第7話 怪しいものではありません

 私の名前を呼びながら斜面を下ってくるものは、艶やかな赤毛をした一頭の獣だった。

 間違いなく、ウォルだ。彼は赤い風のようになってこちらに走ってくる。

 ということはルーも一緒だろう。


「ここよ! 私はここにいるよ!」


 嬉しくて、私は両腕を大きく振った。もう見えていたのか、ウォルは少し速度を落とし、最後のほうはほとんど飛ぶように軽やかに私の元へやってきた。


「怪我はないか?」

「ちょっと擦りむいたけど、大丈夫」

「……良かった。このドジ」

「ごめんなさい」


 息も絶え絶えなのに、まず私のことを気遣ってくれたのが嬉しくて、悪態も気にならない。たった二日一緒にいただけだけれど、もうすっかり私の中でウォルは信頼できる相手だ。ウォルなしの道中なんて考えられない。

 だから、安心して私はウォルの首に抱きついて鼻先をうずめた。そうすることで、さっきまですごくすごく怖かったんだと気がついた。


「ああ、友達見つかったんだな」

「はい。もうこれで大丈夫です」


 私たちのことを黙ってみていた木が、遠慮がちに近づいてきてそう声をかけた。どうやら、感動の再会を邪魔せずにいてくれたらしい。


「ウォル、この人が助けてくれたの。この人も、どうやら呪われているみたい」

「そうなのか。……って!」

「どうしたの?」


 木を見てちょっと怯えた様子のウォルにそう紹介すると、何かに気がついたらしく突然大きな声を出した。そして、クルクルと尻尾を追いかけるような動きをしたり、しきりに背中を見るような仕草をした。

 しばらくそういった動きをしたあと、ウォルはひどく焦った様子で私に言った。


「ルーファスを落とした!」

「え⁉︎」


 言われて急いでウォルの背中を見たけれど、確かにそこにルーの姿はなかった。ウォルの毛はあまり長くなくてすっきりとしているけれど、もしかしたらと思って毛を梳くように撫でてみた。でも、指先に触れるのは毛とその下の皮膚だけで、そこにルーはいなかった。


「……どうしよう。私が、ウォルの背中に置いたりしたから……」


 喜びから一転、ルーを失ったことに気がついて私は絶望した。安心しきっていた心にはそれはかなりの衝撃で、涙が出てきてしまった。

 私がポケットに入れるなり、バスケットに入れるなりすれば良かったのに。

 もっと言えば私が斜面を落ちたりしなければ、ルーを見失うこともなかった。

 そのことを考えて、改めて怖かった気持ちが蘇って涙が止まらなくなった。

 ルーはお調子者だけれど、小さくて無力なのだ。鳥にさらわれてしまうくらい、か弱い存在なのだ。

 そんな彼を招く者が迫る中で一人にしてしまうなんて……


「何だ。今度は泣くのか? 何があった? 忙しないやつだな」


 木は、驚いた様子で私に問いかける。苛立っているわけではなく、焦っているような感じ。そりゃ、出会ったばかりの人が泣き出したら焦ってしまうよねと思って、私は涙が止まらない中、何とか状況を説明することにした。


「もう一人、いるんです。でも、その人と、はぐれてしまって……」

「さっき言ってた小さいほうか?」

「はい」


 私は池に水を汲みに行ったこと、そこで得体の知れないものと目が合って追いかけられてしまったことを話した。

 それが、ぬめりけのある水分に覆われた人型のようだったことも付け加えて。

 話しながら思い出して、怖くなってまた涙が出た。あんな恐ろしいもののところに小さなルーを置いてきてしまったかもしれないことが、すごく悔やまれる。

 ルーがぬめぬめしたものに捕まってしまうのを想像したら、体中のあらゆるものがキュッと引き絞られるような心地がした。


「わかった。探してやるから泣くな。女子供に泣かれるのが一番嫌なんだ。男が泣いていれば『泣くな』と一喝できるが、女と子供にはそれが通じないからな」


 言いながら木は手を差し伸べてくれた。どうやら、手をつないでくれるということらしい。その手を取ると、彼はそのまま歩き出す。ウォルもその隣を歩く。

 迷いなく掴んだけれど、その手の感触が馴染みのあるものでホッとした。少しカサついてはいるけれど、人の肌だった。これがもし木の幹に触れるような感じなら、心細い今の気持ちに寄り添うことはなかったと思う。

 黙々と歩く木の人だけれど、繋いでくれる手が温かかったから、私は何とか泣き止むことができた。カサカサしていても、優しさは十分に伝わってきた。




「斜面を転がり落ちてくる女と喋る犬……しかも自分はこんな姿になってるし。おまけに俺とその犬は呪いでこんな姿になってるだって? 悪い夢でも見てる気分だな」


 ハインと名乗った木の人は、立ち止まって長めの溜め息を吐いた。

 大きくぐるりと迂回して私たちが来た池の近くまでつれてきてくれたその道すがら、自己紹介と状況説明をしたのだ。それを聞いてハインは「わけがわからない」と一蹴した。そしてさっきの言葉だった。

 確かにわけがわからないし、悪い夢かと思ってしまうだろう。でも、残念ながらこれが現実なのだ。少なくとも、私やウォルたちにとっては。


「元の場所に帰ってきたから、あとは落ちてそうなところを探すしかないな」


 まるで人型に剪定(せんてい)されたような姿で目がどこについているのかわからないけれど、ハインはルーを探してくれているようだった。しゃがみこんで、注意深く地面に近い部分に視線を向けている。だから私も一緒に低いところに視線を巡らせた。

 本当は名前を呼んで探してあげたい。でも、さっきの水妖が近くにいるかもと思うと、どうしても声を出すことができなかった。

 こういうときに頼りになるのは、やっぱりウォルだ。ウォルは「野郎の匂いなんか嗅ぎたくねぇけど」と言いながら、ルーの匂いを探して辿ってくれた。


「近くにいる。けど……」

「けど?」


 クンクンと地面を嗅いでいたウォルが、顔を上げて耳を神経質に動かした。これは、警戒している様子だと思う。

 ウォルが見ているのは木々の向こう。さっき立ち寄った池がある場所だった。


「やっぱり、ここにいるんだね。ってことは……」

「ああ。ルーの匂いに混じって濃い水の匂いがするんだ。……たぶん、あいつは変なのに捕まってる」

「そんな……!」

「待て。走って行ってあんたが捕まったらどうするんだ。大丈夫、その水妖があんたらを“招く”ことが目的なら、友達もまだ無事だろう」


 走り出そうとした私をハインが止めた。よく見ると、ウォルも私のスカートの裾を咥えている。


「まったく、何考えてんだ。さっきだってよく見ずに走ったから落ちたんだろ。今度は池に落ちたらどうする? 俺は犬だしハインは木だから、どっちもお前を助けてやれないからな」

「……ごめんなさい」


 言われて、自分の行動が軽率だったことに気がついた。ルーがいるかもと思ったら走って行きたくなったけれど、それで私が捕まったり池に落ちたりしたら元も子もない。ルーを見つけ出すことが目的なのに、私がまた厄介なことになってしまうところだった。ふたりがついていてくれてよかった。私だけなら、きっと事態はどんどん悪化していたに違いない。


「まぁ、確かに俺は今、木になってるけど物には何でも使いようっていうのがあるんだ。エミリア、俺の後ろにぴったりとくっついて体を隠せ。ウォルはその後ろな。……ついてこい」


 言われたとおりにハインの後ろに立つと、すっぽりと私もウォルも隠れることができた。その代わり、視界はハインの後ろ姿に(ウォルの場合は私のスカートに)覆われて、何も見えない。だから、ぴったりとくっついてハインが歩いていくのに合わせて進むしかなかった。


「……エミリアちゃんか?」


 木々の間を抜けて池のある開けたところに出たとき、聞き覚えのある声がした。そんなふうに呼ぶのは、ルーだけだ。

 ハインの背中からそっと池のほうを覗き見ると、確かにそこにルーがいた。

 あろうことか、ぬめぬめの手に握りしめられている。

 

「ルーファス!」

「え? なになに? エミリアちゃん、変なのに捕まってんの?」

「変なのじゃないよ。ハインよ。私を助けてくれたの。ルーこそ、水妖に捕まっちゃったのね!」

「水妖? いやいや、こいつ良い奴なんだ。俺がウォルの背中から落ちたのを拾ってくれて、エミリアちゃんたちが戻ってくるまで一緒にいてくれるって言ってくれたんだ」

「え?」


 ハインの背中越しにルーとそんな会話を交わすと、ルーを握りしめたぬめぬめは、ペコっと軽く頭を下げた。


「可愛い女の子だーっと思ってジッと見てたら逃げられちゃって、つい追いかけちゃったんだ。怖がらせてごめんよ」


 顔は見えないけれど、ぬめぬめはにこやかな感じでそう言った。私たちを安心させるためか、ルーを地面にそっとおろす。ルーは湿ったのか、少しだけ気持ち悪そうに体を震わせて、私の足元まで走ってきた。


「ただいまエミリアちゃん。んー! この匂いが恋しかった」

「落としちゃってごめんね」

「いいのいいの。キスしてくれたら全部チャラ」

「……そうやってすぐ調子に乗るんだから」


 ルーは肩までよじ登ってきて私の頬にスリスリする。ちょっと度が過ぎていると感じたけれど、怖い思いをしたのだからと許してあげることにした。



「ね? ほら、俺は安全だよ。そこの女の子、木の後ろに隠れてないで出ておいでよ」


 ぬめぬめは馴れ馴れしく、私に向かって手を振る。自分のことを安全という人を信用したくなんてないし、ハインとウォルががっちりと私の体を押さえているから行くに行けないのだけれど。

 ハインの背中から目だけ覗かせる私に、ぬめぬめはしつこく手招きする。最初に見たときの得体の知れない怖さはなくなったけれど、胡散臭いという気持ちは拭えない。


「俺、怪しい者じゃないから。名前は……えーっと、そう! ティノだ。ティノっていうんだ! あー……起きたらこんな姿になってるし、頭はぼんやりしてあまりいろんなことを覚えてないんだけど、たぶん、君がキスしてくれたら思い出すと思うんだ!」


 何となく、このぬめぬめが何者かわかりはじめてはいたけれど、キスを求めて両腕を広げた姿を見て私は確信した。

 この人はルーの友達だ。そして、この人も呪われた人だ。この軽薄な感じといい、胡散臭いところといい、同族なのは間違いない。


「……あいつ、ルーの兄弟か?」


 ルーと出会ったときのことを思い出したのか、ウォルが心底呆れたという声で言った。それを聞いて、私も友達というより兄弟という線を押したくなった。

 でも、それは納得いかないらしくルーとティノが騒ぎ始める。


「確かに俺もこいつと喋ったら何か知ってる気がしたけど、兄弟はねぇよ。だって俺のほうが男前だもん」

「何を言うんだ。俺のほうがカッコイイね。俺のほうがモテてたもん」

「嘘つけ。覚えてないくせに」

「覚えてなくてもわかるよ。俺、カッコイイもん」


 似たようなことを言い合うから、聞いているうちにどっちが何を言っているのかわからなくなった。もはやどうだって良いやりとりを聞きながらふとハインを見ると、眉間(と思しきところ)に手を当て考えこむような仕草をしていた。


「どうしたの、ハイン?」

「いや……エミリアが小さい友達って言って必死に探すからリスか何かを期待してたのに見つけたのは可愛くない小人だし、その小人が変なぬめぬめしたのと仲良くなってるし、しかも……どうやら俺はあいつらと知り合いみたいだ」


 頭を抱えんばかりの様子で、非常に残念そうに言う。口に出していったものの、まだ納得できていないと言いたげだ。でも、こういった反応を見るのは初めてではない。


「……ハインも?」

「ああ。何かな、このやりとりを俺は知ってる気がするんだ」


 うんざりした様子でハインは言う。ウォルのほうを見ると、どうやら彼もらしい。鼻の頭に皺を寄せて、嫌そうな顔をして考え込んでいる。

 そんなふたりの反応を見て、神様の言っていた呪いというものの特徴がわかってきた気がした。


「……あなたたち、仲の良い者同士でまとめて呪いにかけられたのね」


 呟くように言うと、その場にいた全員の視線が私に注がれた。

 たぶん、この中で一番ワケがわかっているのは私なのだ。だから、状況整理をできるのも私だけ。

 目的を果たすためには、彼らに私のことをわかってもらわなければならない。でも、その前に必要なことは、彼ら自身のことを理解することだ。


 彼らがどうして森にいるのか。

 彼らの身に何が起きたのか。


 推測の域は出ないけれど、私は頭に浮かんだことを彼らに話してみることにした。

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