第3話 末弟

 閑話休題。


 劉叔郎の遠乗りは、日が落ちるころに終わる。

 彼はゆうに間に合うように、ちゃんと帰ってくる。

 それでも母親は、できることなら出かけないで欲しいと願い、もっと早く帰って来て欲しいと祈っている。

 彼がたいがい怪我を負ってくるからだ。

 あるいは狩りで、あるいはけんで。あおあざ・擦り傷・刀傷……命に別状のなかったきずが、彼の体を埋め尽くしている。


 ところが。

 その腕白の様子が、ここ数日の間、すこしおかしい。

 彼はあの日、城下での商売から戻ってから、一度も外出しなかった。

 家の中にいないと思うと、東南の桑の樹上にいる。太い横枝に身を任せ、じっとまぶたを閉じている。

 日頃の活発さがある故、静かにしていれば静かにしていたで心配になる。

 母親は、


『どこぞ具合でも悪いのかしら』


 などと心配をしていた。


 城下の市からの帰りにあの駅舎に出逢ってから数日が経ってた、ある朝。


 叔郎は織りかけのむしろの前に座っていた。

 手は、動いていた。しかし、心ここにあらずといった風で、目は窓外の蒼天そうてんの中を泳いでいる。


 母親の不安は、ついに声になった。だがそれは、穏やかな、何気ない言葉だった。


阿叔あしゅくや。何か考え事かい?」


 「阿~」というのは、日本語の「~ちゃん」に相当する、子供の愛称である。

 叔郎は青空の映り込んだ瞳を母に向けた。


「ねぇ母者。もし俺が長いこと家を空けたりしたら、やっぱり寂しいかい?」


 おどおどとした口調。

 真剣な瞳。


「……空けるつもりなの?」


 母親は、寂しそうな、仕方がなさそうなまなざしで、一人息子を見つめた。

 叔郎は慌てて頭を振った。


「いや、もしもの話だよ。……何でもない」


 彼は微かに笑むと、窓の外に目を移した。


 桑の枝々は、その身を萌え立つ若緑で装っている。夏が深まれば葉は大きく開き、濃い緑の薫風を発するようになる。

 そうして、自然の木でありながら、巨大な建造物のように、そうてんを覆い尽くすのだ。


 叔郎は桑の樹の枝振りをしばらく眺めていた。やがて、ぼんやりとした目が、その根元に転じられた。

 直後、彼は立ち上がったかと思うと、窓枠に手をかけた。

 太い幹に、いつの間にやら荒縄が巻き付けられている。

 縄の先に、一頭の山羊がつながれている。

 山羊の脇に、一人の童子が立っている。


「阿叔、どうかしたの?」


 母の問いかけの語尾が消えぬ間に、叔郎は窓から外へ飛び出していた。

 駈けながら怒鳴る。


「坊主! お前、李せんせいの子だろう!?」


 童子は身を引きながら、小さく頭を振った。


「オラは、お師匠サのだぁよ」


 自称『李定の弟子』は、童子とは思えないはっきりとした口調で答えた。

 だが、発音にひどいなまりがある。

 どうやら、童子はかなり北方の、国境近くの出身らしい。


「弟子、だって!?」


 叔郎は童子の両肩をつかんで、わめく。童子はおびえながら、大きくうなずいた。


「お師匠サから便りを預かってきたンだ。劉サに渡すようにって」


「便り?」


 童子が恐る恐る差し出したのは、相当にくたびれた絹の切れ端だった。

 この頃はまだ紙は普及しておらず、文字は木や竹を薄く細く切った板のもっかんちくかんか、絹の布に書かれていた。

 李定からの便りは、着物の袖であったモノに書かれている。着古した無地の袖口を、叔郎は数日前に見た覚えがある。

 そこに、食い詰め易者が書いたとものとは思えない、かっちりとしたぼくせきがあった。

 

   劉叔郎は高祖の風を有すなり。

   之は無より身を起こし、一業を成す相なり。

   一業の大小、我は知らず。

   さりとて、父祖の家名を再興せんとは、

   夢々思し召さぬよう、申し上げるものなり。

   其れすなわち吉なり。

            李定、天命を拝し、記す


おおだなぁ」


 叔郎は鼻で笑った。しかし眼は笑んでいない。瞳の奥に、何かを深く考えている気配がある。


ねぇ」


 童子は懐を探って、なにやら書き込まれた別のぼろ布を出した。わずかな文字を必死に読みながら、言う。


「お師匠サから、劉サんちに、桃か、柳か、桑の木が生えてたら、褒めレって言われた」


 叔郎は、彼らの上に影を落とす、桑の巨樹を見上げた。


とうりゅうそうは、トウリュウソウに通じるから、縁起が悪いって話なら、よく聞くけど?」


「凡人の家ならば凶なれど、貴人の家ならば吉なり」


 童子は師父の筆跡をたどたどしく読み上げた。


「坊主のお師匠は、余っ程俺を貴人に仕立て上げたいらしいな」


「坊主じゃねェ。カンてぇ名があらぁ」


 童子は穴のあいたくつさきで、地べたに『』と書いた。


中原ちゅうげんなら、「コウ」と読む』


 痩せても枯れても衰退しきっていても、血筋を辿たどれば皇室に行き当たる家柄だ。漢帝国の中心地、いわゆる「中原」で使われている言葉を、叔郎は知っていた。

 そして「北の最果て」に住まう漢族の言葉が、境を接する胡族こぞく……つまり外国……の言葉の影響を受けていることを、同じ地に住まう彼が知らぬはずがない。

 叔郎は笑った。

 決してちょうしょうではない。

 久方ぶりにお国訛りを聞き、思わずほころぶ……そんな笑みだった。


「……ともかく、お前さんのお師匠に伝えとくれ。『我、貴人の道を知らず』とね」


「ムリだよ」


「なぜだね?」


「お師匠サは、もう居ねぇ。これがだ」


 耿童子は鼻水をすすり上げると、師父の形見を握り締めた。

 不安の色濃い瞳が、叔郎を見上げている。

 叔郎は、今は気丈にしているが、一寸ちょっとしたきっかけさえあればすぐにも泣き崩れそうな幼子の、小さな肩を抱くと、我が家の窓に目を向けた。

 そこに、母の笑顔があった。


「阿叔、お前いつだったか、兄弟が欲しいと言っていたね」


 劉叔郎は大きく頷くと、「弟」の小さな体を抱き上げて、母の元に走った。

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