魔王と世界を愛する者たち(3)

 鼓膜こまくが張り裂けそうな轟音ごうおん数拍すうはく遅れてアルシアの耳元まで届いた。


「っ――!?」


 トメクが至近距離で豪腕ごうわんを振るっただけに見えた。ただ、その速度が文字通り神速と呼べるものだったということ、そして竜をも超越する膂力によって繰り出されたものだということを考慮に入れれば、嫌が応にもこの結果に納得せざるを得ないものだったというだけのこと。

 右腕を振るう、たったそれだけの単調極まりない動作一つで、アルシアは地上数十メートルまで吹き飛ばされてしまっていた。遥かの高みからでも一目瞭然いちもくりょうぜん爪痕つめあとが三本、平和を引き裂くかのようにエイリークの領土に刻まれている。


「く、そがっ!」


 翼を失い、人並みの筋力しかないアルシアにとっては確実な死をもたらす高さ。貧弱な五体に頼ることすらできないことに歯噛みしながら、必死に頭を回転させ、目下迫る危機からの出方法を考える。

そして、


「まさかこんな初歩的なものに頼る日がくるとはなっ! ――レビテーション!」


 時速数十キロで地表へと迫る身体の進行方向に緩やかなブレーキがかかり、地面に激突する寸前でアルシアは宙に留まった。

 単純な浮游作用をもたらすだけのつまらない魔法だが、頭の片隅に詰めておくだけの価値はあったのだから捨てたものではない。


「ご無事ですかっ!?」

「これしきのことでくたばるような生き方はしていない」

「大事ないのであればなによりです」


 アルシアと同じように空中で放り出されていたセラが背中合わせに寄り添ってくる。


「随分と吹き飛ばされたみたいだが……」

「ええ。ですがこれで周囲を巻き込むことはなくなりました」

「図らずも望み通りというわけだな」


 エイリークの城下町から離れた草原地帯は放牧された牛や羊の群れがいるのが通常だが、どうやら周囲にその姿は見られない。アルシアが見据える先にいるのは、両腕を組んで仁王立ちをするトメク、ただ一人。


「さぁて、続きといこうか。――破ァッ」


 トメクは裂帛の気合いとともに拳を地面に叩き付ける。圧縮された地面が隆起し、アルシアたちを飲み込まんと一直線に襲い掛ってくる。

 それを、アルシアは真横へ飛び、セラは跳躍することで回避。そのまま反撃へと移る。

 アルシアはトメクへ一直線に突貫の構え。そしてセラは宙返りをしながら魔力を解き放つ。

 詠唱するは、心穿の杭雨ダーヴンスレイン

 虚空より顕現するは幾千万の鉄杭。


 「ちぃっ!」


 驟雨しゅううのごとく殺到するそれを、トメクは二本の両腕だけで叩き落してみせる。

 もはや視界で捉えていたのでは遅い。逃れることは叶わない。無限に雪崩れてくる殺意の塊を悉く打ち払うべく振るわれる両腕は、残像によって千手観音の様相を呈する。殺意を読み取り、そこに合わせて拳を突き出す。ただそれだけの動作を、亜音速で。


 魔性を宿した者のトメクの身体には傷の一つもつかないことは証明されている。これは絶対の原則だ。

 そう。

 この絶対は、裏を返せば、少しでも善性が混ざっていれば、その分だけトメクに通用してしまうということを意味する。


 ゆえに。


「ああくそ面倒だなこれっ!」


 トメクはしかめっ面を浮かばせながら百裂拳を叩き込み続ける。

 自業自得。興味本位でセラに洗脳をかけた際、セラの心にあった正義の概念を書き換えるために善悪のバランスを弄くったのだった。洗脳が解ければ時間の経過とともにセラに宿っている善性は薄れていくが、それでも数日は影響が残る。


 そして、面倒なことに。

 それを知って、セラは心穿の杭雨を唱えたわけではないはずなのだ。

 二度は通用しないと、そう勘違いをしたままはずなのだから。


 だからこそ、警戒する。

 これは、次の一手を確実にするためのブラフだ。


(どこからくるっ……?)


 視界を覆いつくす狂気に紛れているはずの一手。鉄杭と鋼の手甲が織りなす甲高い悲鳴のような歪な音の連なりが、アルシアの気配を一層薄める。

 しかし、微かに漂ってくる。徐々に肉薄してくる、セラが放つ純粋な殺気とは異なる空気と、匂い。


 そして。


「っ!?」


 不意に、背後に気配が現れた。ぼやけていたものが急に輪郭を伴って具現化したかのような唐突さ。まったく気付けなかった。ゆえに、対処ができない。対応が遅れる。

 その一瞬。


「がっ――!?」


 鉄杭の雨を無効化する輝ける白銀の守殻ウォー・プラチウムを纏ったアルシアが、狙い通りトメクの背後から斬撃を見舞う。


(何故、だ……っ!? どうしてっ!?)

 認知阻害と守殻の展開、その双方がどちらもエルレによる遠隔補助魔法によるものなど、トメクには知る由もない。

 右の肩口から袈裟に一閃。鋭く、熱い痛みが背面から全身へと一気に広がる。灼けるような感覚に耐えきれず、トメクの脚が傾ぐ。猛攻を受け止めてきた手が止まった。


 これ好機、とセラは魔力を練り続ける。

 虚空から無限に湧き出る鉄杭による猛攻は止まらない。

 回避は、不可能。


「あ、があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」


 均衡が破れ、手負いのトメクへ死が殺到する。ガガガガガガガガガッ! と大地を抉る轟音が鳴り響く。都合数万の鉄杭の山はトメクを中心に、ハリネズミの棘を表皮を裏返したような半円状を象り、絶叫ごと閉じ込める。


 斬撃を見舞った後、飛び退くようにして鉄杭の雨から抜け出していたアルシアは必死の剣幕でセラへげきを飛ばす。


「手を緩めるな! 手筈が整うまで全神経を集中させろ!」


 返事はない。すでにセラは全身全霊を込めて魔力を注いでいる。知っていて、アルシアは指示を出した。妥協も甘えも手抜きも一切許さないという言外の圧力を滲ませて。

 セラの額に脂汗が浮かぶ。吐く息は荒く、顔色はエイリークへ飛んできたときよりも一層悪くなっている。魔力欠乏だ。とうに限界など超えた。魔力の代わりに寿命を削る。それでも、この好機は逃しはしまいと懸命に意識を研ぎ澄ます。傾いた天秤にひたすら重しを足し続けて主導権を渡さないよう、一度は救ってもらった命すらをも天秤に捧げて。


「エルレ! 状況は!?」


 なにもないはずの虚空へ叫ぶと、アルシアの耳元に小さな羽虫のようなものが近寄ってきた。エルレが操る小型カメラと通話機能を搭載した機械だ。


『目下進めてるところだよ。女王にはもう動いてもらって、話を進めてもらってる。じきに発動可能になるはず』

「急げよ。どういうわけかセラの攻撃が通じているいまのうちに――っ!?」


 会話は続かなかった。


「――――ぐっ!?」


 決壊の音が響いた直後、アルシアの身体が後方へ吹き飛ばされる。

 押しとどめていた結界を力づくでぶち破るように、幾重にも連なった鉄杭の内側からトメクが飛び出し、真っ直ぐにアルシアへ向かって突貫してきたのだ。


 咄嗟の判断で両腕を十字にして剛拳を受け止めたのが幸いした。瞬時に展開された輝ける白銀の守殻ウォー・プラチウムが威力を減殺する。それでも、腕から上半身にかけて激しい痺れが走った。

 二度目は無事でも、三度も受ければ両腕の骨が砕ける、馬鹿げた膂力だ。


「よくも僕の身体に傷を付けてくれたなぁああああああああああああ!」

「化物か、こいつは……」

「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺してやる殺して嬲って焼いて晒して尊厳もろとも地獄まで落としてやる僕は絶対に許さない完膚なきまでに叩きのめしてやるからなぁぁあああっ!」

「ちぃっ!」


 トメクの追撃は止まらない。バックステップで距離を取ろうとするアルシアへ瞬時に詰め寄り、腰元を薙ぎ払う回し蹴りを見舞う。

 間一髪、アルシアは直撃を避けるも、トメクの指先が掠めた右腰の皮膚を肉片ごと攫っていく。


「ぐっ」


 走る痛みに気を取られている暇はない。

 連撃の糸口を潰すためにアルシアは横一線に剣を薙ぐ。

 が、手応えはない。しかし眼前にあるはずの腰から上がなく、


「あははっ」


 怒髪天を衝く形相を天地逆さにしたトメク目を血走らせてわらう。


「っ!?」


 腰を捻っているのだと気付いたときには遅い。

 身体のバネと強靱な脚力によって放たれる神速のサマーソルト。

 顎元を掠めるだけで頭蓋を揺らし、容易に意識を根こそぎ刈り取る死神の一撃。


「ふっ――」


 アルシアは慣性に身体を委ねた。

 横一線に薙いだ剣に身を預けるように、身体を真横へと投げ出したのだ。

 トメクの狙いがはずれる。渾身の足蹴あしげは空を切り、狙った獲物は芝生の地面を転がって一命を取り留める。


 とはいえ、攻守が逆転するわけではない。トメクは間髪を入れずに跳躍すると、四つん這いになったままのアルシアへ次々と踵を落としていく。

 立ち上がる余裕すら削り取られるアルシアは、無様に地べたを這いながら転がり続けるしかない。一撃でも食らえば命はないのだから。


「くそっ! 面倒だなっ!」


 トメクは追撃の脚を止めると、腰と肩を限界まで捻って右腕を振り上げた。

 鉤の形にした掌の、その指先まで力ませて集中する。

 その隙に上体を起こそうとしたアルシアは、直後、虚空に向けて手をかざし、咄嗟に叫んだ。


「展開――テオ・ビックバン!」


 同時。

 またしても、アルシアの世界から色彩と音が消える。

 放たれた方角が間違えば、エイリーク城は跡形もなく吹き飛んでいただろう。

 拡散する波動が、周囲に立ち並んでいた大樹を木っ端微塵に粉砕する。

 衝撃波は、遅れてやってきた。

 音速を超えて撒き散らされた真空刃が四方八方に爆散。

 一瞬で地表が蒸発し、草原が焼け野原となる。視界が戻ると、目の前には血だらけになったトメクが血だらけでアルシアを睨んでいた。その形相は、まさに羅刹。善を司る神の使いなどという神聖な印象は微塵も感じられない。


「さぁ、殺し合いを続けようか」


 阿修羅が拳を握る。

 この世界を粛清し、あるべき形へと戻すために腕に力を込める。

 だが。


「…………残念だが、貴様が所望する殺し合いもここまでだ」


 突然、アルシアは力なく笑ってみせ、肩を竦めてみせた。


「……あっ?」


 降参ともとれる態度に、トメクが眉を顰める。

 限界だった。

 テオ・ビックバン――アルシアが誇る最上位の破壊魔法が力負けするなどありえない。ならば考えられるのは魔力の衰弱。相殺するために放った一撃は、魔王であった頃と比べても出力は一割にも満たなかった。

 そして、たったの一撃ですべてを出し切ってしまった。ウラキラルから忠告されていた魔力の限界。底。それが、あっとという間にきてしまった。

 魔力が回復するような兆しはどこにも感じられない。身体の内側を駆け巡っていた爽快な奔流が、まるごと枯渇してしまったかのように渇いてしまっていた。


 この手に握る剣だけで、トメクを屠ることなど夢のまた夢。

 限界を超えたセラは倒れ伏し、攻撃の援護は望めない。

 なるほどこれが、かつてアルシアが勇者たちに何度も与えてきた絶望というものだと思い知る。

それでも、立ち向かってきた彼らの背中には、なにがあったのだろう。その胸には、なにを秘めていたのだろう。

 それがなにか分からなくとも、アルシアには背負っているものがある。

 この世界に生を受けた魔王だったからこそ、為すべきことがある。

 与えられた役割ロールを演じることプレイから解放されたとしても、捨てられないものがある。

 だから、


「貴様にみせてやる。貴様が散々コケにしてくれた世界には、これだけの力が眠っているのだということをな。そして後悔しろ。この世界を生きる者に無礼を働き、勝手な道理で命を屠ろうといた、その報いを受けるがいいっ!」


 アルシアは己が矜恃とともに剣を高らかに掲げた。

 今度こそ終わりにするという合図であり、号令であり、そして、自らを奮い立たせるための咆哮であり。

 同時、どこからか飛来してきた小型の飛行機械がつとめて機械的な声音で告げる。


『アルくん。準備、終わったよ』


※※※


 つとめて冷静な声音でアルシアへ報告するエルレの側で、かの女王は空を見上げた。


「さぁ、我が友よ。人間の強さというものを思い知らせてやれ」

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