第4話 筋肉は天使様Ⅲ

 30年前、とある魔獣が現れた。それは三つの村を滅ぼし数えきれぬ程の人間を殺し尽くした。この事態を重くみた当時の王国は魔法騎士団を派遣。死闘の末なんとかこの魔獣を追い出す事に成功したもののその疲弊は凄まじく、王国の軍事力その物に多大な影響を与えたとされる。その後消息をたち魔獣は半ば伝説的な存在となった。歩く災厄、とまでよばれた超危険種指定の魔獣。


 テレオ・アイルーロス。全身がネコとクマを足し合わせたような姿のその魔獣は全長4mを優に超す。ブラウンカラーの毛並みと巨体からはそれまで食した人間の腐った異臭が漂う。なによりも特徴的なのは大きく尖った爪と牙であろう。鋭く尖ったソレは人間を軽々と引き裂いてしまうだろう。当時300人もの人間を食らいつくしてなお満足する事は無かったという異常な食欲。


 リーゼは自らの死を予感した。反射的に悲鳴をあげたそうになる。浅く息を吸い込み、全身で震え上がってしまう。そんな彼女の肩をやさしく抱く1人の男。


「シーだ、静かにしなさい」


「………むぐっ!?」


「声をあげてはいけないよ、子ども達が起きてしまうだろう?」


 今まさに永眠するか否か、という状況。そんな事態にもまるで動じない男は目の前の脅威ではなく未だ眠り続ける子供達の心配をしていた。彼女を優しく落ち着かせると男は肉食獣にたいしてゆったりと歩み寄る。思わず声を荒げ危険だと告げると男は微笑んだ。


「大丈夫だ」


「えっ」


「私は犬よりも猫派でね」


 呆然とするリーゼ。そんな彼女の動揺には見向きもせずに魔獣に歩み寄る男。瞬間、即座に吹き飛ばされる筋肉。あろうことか魔獣の一撃を頭部に真正面から受けてしまった。木々を幾本もなぎ倒し後方へと吹き飛ばされゆく男に目を見開いて驚愕するリーゼ。


あぁ…このまま私達は死ぬのか


 歯をガチガチとならしながら震え上がる。彼女の生涯においてこれほどの恐怖は味わった事がなかった。心臓をばくばくと鳴らし全身で震え上がるリーゼ。絶望しかなかった。一方、ふきとばされた男は別の意味で驚愕していた。



 「220マッスル…だと……」

 


 男は驚嘆する。先程の一撃から男は脳内で敵の推定戦闘力を導きだす。銃を持ったムキムキのおっさんがマッチョ力5である事を考慮すると敵が恐るべきマッスルの持ち主である事が分かる。東京都筋肉愛好会が公表するこのマッスル指数によるとボディビルダーは自らの5倍以上のマッチョ力を持つ人物に対してはその筋肉に敬意を評して並々ならぬ好意と恐れを抱く物らしい。


 男は震えていた。この世界にはこれほどのマッスルが存在するのかと。獣が持つ野性味はあふれる筋肉。成人男性の胸板並みに広く立派な三角筋。敷物かと見紛う程大きく逞しい広背筋。ミシリと音を立て異常なまでに膨れ上がる太腿四頭筋。全てが美しく調和していた。男は人知れず涙を流す。


もしも彼が人間ならば

もしもここがフィットネスジムだったならば


もしも出会えた場所、時が違えたならば

私達はきっと良い戦友になれたろうに

 



 だがしかし現実は非情だ。目前の敵は魔獣であり男は野獣である。ここはフィットネスクラブではなく奥深き森林。そしてなによりも男の背には守るべき存在がある。己は人間である前に1人の筋肉。筋肉である前に1人の男だ。ならば立ち上がらなければいけない。か弱き女子供をその身に変えても守らなければいけない。


「天馬さん…」


「大丈夫だ下がっていなさい」


 再び獣に挑もうとする天馬。そんな殴られた男の心配する女。天馬は未だに大量の血を流し全身に傷を負っている。あの衝撃ではきっと骨折だってしているだろう。内心では不安で泣き出しそうになっている女はそれでも男の心配をしていた。そんなリーゼに対して天馬は安堵させるかのように声をかける。


「こんな言葉がある、知っているかい?」


「え?」


「汝筋肉を信じよ、さすれば道は開かれん」

 

 息を飲む女。それは恐ろしい強敵を前にしても一切の動揺をしていない、あまりにもらしい男の言葉だったから。


「貴方の信じる…神の言葉ですか?」


「いいや私の言葉さ」


 照れくさそうにいう彼、女はまたも息を飲んだ。


 もしもこの場面を大阪人が目撃していたら、いやそんな事してる場合じゃないやん?と冷静かつ的確なツッコミをしてくれた事だろう。だが幸か不幸かこの場にいるのは女と子ども達、そしてボディビルダーだけだった。その男は華麗なアブドミナル・アンド・サイを決めながら眼下の魔獣に語りかける。


「さぁ子猫ちゃん、私と一緒に戯れようじゃないか」

 

 魔獣に盛大に喧嘩を、それも高値で売りつけた事につゆとも気がつかずに見事なポージングを取り続ける男。その男のあまりの態度に激怒した魔獣は再び襲いかかる。目の前の褐色達磨を引き裂いてひき肉にしてやろう、と。この魔獣の内心は怒りで腸が煮えくり返っている事だろう。


 反面、男は冷静になっていた。先ほどの一撃によって頭部からだくだくと血が流れてはいる物のそれに反して彼の精神は驚く程クールになっていた。戦闘においてベストとも言える明鏡止水の境地、心は熱く頭は冷静にという状態に彼は至ったのだ。今の彼ならば蜂のように舞い蝶のように刺す事だって可能だろう。


 すっと右手を振り上げる男。それに対し魔獣は動じない。否、動じる必要すらないのだ。例えこの男が異常に恵まれた体躯を持とうが、例えその鋼鉄の肉体を持って魔獣を殴りつけようが痛くもかゆくもないのだから。


 ならばこの右腕はなんのために振り上げたのか。決まっている、目前の敵を殴るためではなく…自らの肉体を殴る為に振り上げたのだ。振り上げたその右手を男は自らの筋肉に打ち付けた。


瞬間、この周囲一体の時が止まった


音が響き渡る

信じられぬ程の爆音が、響き渡った



 ドラミングという言葉をご存知だろうか。ドラミングとは動物が鳴き声以外で音を立てる行為の事である。その中でもゴリラは最も有名な動物だろう。彼らは自らの胸筋に手のひらを打ち付ける事で相手への威嚇を行いこれ以上は近づくなと警告をするのである。その強烈な音は2 km先の同胞にも伝わると言われている。


 それをこの筋肉は自らの肉体で行ったのだ。否それだけではない。ドラミングと同時に猫騙しも行ったのだ。あり得ない程の音と衝撃により猛獣へパニックと思考停止を促したのだ。彼の行ったこの動作にもしも名称をつけるならばネコミング、いやさながらドラ騙しといった所か。

 


 魔獣の動きが止まった


 生涯において感じた事の無い程の音と衝撃。爆音と呼ぶのも愚かしい程の轟は周囲一体の動植物の生命活動を遅らせる。魔獣の思考が2秒だけ停止した。


 たった二秒、しかしその二秒もあれば筋肉には十分だった。陸上選手も真っ青のクラウチングスタートを決める天馬。未だ停止する魔獣、絶句するリーゼ。混沌と化した場を駆け抜ける一つの弾丸。バレリーナの如く美しく、筋肉は風となる。


 わずか0,5秒の疾走。男は魔獣の背に飛び乗った。動物の背面は自らの手が届かぬ領域となる。この時ようやく魔獣は動き出す。しかしもう遅い、筋肉は魔獣に馬鹿力でしがみつくと、彼の生命の首に全力でしがみつく。いいや違う…これは!


 キャメルクラッチ。相手の背に乗り首元の部位をつかんで相手を海老そり状態につり上げる技。日本名にしてラクダ固めともよばれるソレはプロレス史上最も強力な技の一種ともされている。そう、もしもその技が完璧に決まったならば脱出が不可能ともされる行為。簡単に相手に死を与える恐ろしき技なのだ。肉食獣に凶器を振りかざすという狂気。


 ミキミキと音を立てる2つの筋肉。けれど男は止まらない。死にものぐるいで逃れようとする敵に対して愛おしげに、けれどえげつない程全力で締め付けながら微笑む。


 魔獣は徐々に動きを停止させていく。


 白目を剥き、そのまま静かに昇天をしていく魔獣。その様子を見逃すまいと最後の一瞬まで見つめ続ける筋肉。そうして魔獣は死んでいく。彼が死に行く頭で最期に思い描いた物は自らに対して最大限の敬意を放つ小麦色の悪魔であった。


 魔獣の絶命を確認すると男はゆっくりと遺体に向かって頭を垂れる。素晴らしい筋肉を見せてくれた戦友に祈りを



 さようなら強敵よ

 もしも生まれ変わるなら

 次はボディビルダーに




 この日、この世界に初めて魔獣にプロレス技を仕掛けた男が誕生した。

幸か不幸かその一部始終に関わったのはたった1人のシスターと筋肉だけだった。

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