第2話 桑の樹縁起

 りゅうしゅくろうの住まいは、幽州ゆうしゅうにあった。現在の中国では河北かほく省と呼ばれている辺りである。


 漢帝国当時の行政区分は、少々ややこしい。

 帝都・洛陽以外の国土は、十三の「州」に分割されていた。また、「州」の中に「国」が含まれている場合もある。

 「州」とは現代で言うところのと「道府県」……時代かがった言い方なら「藩」のようなものである。「国」というのは、王族に与えられた領地のことを指す。

 「州」は複数の「郡」で構成され、「郡」にはいくつもの「県」がある。そして、「県」は多くの「町・村」で成り立っている。

 また、古代中国に独特な事なのだが、都市は高い塀と強固な門に囲まれた、一つのじょうさいを成している。

 塀の中に人々のくらす町並みがあり、更に城壁を持つ行政府の建物がある。

 「城下町」ならぬ、「城内町(そんな言葉はないけれども)」であった。

 城壁の外側には、農地が広がっている。

 農民達は朝、城の中から田畑にし、夕刻城門が閉まる前に城内の町に戻るのだ。

 だが農地の開拓が進むと、この形態が崩れる。城を中心とした同心円のように開拓地は広がり、その最前線はどんどん城からとおざかって行く。そういった城から離れた田畑にはしきれなくなる。

 こうして、田畑の周囲に住む者が現れ、そこが集落となり、やがて「村」ができあがる。

 行政の最小単位、つまり、役所と役人が置かれているのは「県」で、村々の長はそのあたりの豪族や、古老達が勤めるのが常であった。


 さて。


 現在の河北には中華自民共和国の首都・北京があるが、当時の幽州に東漢帝国の首都・洛陽らくようがあるはずもない。

 ここは北の果ての一地方都市に過ぎないのだ。僻地へきち呼ばわりされて当然の田舎だ。

 そんな田舎都市の更に片田舎……涿たく郡涿県の城壁の外……の小さな村が、叔郎の故郷である。


 村の名を「楼桑村ろうそうそん」という。


 その縁起は、古い。

 西漢の七代・武帝の兄で、劉勝という貴族が、この地にほど近いちゅうざん国(河北省南部)に封じられた頃にさかのぼらねばならない。

 劉勝は、判っているだけで百二十人余の男子をもうけたという。伝説的好色家だ。

 同数の姫君があったとして二百四十人、名の残っていない子供達がいると見て、合わせて二百五十~三百人の子沢山である。

 英雄色を好む。だが色好みが全て英雄とは限らない……という見本のような人物だった。


 その百二十人の内の一人、劉貞が『りくじょうていこう』という爵位を与えられ、涿郡の片隅に屋敷を構えた。

 この劉貞、些細な事からしょじんに落とされた。つまり皇族の身分を剥奪されて、一般人の扱いにされたのだ。

 ……おそらくは、朝廷側から陥れられでもしたのだろう。

 いかに大漢帝国といえども、百二十人×二+αの王族を無駄に養えるほど、裕福ではない。

 さりとて他に行く宛もなく、彼はそのまま郡内に住み着いた。


 土地屋敷が総て召し上げられずに済んだのは幸いだったが、なにしろ収入が無い。

 劉家は、家財や土地を少しずつ切り売りするたけのこ生活を余儀なくされた。


 幾星霜いくせいそうかが過ぎて、劉家の財産は、傾がった荒屋と、その東南にそびえる「劉貞が植えた」という一本の桑の樹だけとなった。


 おおよそ二百年の樹齢を重ねた樹は、天を突くほどに高く、天を覆うほどに枝を張っていた。枝振りを遠く眺めると、背の高い建物のように見えた。

 桑の楼……以前は「陸城村」とか「劉家荘」とか呼ばれていた村は、いつしかそう呼ばれるようになっていた。

 ……と、いうのが楼桑村の縁起である。


 劉家の物語は、もう少し続く。


 劉貞から十世下った頃の当主・劉雄りゅうゆうは、人柄よく、学があるというので、推挙すいきょされ、県令(県の管理職)にまで上った。

 その矢先、一人息子のこうが早世した。

 気落ちした雄は、病を得て亡くなる。

 妻も、呆気なく後を追った。

 哀れなのは、十六で嫁ぎ、十七で子を産み、十八で寡婦となった劉弘の嫁である。彼女は以来、喪服をまとって暮らした。

 極貧の中に残された彼女は、縄をない、むしろを織り、草履を編んで、必死に働いた。

 その筵や草履を、亡き夫の忘れ形見の男児が、街でひさぐ。

 そんな小商いで、劉家は糊口ここうしのいでいた。


 ……その男児の名を、劉叔郎という。


 熹平きへい三年、西暦でいえば一七五年の晩春。

 叔郎は数えで十四歳の元気な……有り体に言えば腕白な……少年であった。

 もっとも、日頃の彼はよく母を手伝う、そして商売上手な孝行息子である。

 しかし、仕事をしなくてもよい日には、痩せ馬にまたがって、母親に行く先を告げずに遠乗りに出かけてしまう。


 これは、余談になるのだが……。

 漢代以前の史書を読む中で、「騎馬、あるいは騎射きしゃ(馬上から矢を射ること)に優れる」と注釈の付いている人物とぶつかったなら、その者は現代人の想像以上の乗馬技術を持っていた、と確信していい。

 何故なら、漢の鞍にはあぶみがないのだ。つまり、馬上で手を放して足を踏ん張ることができない。

 腿で馬の背を締めてバランスを取らねばならないのだから、並みの平衡感覚・運動神経では、馬に乗ることすらできないのだ。

 漢民族が鐙を開発できなかったのは、彼らに騎馬戦という戦闘方式の概念がなかったためである。

 馬に荷車のような戦車を引かせ、そこに御者と戦闘員を二・三人乗せて戦う、戦車戦が主流であった。

 東漢(後漢)末には、北方の遊牧民達と主に「戦争」という名の交流が持たれ、その影響で、騎兵という部隊も編成されるようになってはいた。

 それでも、鐙付きの鞍が全土に広がるまでには到っていなかった。

 当然、劉叔郎の痩せ馬に、そんな「最新兵器」は備えられているはずがない。


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