第16話 森からの帰還

 私の涙を指先でそっと拭って、クーノは私を抱き起こした。

 全身ボロボロで疲れ果てていたはずなのに、クーノがそばに来てからはそれが少し和らいだ気がする。

 私って、やっぱり単純だ。好きな人の顔を見たら元気になってしまうのだから。


「エミリア、みんなを探しに行こう」


 クーノは嬉しくてたまらないといった様子でそう言った。


「みんな?」

「そう。ウォルとルーファスとティノと、ハインとクラウスだね。みんな、近くにいるはずだよ」

「会いたい!」


 死にかけていたせいで忘れていたけれど、名前を聞くとすぐに会いたくなった。

 みんな、呪いが解けて元の姿になっているはずなのだ。


「エミリア、立てる? もし無理なら抱きかかえて運ぶよ?」

「……ううん、大丈夫よ。それに恥ずかしいもん」

「恥ずかしくないよ」


 そりゃ、かっこよく女の子を運ぶクーノは恥ずかしくないかもしれないけれど、運ばれる私は恥ずかしい。人に見られたらということももちろんそうだけれど、そんな近い距離でクーノに顔を見られるのが何より恥ずかしい。きっと恥ずかしさと嬉しさで顔は真っ赤になって、心臓はうるさいくらいに高鳴ってしまうに違いない。


「じゃあ、行こうか」

「うん」


 クーノに手を借りて立ち上がって、そのまま手を取られて歩き出す。

 金髪に青い目といういかにもな容姿のクーノがそれをやると、まるでお姫様にでもなった気分だ。少しだけ、自分が上等な存在になったかのような錯覚をしてしまう。

 でも実際は私はただの村娘で、こうして改めて並ぶと臆してしまうほどクーノは美しい。


(それに私、森に来てから一度も体を清められてない!)


 とんでもないことに気がついて、私は落ち着かなくなった。

 隣を歩くクーノが何か色々と話しかけてくれているけれど、自分が臭くないかとか薄汚れていないかということが気になって、半分も耳に届いていなかった。

 でも、そんなことを気にすることができるようになったほど、私は日常の中に還ってきたのだ。不穏なものは何もない、ささやかなことが幸せな日常の中に。



「エミリア!」

「みんな!」


 日差しが木々の間から降り注ぐ晴れた道をお散歩気分で歩いていると、合流していた五人に再会した。

 一番に駆け寄ってきたルーファスが、私を軽々と抱き上げた。そのままクルクルと回り出すから、私の脚は空中に投げ出されて風を切る。何度も何度も回られて、そのうち飛んで行ってしまいそうな気分になる。


「ルー、落ち着いて!」

「これが落ち着いてられるかっての! エミリアちゃんだ! 会ったらこうしてやろうと思ってたんだ!」


 小人から元の大きさに戻ったルーは、背が高いだけじゃなく随分と力持ちみたいだ。

 途中から私が悲鳴をあげても、気が済むまで離してもらえなかった。


「エミリア、頑張ったね。君がやり遂げてくれたおかげで僕たちはこうして元の姿に戻ることができた。ありがとう」

「ううん……みんながいたからできたのよ」


 頭を撫でてくれるクラウスの柔らかな笑みは、想像していた通りのものだった。

 影が薄いのが悩みだなんて言っていたけれど、私には頼りになる素敵なお兄さんだ。


「あんたならやれると思ってた。……お疲れ」

「エミリア、よくやったね!」

「二人とも……そんな顔をしていたのね」


 ぶっきらぼうな口調の、涼しげな目元が印象的な青年がハインで、身なりが小綺麗でたれ目の甘い顔立ちをしているのがティノだとわかった。二人とも微塵も素顔がわからない姿をしていたから、こうして元の姿を見るのはすごく新鮮な感じがした。


「そこにいるのはウォルでしょ?」


 みんなの影に隠れるようにして立つ一人の男の子がいた。赤毛で、みんなより少し体つきが幼い彼は、ウォルなのだとわかる。


「何で隠れてるの?」

「だって、犬だったときにお前にさんざんくっついてたじゃん。……元の姿に戻ってそのこと思い出したら、すげぇ恥ずかしくて」

「そんなことか。恥ずかしがらなくていいのに」

「ちょっと! だからこういうのが恥ずかしいんだって!」


 近づく私から逃げようとするウォルの手を引いて、みんなの輪の中に引っ張っていった。

 恥ずかしいとか、そんなのはどうだっていい。

 こうしてまた会うことができた喜びを、みんなで分かち合うのが大切なのだから。


 五人揃ってクーノと向き合う。

 険悪さはないけれど、気まずさが双方にあるのを感じた。起きた出来事を考えればすぐに手と手を取り合うことができないことはわかる。でも、だからといって私が間に入るのは違うと思うから、ただ黙って見守るしかできなかった。それぞれが自分たちの意思で、一歩踏み出すのを。


「みんな……すまなかった!」


 沈黙が続いた後、クーノが謝罪の言葉を口にした。その声は苦痛に満ちていて、表情にもそれがよく表れていた。

 怒りの念を制御できずに飲まれていたとはいえ、友人たちを異形の姿にして長い眠りにつかせたのだ。どんなに自分を責めても、少しも楽にならないだろう。


「怒りのあまり、みんなに酷いことをしてしまった。負の念を撒き散らして君たちの姿を変えてしまったとき何とかしなければという思いがあって、それが辛うじて眠りにつかせるという手段をとらせたけれど、でもそのせいで君たちの時間を奪ってしまった……すまない」


 クーノの告白に、そうだったのかと納得する。森で黒い靄に包まれていたときはまだクーノ自身と恨みが分離せずひとつの状態だったから、ギリギリのところで友人たちを守ろうと働いたのだろう。

 恨みの念に触れたからわかるけれど、もしウォルたちがクーノの手心なしにもろに負の力を受けていたら、きっと命はなかった。


「クーノ、僕たちは怒ってなんかいないよ。僕たちの中にずっとあったのは、君への申し訳なさだ」


 クーノのそばに歩み寄り、その肩をポンと叩いてクラウスが言った。

 それを見て他のみんなも頷いている。


「それに俺たちに呪いをかけたのは“魔物”で、エミリアちゃんが倒したんだからもう関係ないんだ。な、エミリアちゃん?」

「うん、そうね。……魔物はもういないの。私は魔物からクーノを取り戻したのよ」


 ルーの気の利いた発言に、私も乗っかる。

 事実、恨みの念に支配されたクーノは、クーノではなかったのだと思う。

 人に傷つけられ、追い詰められたことで生まれた魔物はもういない。白い光の中に消え、そしてクーノが帰ってきたのだ。私と共に、みんなのところに帰ってきた。


「みんな……ありがとう」


 本当なら、謝罪の言葉をもっと並べたかったのだろう。許しを請うために、跪いて、地面に額をこすりつけて、何度も謝りたかったのだろう。そうしなければおさまらないという気迫が、クーノにはあったのだ。

 でも、クーノはそれを飲み込んだ。大切な友人たちが両腕を広げ迎え入れてくれているのに、それを拒むほど愚かではないということだ。


「そんなことより、クーノ! 何で髪と目がそんな色になってるんだ!」

「これが本来の色だよ。村で暮らすには派手過ぎたから黒にしてたんだ」

「すぐにまた黒にしてくれ! じゃないと俺が霞む。そんな格好良さに金髪碧眼だなんて無敵じゃないか。反則だ、反則」


 金茶の髪に緑の瞳をしたティノが、クーノの美貌に噛み付く。クーノが無敵で反則な格好良さなのはわかるけれど、別にそれは黒髪黒目にしたところで変わらないだろう。私は、クーノが何色の髪と瞳をしていても感じることは変わらない。


「エミリアはどう思う? 僕は今の姿と黒髪黒目はどちらが似合うかな?」

「どっちも素敵。何色だってクーノは素敵よ」


 困った顔で尋ねるクーノに素直に思ったことを伝えると、満足そうに微笑んだ。

 ああ、これって強者の笑みだわ――と、その笑顔を見て私は思った。

 過去の記憶の中で見たクーノの感じは、どこか追い詰められて縮こまっていたけれど、今はゆったりとした雰囲気だ。恨みの念が浄化されて、卑屈なところや怯えたところがないのだろう。

 最初、神様として出会ったクーノは優しくて穏やかだったけれど、少し人間味に欠けていた。でも今のクーノはそれがある。

 その様子を見て、二つに分かれていたものがひとつになったんだなあと私はしみじみ思った。そして、そんなクーノもすごく魅力的で素敵だと思う。




 それから私たちは歩きながらおしゃべりをした。

 それぞれが森の奥で対峙したものだとか、すべてが終わって目が覚めて再会するまでのこととか。

 でも、これからのことが一切話題にでないのが私は不思議だった。

 村についたらどうしようだとか、六十年ぶりの村はどんな感じなのだろうかとか。

 森の出口までたどり着いたとき、その理由がわかったけれど。



「さぁ、エミリア。ここを出て真っ直ぐ行けば村に帰れるよ」


 突然立ち止まってクラウスが言った。

 意味がわからず彼の顔を見つめ返したけれど、ただ微笑み返されただけだ。


「……みんなは帰らないの?」

「エミリア、君だけで帰るんだ」


 クーノも、微笑みを浮かべて私を見る。

 他のみんなの顔も見たけれど、みんなこうなることはあらかじめわかっていたかのような表情をしていた。静かに、すべてを受け入れているという顔。

 私が知らないうちに、そんな話をしていたらしい。


「僕は争いや災いの種だし、五人は六十年前の人間だ。だから、エミリアと一緒に帰るわけにはいかないんだ」

「そんな!」

「森で暮らせばいいだけだし、エミリアが訪ねてくれば会うことだってできる。さよならだって言っているわけじゃないから、そんな泣きそうな顔をしないでよ」

「でも……私はみんなと帰るんだって思って頑張ってたのに……」


 悟り切ったみたいなクーノの言葉に、私は体の力が抜けていくような気がした。そんなのってない。私は、何のために頑張ってきたのだろう。みんなは、何のために頑張ってきたのだろう。

 納得がいかなくて、懇願するようにクーノを見つめたけれど、困った顔で笑うだけだった。


「……差別や迫害の対象になるのは嫌なんだ。エミリア、君の未来を閉ざしたくもないし、苦しい時期を過ごした村の人たちを刺激したくもないんだ。わかってくれ。みんなが、心穏やかに、幸せに生きる道を選びたいんだ。……誰にも傷ついて欲しくないし、傷つけられたくない」


 クーノは私をなだめ、説得するかのように言った。「傷つけられたくない」というのは、きっと何よりも深くに根差す大きな理由なのだと思う。

 それを言われてしまったら、食い下がることができない。

 村の人たちがクーノたちに対して取りうる対応を考えられないほど、私は子供ではないから。

 私は、無事に天候不良を解決した人間として迎え入れられるかもしれないけれど、彼らはどうだろうか。

 曇天と雨ばかりだったおかしな天気から、こうして晴れた空を見ることができるようにはなった。でも、肝心なのはこれからなのだ。

 作物を育て、食べ物が安定して手に入るようになるまではきっと、人々の気持ちは落ち着かないだろう。

 その不安をぶつける先として、彼らが狙われないとは断言できないのだ。人の心というのは、すごく脆くて弱いから。



「……それなら、みんなが安心して村に帰れるようにすればいいのね?」


 ひとつの考えが私の中に浮かぶ。

 うまく行けばクーノたちは村で安心して暮らしていけるし、たぶんこうするしかないという方法。


「エミリア、何か案があるのか?」

「うん。みんなで一緒に幸せに暮らせるよう頑張ってくるから、信じて待ってて!」


 こちらを伺う様子のウォルにそれだけ言って、私は駆け出した。誰かが呼び止める声がしたけれど、やると決めたから振り返っている暇はない。

 もう誰かに悲しい思いなんてさせたくないのだ。

 だから私は走った。体はボロボロだし、気力だって本当はほとんど残っていないけれど。





「そんなに急いで走ってきて一体どうしたんだ……って、エミリアかい?」


 村に駆け込むと、農作業をしているおじさんを見つけた。急いでその人に手を振って、私が自分が帰ってきたことに気づいてもらった。

 疲れた体で全力疾走したから、なかなか息が整わなくて話し始めることができなかった。

 話せるまで落ち着いてから、私はおじさんに村の偉い人たちを呼ぶよう頼んだ。


 私を死なせるつもりで――魔物への生贄にするつもりで森に行かせただろう偉い人たちは、無事に帰還した私を見たらどうするだろうか。驚くのは間違いないけれど、それから……どうするだろうか。

 救いなのは、さっきのおじさんが目に涙を浮かべて「よう帰ってきた。よう帰ってきたね」と言ってくれたことだ。その言葉で、私が村の人たち全員に“死んでもいい存在”として扱われていたのではないとわかったから。


 私は、帰ってきたのだ。

 見慣れた村の景色を見て、私は強くそう思った。

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