第8話 ぴたりと影がつきまとう

「……俺、お腹空いちゃったよ」

「え……」


 歩き出そうとした私のスカートを噛んでウォルが言った。それをきっかけに、俺も僕もという声が四人分続く。

 歩きながら話そうと思っていたけれど、そう言われたら私もお腹が空いた気がしてきた。今にも“ぐぅ”という間抜けな音がしてしまいそう。

 安心感というのはお腹を空かせてしまうものなのかもしれない。それに、ウォルは私を助けるために走ってくれたし、ルーを探して歩いてくれた。疲れたし、確かにお腹が空くだろう。言われて、そのことに思い至った。


「じゃあ、ご飯にしようか」


 私がそう言うと、歓声が上がった。

 みんな、たぶん私と歳が近い普通の男の子たちなのだ。呪いによって姿が変わっているからルー以外、表情というものがわからないけれど、みんな何だか嬉しそうで、私も嬉しくなった。

 安心すればお腹が空くし、ご飯となれば嬉しい。

 それはこうして姿が変わっても変わらないことで、一緒にご飯を食べられるのは、幸せなことだ。

 おばあちゃんを亡くしてひとりでご飯を食べてきた私としては、誰かと食べるご飯は本当に嬉しい。

 だから、こんな状況であってもいそいそと支度をしてしまうのだった。


「ご馳走になったね」


 目の前の食事を見て、ちょっと感激してしまう。

 池のほとりに焚き火をして、そのそばに並べられたのは神様が持たせてくれたパンとケーキと、焼き魚と木の実。

 魚は、ハインが木の枝をうまいこと使って釣り上げてくれた。

 木の実は、ルーとティノが拾ってきてくれた。

 焚き火をするための小枝はウォルが一緒に集めてくれた。

 持たせてもらった杖で火を起こして魚を焼いている間に、誰かがお皿に使えそうな大きめの葉っぱを見つけてくれていた。

 そして、いつの間にか用意は整っていた。

 男の子たちだからと少し侮(あなど)っていたけれど、もう泥だけになって転げ回っているような感じではないらしい。年頃の男の子というものがこんなにも有能で、こんなにも頼りになるのだと初めて知った。もしかしたら、私よりずっと立派なのかもしれない。


「美味しい」


 魚を一口かじると、香ばしい香りが広がって「ああ、お腹が空いていたんだ」ということを改めて実感する。調味料なんてないから、ただ焼いただけだ。それでも、疲れてうんとペコペコだったお腹にはすごく美味しく感じられる。

 みんなもそうだったみたいで、並べられた食事は次々となくなっていった。

 ピクニック気分だったのは私だけで、みんな本気でお腹が空いていたらしい。戦場だ。油断したらあっという間にすべてを食べ尽くされてしまいそう。だってみんな無言なんだもの。食べるということがどれほど生き物にとって重要なことか――なんてことを考え始めてしまいそうなくらいには、みんな真剣だった。


「あれ、ケーキがない。最後に食べようと思ってたのに」


 予想していたことだったけれど、そんな声が上がった。あれだけ夢中で食べていたら、誰かが余計に食べてしまうこともあるだろう。食べている間に自分のお皿と人のお皿を間違えたのかもしれない。


「俺もあとで食べようと思ってたパンがない。お前、食ったか?」

「食ってねぇよ」


 小さいくせによく食べるルーが、疑惑の眼差しをウォルに向ける。確かにウォルは食べるのが早いけれど、人のものを盗っていないのは隣で私がきちんと見ている。


「人数分きちんとあったからな。誰かが余分に食べたということだろ?」

「それじゃ、誰かが人の分を盗み食いしたってことになるのか?」


 パンとケーキを足りない分をバスケットから出せばいいと思ったのに、ハインとウォルがそんなことを言い出してしまう。こういうとき、犯人捜しになるのが一番良くないのに。喧嘩をしてしまうくらいなら、食糧が少し減ったほうがまだいい。これから行動を一緒にする上で、仲違いしたり溝ができたりするほうがよほど困るのだから。険悪になるのがいけないということは、村にいて嫌というほど感じている。


「まあまあ、落ち着きなよ。犯人捜しはすべきじゃない。みんなお腹が空いていたんだ。間違って食べてしまうこともあるよ」


 どうやって取りなそうか考えていたときに、私と同じ考えを口にしてくれた人がいてホッとした。こういうとき、こんなふうに物腰柔らかな人がいると助かる。男の子たちは口調がきついぶん、口論が加熱したときが厄介だから。

 でも……


「今喋ったの、誰?」


 ティノとルーは自分たちの分がなくて不機嫌になっているし、ハインとウォルはこの事態を納得していない。みんな、どこかしらピリピリしている。

 穏やかな言葉を発することができる人が、今ここにいただろうか。

 私は、ここにいる全員の顔を一人一人見回した。

 そして、奇妙なものを視界に入れてしまった。


「……え? 誰? 何?」


 焚き火を囲む形で、みんな円陣を組むように腰掛けている。その私のはす向かいに座っているハインの隣、ティノの後ろに少し隠れるように見知らぬ人がいた。

 存在感がない人を影が薄いとか影のようなと表現するけれど、それはまさしく影だった。

 私の視線に気がついて、ウォルとルーも同じところに目をやって、ひっと息を飲んだ。恐怖に引きつる二人の顔に気づいて、ハインとティノも恐る恐る背後に目をやった。そして、同じように絶句した。

 今まで気づかずにいたのに、気づいた途端怖いと感じてしまう。

 私たちの怖い思いを感じ取ったのか、影も慌てた様子で自分の後ろを振り返った。


「いやいや、あなたですよ! 後ろ振り返らないでください。何もいませんから! あなたです!」


 影のおかしな動きに、思わず突っ込んでしまう。みんなが何かに怖がっていることに気がついてつられて怖がっているけれど、自分自身の存在が恐怖の対象だときがついていないのがおかしい。


「ちょっと待ってみんな。何? そういう怖い冗談やめてよー」

「…………」


 そんなことを言いながら影はみんなの視線が自分に向けられているとは知らず、心底怖がる仕草をした。でも、何度か後ろを振り返り、視線の注がれる先がようやく自分だとわかったらしい。


「……僕?」


 影の問いかけに、みんな一斉にコクコクと頷く。そんな反応をすることを想定していなかったのか、影はしばらく戸惑ってから、ショックを受けたようにうなだれた。


「僕だよ! クラウスだよ!」


 影、改めクラウスは必死な様子でそう訴えるけれど、「誰?」とか「いつからいたんだ?」とかそんな反応しかみんな返さない。冷ややかな感じだ。でも、本気でみんな思い出せないらしい。

 私も、「クラウスだよ」なんて言われたところでわからないし、いつからいたのだろうということが気になってしまう。いつの間にか私たちのそばにやってきて、気づかれずにずっといたというのは怖いことだ。

 でも、クラウスのしょんぼりしたり慌てたりする姿に妙に親近感を覚えてしまい、見ているうちに怖いという気持ちはなくなっていた。


「クラウスも、呪われた人なのね。……そっか、神様は呪われた人間は五人いるって言っていたものね」


 忘れていたことを思い出して、途端に納得する。最初から神様は教えてくれていた。


 ウォル、ルー、ティノ、ハイン、そしてクラウス。

 私はこうして無事に五人と出会うことができたのだ。


「あの、いつ頃から私たちのそばに?」

「お腹が空いたってウォルが言ったあたりから」

「じゃあ、一緒にご飯を食べていたのね」

「うん」

「だから、足りなくなったのね」


 クラウスが食事に参加していたのだとわかると、腑に落ちた。五人分しかパンもケーキも並べていないのだから、そこにクラウスが加われば当然足りなくなる。


「昔から、存在感薄いもんな」


 ようやく思い出したらしいウォルがぽつりとそう言って、それに他のみんなも頷いていた。その様子に、クラウスはまたがっくりとする。それから気を取り直したように顔をあげると、私のことをジッと見つめた。


「ちょっとの間眠ってしまったと思っていたんだけど……君がそんなに大きくなっているところを見ると、長い時間が経っていたんだね」

「……?」


 クラウスは、そっと小首を傾げて私を見ていた。影だから表情は見えないけれど、慈しむようなその仕草にはくすぐったさを覚える。これは近しい関係の年長者が、小さな子供にする仕草だ。

 おばあちゃんも、ここ数年はお手伝いをする私を見て、眩しそうに目を細めながらそんな仕草をしていた。「エミリア、また大きくなったんじゃないのかい」なんて言いながら。

 でも、私はクラウスにそんなふうに優しい眼差しで見つめられる理由がわからない。


「あの……私はクラウスと初めて会うと思うんだけど」

「ああ。ちびさんだったから覚えていないのかもしれないね。でも、僕は君と会ったことがあるよ。大きくなったね、クラウディア」

「…………」


 人違いをしているのだろうとは思っていたけれど、クラウスの口から出た名前を聞いてますます混乱してきた。

 見間違うほど私によく似たクラウディアという名前の女の子……それってもしかしなくても、私のおばあちゃんじゃないのかな。


「私の名前はエミリアよ。……クラウディアは、私のおばあちゃんの名前なんだけど」

「……え?」


 私の言葉を聞いて、クラウスも驚いていた。たぶん、クラウスも私と同じことが頭に浮かんでいるのだろう。

 ウォルたちが呪われて、私に出会うまでのあいだ意識がなかったということはわかっている。でも、それが時間にするとどのくらいの長さということは、今まで考えなかった。

 誰も、そんなことは尋ねなかったから。


「……ちょっと待って。眠っていた長さは十年いくかいかないかだと思っていたのに、それでもあまりにも時が経ち過ぎているのに……あのちびさんだったクラウディアがおばあちゃんになって、おまけに君は孫だって?」


 事態を理解したのはクラウスだけだったようで、彼のうろたえるさまを見てみんなわけがわからないという顔をしていた。

 クラウスは両手で顔を覆って何度か深く大きく息を吸った。たぶん、落ち着こうとしているのだろう。

 でも、しばらくそのままの姿勢で動かないまま考え込んでから、おもむろに顔を上げた。


「クラウディア……君のおばあちゃんは今いくつだい?」

「六十七でした」

「……六十七……でしたって、亡くなったのかい?」


 もうこれ以上クラウスに衝撃を与えたくはなかったけれど、嘘を吐くこともできないから、私は頷いた。案の定、クラウスはさらにうなだれ、頭を抱えてしまった。

 無理もない。“ちびさん”と呼ぶくらいに幼かった私のおばあちゃんが、成長し、亡くなったと聞かされれば衝撃を受けるだろう。そのくらいの長い時間、彼らは眠っていたということなのだから。


「おい、そこの二人で話が進んでいるけど、俺たちにもわかるように説明してくれないか? クラウスは、一体何にそんなにうろたえてるんだ」


 少し苛立つように、でも心配するようにハインが言う。他のみんなを見ると、同じように困惑しているみたいだ。……ルーしか表情というものがわからないけれど。


「……そうだね。順を追ってみんなにも説明しなくちゃいけないね。思い出せないこと、思い出せることの確認もしておかなくてはいけないし」


 そう言ってクラウスは重い口を開いた。


「まず言っておくけれど、僕たちはどうやら……六十年以上は眠っていたみたいだよ」


 百年ではなく、六十年という数字が現実的だ。

 人の一生にも近い時間を眠り続けていたと聞いて、誰もが言葉を失った。

 でも、誰も「嘘だ」とか「信じられない」なんて言わないところを見ると、クラウスの言葉は真実としてみんなの胸に届いたらしい。


「……そんなこと言われても、俺たち、記憶がなくてよくわからないんだ」


 ひどく困り果てた様子でウォルが言った。

 それはそうだろう。ごく当たり前の反応だと思う。

 目覚めたら訳のわからない姿になっていて、名前の他にはっきりと覚えていることがないのに、六十年も経っていましたと言われても実感がわかないのは当然だ。自分が同じ立場になっても、きっとすぐには信じないと思う。

 誰も、クラウスの話を聞いても取り乱したりはしなかった。淡々と受け止めているように見える。でも、そうやって何の言葉も出ない分、彼らが動揺していることがわかる。人間は、本当に混乱すると叫んだり暴れたりするのではなく、言葉をなくすのだ。


「それはそうだね。僕もわけがわからないもの。……長くなるだろうし、もうすぐ日も暮れるから場所を移そうか。僕がいた場所に案内するよ」


 みんなの動揺を受け止めて、クラウスはそう言って立ち上がった。

 だから、私たちもそれに倣って彼のあとに続いた。

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