第5話 プロテインは命の雫

 天馬の朝は早い。日の出と共に彼は起床する。宿屋のベッドからゆっくりと起き上がり、自らの衣服を脱ぎ捨てストレッチする事から彼の一日は始まる。


 ボディビルダーは体が資本である。日々の鍛錬、食生活、基本的な日常動作においても彼は自身の肉体を第一に考える。このストレッチにしても同様である。少しづつ体を動かしならす事で一日の良いスタートダッシュを決める事ができるのである。


 ストレッチを終えると彼は全裸のまま鏡の前へと向かう。何をするかだって?そんなものポージングの練習に決まっているだろう。ふんぬというかけ声と共に彼は全身余す所無く力を込めた。姿見の前で見事なモストマスキュラーを決めた彼はそのままポージングの維持を続ける。


 ポージングとは決して軽い動作ではない。いいやそれどころか素人が想像する以上にハードな作業なのだ。筋肉の収縮、ハリ、バルクの切れ、注意点等あげればきりがない。全身の筋肉を意識して全力で立ち向かう凄まじい行為なのだ。当然、身体の疲労も尋常ではない。この動作は全力で行うだけで一種の筋トレにすら成り得るのだ。美しいポージングなくしてコンテストの優勝はあり得ない。


 真のボディビルダーはポージングをなによりも重視するのだから。彼は一心に全裸の己と向かい合う。自らの筋肉のインパクトを相手に叩き付ける練習に余念がない。


 

 40分後、満足のいくポージングを終えると彼は汗を拭った。一呼吸し自身の肉体に休息を与えるとそのまま彼は四つん這いの姿勢へと移行する。鉄の如く引き締まったケツをきゅっと突き出し脈動を整えた彼はそのまま腕立て伏せを行う。ただの腕立て伏せではなく片手で行う自重トレーニングである。ジムマシン、器具が使えない現状ではこういった自身の体重を利用して行う自重トレーニングが最も効果的であるからだ。


 気の済むままに彼は自らの肉体を酷使した。その顔のなんと幸福感に満ちあふれている事だろう。バーゲンセールを勝ち得た主夫の様に充実した表情である。


 その後自らの一張羅である鮮色のブーメランパンツを身につけると静かに部屋を出て行く。古い木材を使用した家屋、すすけた木々の壁からはそこにいるものに歴史を感じさせる。木々の優しい香りを存分に堪能しつつ彼は宿屋の一階に下りる。木目調の床を掃き掃除している女将に対して天馬はさわやかに挨拶をする


「ごきげんよう、良い朝だね」


「えぇ、とっても」


 さわやかな笑顔で挨拶する天馬。引きつった笑顔で返答する女将。男がこの宿に泊まって三日目になるが、未だに女将は彼という存在に慣れる事は無かった。まぁ朝一で裸のムキムキマッチョマンを目撃して喜ぶ存在がいたら希少生物すぎるだろう。


 そんな女将の葛藤に露とも気づかない男。彼はテーブルに腰掛けると朝食を注文した。朝食メニューは一つだけ、麦粥だ。身長190cmの大男が注文するにはあまりに質素な食事メニュー。しかしこれで良いのだ、この質素な食事こそが良いのだと男は満足していた。



 朝食を終え女将に挨拶をした彼はそのまま宿屋を出て行く。路地裏を抜けると広く続く大通りがある。ご機嫌に歩きながら彼はそのまま村はずれの小さな湖畔へと向かっていく。


 草木で覆われた獣道をぬけるとそこには大きな湖があった。水が何とも綺麗に透き通っている。水辺ぶらりと散策し、手頃な石をみつけると彼はそのまま股がった。ブーメランパンツの裏ポケットに仕込んでおいた返し針を取り出すと既に調達してきた木棒と細長い植物のツタでなんとも器用に細工をほどこしていくではないか。そう、彼はいま釣り竿を作っているのだ。


 釣りは彼の趣味の一つだった。幼少の頃からよく水辺に行っては釣りをしていたものだ。キャンプで培ったアウトドア技術と天性の直感を惜しみなく使い餌となるイソメによく似た虫を探し出す。湖面に釣り糸を投げ込む天馬。あぁこの瞬間が堪らなく良い。


「おや?」


 彼が存分にフィッシングを堪能しているとどこからか鳥がやって来るではないか。おどろいた事に鳥はそのまま彼の体へと停まっていく。木々と筋肉を勘違いしたのだろうか。いいや違う、これは自然の摂理なのだ。良いボディビルダーは動物に好かれる、とはあまりにも有名な彼の世界の言葉なのだから。


「ふふ…穏やかなものだな」


 裸体に群がる鳥。どこからともなく寄ってくる野犬。それらを受け止める茶色い某。どこまでもシュールな、けれど穏やかな自然がそこにはあった。


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