また
悲しい魔物と一緒に、真っ白な世界に旅立っていくと思っていたのに、神様がそれをつなぎとめてくれた。
「おかえり、エミリア」
「ただいま。……わあ」
覗き込むクーノ越しに、私は青空を見た。
雲ひとつない青空が、どこまでも広がっていた。高く青く、澄みきった空が。きっと、この空は村まで続いている。
そうはっきりと信じることができて、自然と涙が溢れてきてしまった。
帰ってきた。私は、帰ってきたのだ。
すべてを成し遂げて、あるべきところに帰ってきた。
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