第12話 暗い森を行く

 森を奥へ奥へ向かって進んでいくと、天気はどんどん悪くなっていった。

 雨はまだ降らないまでも、空の暗さは深みを増していた。黒々とした厚い雲が頭上を埋め尽くしているから、言い知れない圧迫感がある。これなら真夜中のほうが幾分ましだ。

 雨の降り始め特有の土埃が湿り気を帯びるにおいが満ちる中を、私たちは言葉少なに進んでいた。

 空を見上げるのが嫌になって足元を見ても、気持ちは明るくならなかった。花が咲いていないのだ。カサついた地面が見えるだけだ。

 森を奥へ進むうちに植物が減っていることに気がついた。木はあるけれど、春を彩る小さな花なんかは見当たらない。

 そんな、ただただ鬱蒼とした暗い森を歩いていると、気が滅入ってくる。

 息苦しささえ感じるほどの陰鬱さだ。


「空気が重たいな」

「そうね」


 隣をぴったりついて歩いてくれるウォルは、湿気の多い空気に少し疲れているらしい。口を開けていることが多くなってきた。じっとりとしたこの空気は、ウォルの毛並みを濡らすのだろう。だって、私の服も生乾きのような気持ち悪さがあるもの。


「そうだ。ウォル、こうしてみたらどうかな?」


 私は短く呪文を唱えて、杖を一振りした。そこから送り出されるのは、微かな風。

 その風は、ウォルの毛並みの上を軽く滑っていく。


「気持ちいい。空気が流れるだけで大分違う。エミリア、ありがとな」

「どういたしまして」


 使えるようになったときは自分のスカートを揺らす以外の使い道が思いつかなかったのだけれど、今こうして役立って良かった。

 ひとしきりウォルに風を当てたあとは、他のみんなにも順番で風を送っていった。その風に、みんなちょっとだけ明るくなる。

 でも、歩くにつれてそんな余裕はなくなっていった。



「……落ち着かないな」

「クラウスもか」


 クラウスとウォルは、しきりに当たりを見回している。

 私も、彼らと同じように落ち着かない気持ちでいたけれど、それがなぜなのかはわかっていなかった。


「見られてるってウォルが言っていたのはこの感覚か」


 肩の上のルーに言われて、やっと理由が理解できた。

 確かに、視線のような、気配のようなものを感じるのだ。ただ、それを“見られている”と表現するにはあまりにも範囲が広い。


「……囲まれてるの?」

「いや……僕らは攻め入るというより、迎え撃たれるようなものだからね。これだけ気配を感じるのは、僕らが魔物のすぐ近くか、その只中にいるからじゃないかな」


 魔物の口から侵入して、そのお腹の中まで入り込んだというような想像をして、私は全身が総毛立つのを感じた。

 森全体が魔物の領分なのだと思うと、有利不利という話ではない。

 でも、あまり気にしすぎるとこの空気に飲まれてしまいそうな気がしたから、私はもう周りを見回すのはやめて前だけ向いて歩くことにした。



「クソッ! 霧が……!」


 しばらく歩いていくと、突然視界が白くなった。湿気に弱り切っていたウォルが苛立たしげに叫ぶのを聞きながら、私はすぐに杖を構えた。


「風を」


 唱えた瞬間、空気をかき混ぜるように杖から小さな風が起きる。その風はミルク色の霧を少しずつ押し流すけれど、薄めることはできても完全に視界を晴らすことはできなかった。


「エミリア、それより灯りを!」

「わかった!」


 クラウスに言われて、光の魔法に切り替えた。いつもより大きめの光の玉を杖の先に灯して、それを高く掲げる。

 微かではあるけれど、それによって視界が確保される。


「ウォル、鼻は効くか?」

「何とかな」

「じゃあ、ウォルが先頭をきってくれ。みんなは手をつないではぐれないように」

「エミリアは俺と手をつなごう。俺がついてるから怖くないぞ」


 先生のようにクラウスが指示を飛ばして、みんなそれに従った。

 すかさず私の手を握ったのはティノだった。ということはティノのもう片方の手をハインかクラウスが握り、ハインとクラウスが手を繋いでるのだと思うと、ちょっと見てみたい気もする。

 でも、ミルク色の視界はちっとも晴れる様子はないから、見ることはできないけれど。

 私たちはそうやって手を繋いで、再び歩き始めた。



「ウォル、どうしたの?」


 しばらく進んだところで突然、ウォルが足を止めた。

 何かがいると言ったときにやっていた、耳をピンとそばだて毛の一本一本まで緊張させているような、あの様子だ。全身で警戒している。


「今、何かが向こうにいたんだ。……すごく大きな気配だ。でも、魔物とは違う気がする」


 恐れを感じたのか、ウォルは一歩後ずさった。尻尾は垂れ下がり、隠すように足の間に挟んでいる。


「ウォル、怖いのね。……道を変える?」


 このまま行けば、確実にウォルの恐れているものと出会うことになるだろう。それが魔物ではないのなら、わざわざ遭遇する必要もない気がする。

 けれどウォルは、まるで恐れを振り払うように後ろ足を一度大きく踏み鳴らして言った。


「犬だ! 大きな犬だ! ……負けない! 俺は負けない!」

「待ってウォル!」


 呼び止める声も聞かず、ウォルは走って行ってしまった。つむじ風のように速く、あっという間に見えなくなった。

 そのおかげで、少し霧が晴れた。

 でも、残された私たちは、ただ戸惑うしかなかった。


「エミリア、君にはウォルが言っていた犬は見えた?」

「ううん、見えなかった」

「そうか……でも、この中ではあいつが一番鼻が効いて目が良かったはずだから、きっと何か見たんだよな」


 取り残された私たちは、一旦足を止めた。

 ウォルは一体何を見たのだろう。得体の知れないものへ向かって行ってしまった彼はどうなるのだろう。ウォルが消えた先へ目を凝らしても、私には何も見えなかった。

 クラウスはどうしたものかとしばらく思案していた様子だったけれど、やがて決意したようにきっぱりと言った。


「進もう。ここまで来て、僕たちに戻るという選択肢はないんだ。それに、進めば必ずウォルにも会えるさ」

「……そうね」


 元から、進む以外の気持ちはなかった。

 霧はまだ完全には晴れないし、空気の重さは増していて少し足が重くなっているけれど、ひとつ深呼吸をして私はまた歩き出した。

 進まなければ。進み続けていれば必ずウォルに会えるだろうし、きっとそれ以外に彼を取り戻す手段はないから。

 戻るという選択肢がない以上、進み続けるしかない。



 手を繋いだままだけれど、言葉を交わす余裕もなくなってしばらく歩いた。

 歩いても歩いても、一歩先の周囲しか見えないような視界が続いていて、どんどん気が滅入っていた。

 それでも歩き続けていると、全身が粟立つような恐ろしい気配と行き合ってしまった。


「……何かいる」


 私の呟きに、ティノが黙って握る手に力を込めてくれる。それでも、私は自分の体が震えるのを抑えることができない。

 その気配は、離れたところから吟味でもするかのように、ゆっくりゆっくりと、私たちの周りを回っていた。


「エミリア、俺がついてるからね」

「……うん」


 そんなふうに言ってくれるティノの声も震えていた。

 仕方がない。姿が見えなくても気配だけで私たちを恐怖させるような雰囲気を相手は持っているのだ。


「見えない分、こちらが不利だ。……この状態で勝つには、たった一回の奇襲の機会に相手に大きな損傷を与えるしかない」


 気配がジリジリと近づいてくるのを感じて、体の震えは一層激しくなった。それはティノも同じらしく、繋いでいる手に至ってはどちらの震えのせいかわからないほど揺れていた。

 そんな私の肩の上で、ルーは手製の小さな弓を手にしていた。


「……ルー、何をするの?」

「エミリアちゃん、動かないでね。ちょっと行ってくるよ」

「待って!」


 自分の体の大きさと変わらないほどの弓を大きく引き絞ると、ルーは矢の代わりに自身を弾き、遠くへ飛ばした。

 さっきのウォルとは比べものにならないほどの速度で、ルーの体は霧の向こうに飲まれて行った。

 私の肩には、ルーの弓だけが残されていた。


「……行っちゃった」


 ウォルに続きルーまで失って、私は自分がすごく衝撃を受けていることに気がついた。ルーは軽口ばかり叩くお調子者だけれど、森の奥へと向かい始めてからは肩でずっと私を励まし続けてくれていたのだ。

 その声が聞こえなくなって、唐突に不安に襲われる。


「……行こう。行かなくちゃ」


 絞り出すように言ったクラウスの声に背中を押され、私は重い足を一歩踏み出した。

 これから何があっても、私たちは足を止めるわけにはいかない。ウォルに続きルーも行ってしまって、今更引き返すなんてできない。

 ……これから、たとえたったひとりになったとしても、私は進まなければならないのだ。

 その思いはみんな同じらしく、黙って歩き続けた。



「……声がする」

「え?」


 手を繋いで私のすぐ後ろを歩くティノが、消え入りそうな声で言った。

 休まず食事も摂らず歩き続けているから、体はヘトヘトに疲れている。それで気弱になっているのかと思ったけれど、振り返って見てみると、どうもそういう様子ではなさそうだ。


「声って、どんな声が聞こえるの?」

「悪口だ……誰かが俺の悪口を言ってる」

「…………」


 私には聞こえない声に怯えるティノが、私たちには見えない犬を追って行ってしまったウォルと重なって、不安になった。

 次は、ティノがいなくなってしまうのだろうか。


「ティノ、落ち着くんだ。心を乱されたらダメだよ。相手の思う壺だ」

「そんなこと言っても……聞こえるんだ。ずっとずっと」

「それはそうだろう。そうやって言われるのが、お前の苦手なことなんだから」

「クラウス、どういうことなの?」


 ティノをなだめるクラウスの言葉は確信に満ちているけれど、私にはそれが何故なのかわからない。


「歩きながらずっと考えてたんだけど、たぶん魔物は僕らの恐れていることや弱点を刺激しているんだと思う。……呪いも、たぶんそうなんだ」

「呪いも?」

「うん。僕らは、みんな自分たちが恐れていたことや弱さに関係する姿になっているんだ」


 そこまで言って、クラウスは大きく息を吐いた。たぶん、呪いについて口にするのは、恐れを口にするのと同じだからためらわれるのだ。

 でも、少し黙り込んだあとでクラウスは思い切ったように口を開いた。


「ウォルはね、ちっちゃいときに犬に噛まれたんだ。それで、成長してからも犬が怖い。ルーは、自分が背の高さしか取り柄がないんじゃないかって気にしていた。ティノは、泳げなかったもんな。だから水浸しなんだと思う。ハインは悩みや辛いことがあると人と距離を取るし、よく木に登ってたな。あれは、隠れたかったんだろ? だから葉っぱまみれになってるんだろう。そして僕は、影が薄いのが悩みだった。よく『あれ、いたの?』なんて言われていた。だからね……人に忘れられるのが怖い。いないものとして扱われるのが怖い」

「……!」


 自分のことを話すようになったとき、クラウスの声は一段小さくなった。それだけじゃなくて、だんだんとその姿が薄くなっているのがわかった。


「クラウス、待って! 行かないで!」


 呼び止めるのも虚しく、クラウスの体は霧に溶けるように見えなくなってしまった。

 ティノが手を繋いでいたはずなのに、握った手の形のまま、クラウスだけがいなくなっていた。

 クラウスは、自分の恐れを自覚したから消えてしまったのだろうか。

 それなら、ウォルもルーもいなくなってしまったのだろうか。


「……行くぞ」


 立つのもやっとになってしまった私の手を、ハインがつかんだ。杖を持つ手に大きな手が重ねられて、ハインとティノに両手を握ってもらっている状態になる。


「不安がるな。進むんだ。進んで、魔物に会って、倒してしまえばみんなにまた会える」

「……うん!」


 今までずっと黙っていたハインが、クラウスがいなくなったことで頑張って話してくれているのがわかって、私はそれに少しだけ励まされた。

 年長者だったクラウスがいなくなってしまって、不安なのは私だけじゃない。不安な者同士で支え合って進むしかないのだ。



 それからは、これまでとは比べものにならないくらい辛い道のりだった。

 六人で歩いていたのに、今では半分になってしまった。


 そして、これから起こることを、私は心のどこかで予想していた。



「……エミリア、俺も行くよ」

「ティノ?」


 ずっと強く握っていてくれた手を離して、唐突にティノが言った。


「ウォルも、ルーも、クラウスも、みんな立ち向かって行ったんだ。俺も行かなくちゃ」

「……どういうこと?」

「みんな、自分の弱さと向き合いに行ったんだ。向き合うまで、きっとついてくるからね」


 ティノの声は決意に満ちていて、迷いがまるでなかった。声を聞いたと言って震えていたのと同じ人だとは思えないほど、凛としている。

 わかっていたことではあった。ティノも行ってしまう、と。でも、いざそのときが来るとやっぱり嫌だ。


「エミリア、これを君にあげる。お守りだよ。きっと、俺の代わりに君を守ってくれるよ」

「嫌よティノ!」

「またね」


 私の手に何か握らせると、ティノは霧の中にかけていってしまった。あっという間に見えなくなった背中の代わりに手の中を見ると、そこにはペンダントがある。

 つやつやに磨かれた木の玉がついたペンダントだ。きっとティノが大事に持っていたのだろう。まだ温もりが残っている。


「エミリア、行こう。大丈夫だ。あんたと一緒にいることが俺にとっての“向き合う”ってことだろうからな。……俺はこういうときにはひとりになりたいんだ。でも、向き合わなきゃいけないなら一緒にいる」

「……うん」


 さっきまでティノと繋いでいた方の手を今度はハインと繋いで、私は歩き出した。

 きっと、ハインとも最後までは一緒にいられないのだ。それでも、この手を繋いでいられる間は繋いでいたい。



 歩き続けていると、霧が少しずつ薄くなってきた。それによって今まで見えなかった森の様子が見えてくる。

 森は随分と荒廃していた。同じ森だとは思えないほど薄暗く、植物も数が少ない。痩せた木が並ぶだけの淋しい森だ。

 その閑散とした景色に、魔物の存在が近いことがわかる。

 見ているだけで心が寒々としてくるような、そんな景色だった。


「……!」


 景色に気を取られ足元への注意が疎かになっていたせいで、石に躓いてしまった。踏みとどまろうとしたけれど、虚しく私の体は地面に倒れこむ。

 小石の多い地面に叩きつけられ、手と頬を擦りむいてしまった。手のひらからにうっすらと血が滲む。

 落とした杖を拾い上げてもう一度光を灯して立ち上がって、そのときになって転んだことより恐ろしいことに気がついた。

 なぜ、私はこんなふうにひどく転んでしまったのか?

 助け起こしてくれるはずの人はどこに行ったのか?


「……ハイン? ハインー!」


 辺りを見回して叫んでも、私の声が虚しく響くだけだった。

 いつの間にか、ハインはいなくなってしまっていた。私は、ひとりになってしまっていた。


「……そうか。これが私の恐れていたことだったのね」


 理解して呟いてみても、答えてくれる人はもう誰もいない。

 私はついに、本当にひとりになってしまったのだ。

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