第13話 あたたかなお家

 ハインまでいなくなって、本当にひとりぼっちになってしまって私は泣いた。

 こんなのってないと思って泣いた。

 泣いてもどうにもならないとわかっていても、泣かずにはいられなかったのだ。

 小石だらけの地面にへたりこんで、小さな子供みたいに泣いて泣いて、泣き続けた。

 ひとりでも平気だと思ってこの森にやってきたのに、数日一緒にいただけで、私はこんなにも彼らと離れがたく思っていたのだ。

 それなのに、みんな行ってしまった。

 私はひとりになってしまった。

 たったそれだけのことで、私は大きく打ちのめされた。

 隣を歩くウォルが、軽口を叩くルーが、頼りになるクラウスが、手を繋いでいてくれたティノが、冷静にいつも助けてくれたハインが恋しい。

 彼らがいたからここまで歩いてこられたのに、これから一体どうしたらいいのだろう。

 そう思うと、涙は後から後から溢れてきた。

 ひとりきりは怖い。ひとりきりは不安だ。こんなちっぽけな私に、一体何ができるというのだろう。転んだら涙が出てしまう、そんな弱い存在だ。


「……でも、行かなくちゃ」


 自分を奮い立たせるように呟くと、少し力が湧いた。ちっとも、行かなくちゃなんて気持ちにはなれていない。それでも、口に出すとさっきよりも頑張れる気がした。

 そして、泣いている場合じゃないことを思い出す。ここで立ち止まったら、二度と彼らに会うことはできないのだ。取り戻すことができないのだ。村にも帰れない。……神様にも会えない。


 森の奥を目指して歩き出してから、神様のことを思い出す余裕がなくなっていた。思い出さなくても、みんながいてくれたから平気というのもあったかもしれないけれど。

 神様は、今頃何をしているのだろう。

 一緒にご飯を食べて、おしゃべりをしたのが懐かしい。そんなに日にちは経っていないはずなのに、神様と過ごした時間は遠い彼方にある気がする。


(笑ったとき、ちょっと子供っぽくなるのが可愛いんだよね)


 綺麗な顔なのに、大人の男の人なのに、とても柔らかく笑うから、それが彼を少し幼く見せるのだ。

 その顔を思い出すだけで胸がキュッと締め付けられて、じんわりと熱くなる。

 優しいぬくもりと、日向のにおいが恋しい。


「……会いたい」


 言葉にすると、その思いは一層強くなった。

 神様の元を発つときに、彼に必ずもう一度会うのだと決めたのだ。戻れないだなんて、考えていなかった。

 みんなにも会いたいけれど、神様にも会いたい。……その両方を叶えられるのかはわからないけれど、私はとにかく進まなければならない。

 そう思うと、地面を踏みしめる足に自然と力が入った。



「……お家?」


 日が暮れた暗い道を杖の光だけを頼りに歩き続けていると、少し先に家の灯りらしきものが見えてきた。

 こんな森の奥に家が……という違和感はもちろんあるけれど、それとは別の胸のざわめきを私は感じていた。

 急ぎ足で近づくにつれて、その感じが強くなる。

 まさかと思ってほとんど駆け寄るようにその家の前まで行って、私はあまりのことに叫びそうになった。それを何とか両手で口を押さえることで防ぐ。


「……私の、家。おばあちゃんと暮らした、家」


 目の前にあるのは、私の家だった。

 おばあちゃんと暮らしていた、小さな家。

 村にあるはずのそれが、なぜか今、森の中にあった。


「…………」


 おかしいと思ったのに、私は戸に手をかけることを止められなかった。考えるよりも先に体が動いていたのだ。

 戸を開けると、部屋の灯りが暗い森に漏れ出して一瞬目が眩む。その眩しさから解放されると、私の視界には懐かしい光景が飛び込んできた。


「おかえり、エミリア」


 小さなお家の、その真ん中にあるテーブルのそばで、おばあちゃんが椅子に座っていた。

 膝の上には何か布があって、針仕事をしていたのがわかる。

 おばあちゃんは、薬を作っていないときは縫い物や繕い物をして私の帰りを待っていてくれた。

 そして私が帰ってくると、優しい笑顔で迎えてくれるのだ。


「……ただいま、おばあちゃん」


 迷う気持ちは正直あったけれど、気づいたときには家の中に一歩踏み入ってしまっていた。おかしいのはわかっているけれど、ありえないと思っても、この光景を拒絶することはできない。


「まあ、随分と疲れた顔をしているじゃない。それに帰りも遅かったし。さあさあ、早く手を洗って、ご飯にしましょ」


 椅子から立ち上がったおばあちゃんは、そばまでやってきて私の背中を押した。その痩せて硬くなった手には温もりがあって、ちゃんとそこにいるのだということがわかる。


「どうしたの? まるで獣に化かされたみたいな顔をしてるけど」


 私の顔を覗き込んで、そんなふうにいたずらっぽく笑う顔も見慣れたおばあちゃんのもので、それがより一層私の頭を混乱させる。


「……おばあちゃん、死んじゃったんじゃなかったの?」

「……何言ってるんだい、この子は。そんなわけないでしょ? またどこかで居眠りして変な夢でも見たのね」


 素直に疑問を口にすると、おばあちゃんは心底驚いたというように目を丸くした。そして一呼吸おいたあと、おかしくてたまらないといった様子で大笑いをした。


「エミリアは本当にしょうがないねぇ。いつまでも寝ぼけた顔してないで、手を洗って来なさい。しっかりご飯を食べて、しゃんとしないとね」

「……うん」


 元気に笑うおばあちゃんはおばあちゃんそのもので、おかしいところなんてまるでなかった。

 それに、確かに私の頭はボーッとしていて、夢から目覚めたときみたいだ。


(そっか。私ってば寝ちゃってたのね)


 何かが引っかかる気がするけれど、温め直された鍋から香ってくるスープの匂いのほうが気になって、手を洗って戻ってきたときにはそれどころじゃなくなっていた。

 さっきまで忘れていたくせに、匂いを嗅いだ途端空腹を思い出すなんて、私の体は調子がいいだ。

 ぐぅと鳴るお腹を押さえて、私はおばあちゃんに促されるまま食卓に着いた。


「美味しそう。いただきます」

「たんとおあがり。今日はお隣さんにリンゴをいただいたからケーキも焼いたよ」

「やった!」


 食卓には温かなスープとパンとジャム、それからリンゴと木の実のケーキが並んでいる。全部おばあちゃんの手作り。

 毎日食べても飽きないくらい美味しくて、私の大好きな味だ。


「おばあちゃん、すっごく美味しいよ」

「そうかい。どんどん食べなさいね。エミリアは育ち盛りなんだから」

「うん」


 にこにこして私の顔を見るおばあちゃんを見ながら、淋しくないっていいなと思った。どうして急にそんなことを思ったかはわからないけれど、お父さんとお母さんを亡くしておばあちゃんのところに来たときも、そんなことを強く思ったことを思い出した。


「そういえばおばあちゃん、何を縫ってたの?」

「春祭りのときにエミリアが着る服だよ。お前も年頃だからね。祭りには特別な服で行きたいだろうと思ってね」

「ありがとう!」


 おばあちゃんは、私が帰ってくるまで縫っていたらしいものを広げて見せてくれた。それは深緑の綺麗なワンピースで、袖も裾もふんわりとしてとても優雅な感じだ。


「あんたのお母さんが若いときに着ていたものを繕い直したものだけどね、襟ぐりや袖に飾りを付け足したから」

「素敵! 私、こんな綺麗な服着たことないよ。お姫様になった気分!」

「大袈裟だねぇ。でも、本当にこの服を着たエミリアは綺麗だろうね」


 ワンピースを体に当ててその場でターンをして見せると、おばあちゃんは嬉しそうにしてくれた。

 おばあちゃんが可愛がってくれるから、私はおばあちゃんの前だと少し子供っぽくなってしまう。今のだってちょっと子供じみてるなと思ったけれど、嬉しくてついやってしまったのだ。おばあちゃんがこうして笑ってくれるとわかっているから。


「このワンピースに合うようなネックレス持ってなかったかな……」


 鏡の前で合わせてみながら、数少ない手持ちのアクセサリーを思い浮かべていた。すると、あるペンダントが頭に思い浮かんで、その直後にそれがポケットの中にあることを思い出した。


「これ……?」


 ポケットの中にあったのは、つやつやに磨かれた木の玉が飾りとしてついたペンダントだった。鎖ではなく革紐のそれは、明らかに私の趣味じゃない。でも、すごく大切なもののような気がする。


「……お守り」


 確かこれは、誰かにもらったお守りだった。これをくれた人は「このお守りが俺の代わりに君を守るだろう」と言ったのだ。その人はそのあと、どうしたんだったっけ?


「…………」


 思い出そうとすると、靄がかかったみたいに記憶が霞む。まるで夢の内容を起きてから思い出そうとしたときのような、あのモヤモヤとした感じ。

 このお守りをもらったあと、私はすごく悲しい思いをしたのだ。

 というより、私はここ最近ずっと大きな悲しみの只中にいたはずなのだ。悲しくて、辛くて、そんな中で出会った人がくれたものだったはずだ。そのことは思い出せたのに、肝心なことが思い出せない。

 ……悲しいことって、一体何だったのだろう?


「エミリア、ボーッとしてどうしたんだい?」


 鏡の前で動かずにいた私を心配したのか、おばあちゃんが近くまできて顔を覗き込んできた。

 私はおばあちゃんと手の中のお守りとを見比べる。その瞬間、頭の中で何かがカチリと噛み合う感覚がした。靄の向こうに、忘れてしまっていたことを思い出す。


「……おばあちゃん」


 優しく気遣わしげな顔をしたおばあちゃんを見て、私は思い出してしまった。

 この顔は、もう二度と見られないはずのものだということを。

 おばあちゃんは、死んだのだ。

 病に侵されながら、最後まで私と村の人々のことを思って死んでいったのだ。

 おばあちゃんは、自分のことを魔女だと恐れ差別し遠巻きに見るようになった身勝手な村人たちのことを、最後まで心配していた。善良なまま、誰のことも恨むことなく。

 村の人々がそれを知ることはなかったけれど。


「エミリア、本当にどうしたんだい?」


 おばあちゃんの穏やかな声が、本当に悲しかった。泣いてはダメだとわかっているのに、涙が溢れてきてしまった。


「……おばあちゃんにまた会えて、すごく嬉しかったよ。でもね、私は行かなくちゃいけないの」

「……エミリア」

「おばあちゃん、大好き」


 ティノからもらったお守りを握りしめて、私はおばあちゃんに向き合った。

 認めてしまえばおばあちゃんがいなくなってしまうとわかっていても、私はこの幻を振り払う必要があったから。

 幻を振り払えば、おばあちゃんに会えなくなる。もう二度と、絶対に。

 それがわかっていても、私はこの優しい幻と決別しなければならなかった。

 おばあちゃんは優しい笑顔のまま、霧が晴れていくようにどんどん透けていって、やがて見えなくなってしまった。二人で暮らした思い出の家も、一緒に消えていった。

 私は、暗い森の中にひとり立っていたのだ。たったひとりで。


「……行かなくちゃ」


 涙を拭って、杖にまた光の玉を灯す。ぽっかりと、私の周りだけ明るくなって、それがより一層淋しさを際立たせる。

 私は、ひとりなのだ。森で出会った彼らはみんな行ってしまったから。今頃きっと、みんなそれぞれに自分の弱さと向き合っている。

 この森は、私たちを試すのだろう。私は、まさに今、試された。まるでぬるま湯のような心地良い夢に囚われそうになったのだ。

 でも、ティノがくれたお守りのおかげで無事に戻ってくることができた。


 魔物は恐ろしい思いをさせるのだけが手口ではないらしい。今のように甘い夢を見せて、そこに永遠に閉じ込めようとするような残酷なこともできるのだ。

 改めて魔物の手強さを身を持って知ったけれど、私の足はちゃんと動き続けていた。

 私を閉じ込めるために見せたあの世界は、新たに私に活力をくれた。

 たとえまやかしであったとしても、おばあちゃんの笑顔が、声が、私をこうして進ませてくれる。

 幻の中で、たしかに私は愛され、慈しまれて育ったのだと、思い出すことができた。それは私の力になる。


「必ず帰るよ」


 もうおばあちゃんが待っていてくれることはなくても、二人で過ごした思い出のあの家に帰るのだ。あの家が、そしてあの村が、私の帰る場所だ。

 みんなのことも、取り戻さなくてはならない。神様のところにも、帰らなくてはいけない。

 そのために、私はもう一度歩きだした。

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