15.混濁

 彼女が太陽なら、私は月だと思っていた。

 私が出来ないことを、キャシーは簡単にやってのける。

 私が手に入れられない物を、彼女は簡単に手に入れる。

 でも、キャシーが嫌いなわけじゃない。多分、彼女のことを受け入れられない自分が嫌い。そんなの、ずっとずっと前から分かってた。


「二人とも素敵ね。クリフォードの大人の魅力も捨てがたいけど、ジャックの親しみ溢れる真摯さも捨てがたいわね」


 ディナーのあと、キャシーはとてもご機嫌で。何時まで起きていたんだろう、夜中までずっと喋っていた。

 私は全然眠れなかった。

 キャシーがあまりにも積極的すぎて、私は本当に、陰日向に咲く野花のよう。ただひっそりと、彼女の側に寄り添っていただけのような気がした。


「で、どっちが好きなの?」


 キャシーはまた、私の心を素手で掴もうとする。


「だから、そういう関係じゃないわ。二人とも、大切な仕事仲間」


「本当かしら」


 うふふ、とキャシーは笑う。


「ライザの顔に、二人とも好き、選べないって書いてある」


 そう言って私の頬に手を伸ばし、指でハートマークを描いてきた。

 とても可愛い仕草なのだけれど、私はとても、嫌な気分だった。



 *



 土日を除いて、キャシーは毎日のようにアトリエに見学に来た。

 そして、クリフォードさんと、ジャックの側をウロウロとした。

 私は機械細工に施す彩色の下絵を描いていたのだけれど、何故か集中出来なかった。


「どうした、君らしくもない」


 クリフォードさんに何度か注意を受けた。色んなデザインをと言われたのに、気が付くと皆同じようなデザインになってしまっていた。ただでさえ、私に出来ることは少ないのに、本当に申し訳なくて泣きそうだった。


「調子が向かないときもあるだろうから、先ず落ち着こう。少し息を整えて、気を抜いてみたらどうだろう。頑張ろう頑張ろうとすればするほど、失敗も多くなる。緊張感が悪い方向に向かうようなら、一旦手を置いて、別のことをしてみると良いかも知れないよ」


 クリフォードさんは優しく声をかけてくれる。その隣に、キャシーがいる。

 私の胸は何故かドクドク鳴って、張り裂けそうだった。


「もう一度、やってみますね」


 そう言って、私はまた、作業机に向かった。



 *



 気分が、落ち込んでいた。

 キャシーとの時間が楽しくないわけじゃないのに、どんどん辛くなっていった。

 ただ、彼女がアトリエに来ているだけなのに。

 皆で楽しそうに話している。嬉しそうに笑っている。

 会話の中心は常にキャシーだ。

 クリフォードさんも、ジャックも、遠くから来たキャシーに気を遣ってくれているのだというのは、勿論私にも理解出来ている。けれど、頭のどこかで、キャシーがいなければなんて、酷いことを考える私が居る。

 私は、酷い女だ。

 友だちがわざわざ遊びに来てくれているのに、心配してくれているのに、それに少しも感謝出来ないなんて。



 *



「ライザがあちこち片付けてくれたんだって、クリフォード、凄く嬉しそうに言ってたわよ。『あんなに気が利く子は他にいない』なんて、ライザ、あなたの評価、自分が思っているより高いみたい」


「クリフォードが機械細工なんてマニアックなもの、どうして選んだのか知ってる? 機械いじりが好きな人の集まるSNSで、実は何年も前からコッソリ話題だったんですって。クリフォードはそこにアップされた写真や動画をいつも楽しみに見ていて、事故の後、リハビリも兼ねて始めたんだって言ってたわ。趣味を仕事にした良い例よね」


「クリフォードのために、毎日ジャックが家に通って義手の着脱を手伝ってるなんて! もし私が彼と同じような身体になったとして、誰が私のために尽くしてくれるかしら。今まで付き合ったどの男だって、拒否したと思うし、女友達だってきっと皆断ったでしょうね。あんなに素敵すぎる関係を、私は初めて知ったわ」


「このアトリエも、全部保険金で建てたんですって。自分の大切な家族を失ったことで、逆に彼は生涯打ち込める仕事を得てしまったのね。私、それを聞いたとき胸が張り裂けそうだった」


「ジャックに、どうしていつまでも独身なのか聞いてみたのよ。そしたらなんて返ってきたと思う? 『僕が結婚して家庭を持ったら、今までのようにクリフの世話が出来なくなるだろう。それは避けたいんだ』――ジャックがそんなに追い詰められること、ないと思うわって伝えたのよ。福祉サービスは溢れているのだし、何もあなた一人が負担する必要は無いって。でもね、彼は『クリフを支えていくことを決して負担だとは思っていない』って言うのよ。『むしろ、使命だ』って。……圧倒されたわ。私みたいな事情の知らない人間が口を挟む隙なんて、あの二人にはないってことなのよね」


「ジャック、笑うとえくぼが出来るじゃない? あれ、チャーミングよね。目も大きいし、睫毛も長くてキラキラしてる。まだ少年っぽさが残ってるところがいいわね」


「夏場、義手と身体の接着部、蒸れたりしないのかなって心配でクリフォードに聞いてみたの。『脇の下は普通に汗だくになるけど、実際の接するのは腕だから大丈夫』なんですって。それでも偶にかぶれるって言ってたわね。私たちでさえ大変なんだから、義手の彼は余計に大変なのね」


「ジャックはハキハキして自分の意見を言う子、その割にちょっとドジなところがある子が好きなんだって」


「クリフォードは自分を引っ張ってくれるような強引な女性が好みだそうよ。亡くなった奥さんがそういうタイプだったみたいね。悩んで立ち止まりそうになっても、奥さんはいつも背中を押してくれたって。きっと、お似合いの二人だったのね。写真がなくても、なんとなく想像出来るもの」


 キャシーは凄い。

 私が何ヶ月経っても得られなかった情報を、いとも簡単に引き出してゆく。

 会話の内容はとても興味深いけれど、その話、私が直接、二人から聞きたかったな。



 *



 キャシーは一週間ほど私のアパートに泊まり、帰って行った。

 嵐のような人だ。それは昔から、子どもの頃から変わらない。


「ねぇ、ライザってさ……」


 別れ際に、キャシーは何かを言いかけた。けれど、最後まで言おうとはしなかった。

 それは彼女なりの優しさ。

 心に思ったことは全部口に出さないとダメな性分なくせに、彼女は私に気を遣ったのだ。


「二人とも、いい人ね。クリフォードも素敵。ジャックも素敵。いいなぁ、ライザは。素敵な男性と一緒に仕事をしているんだもん」


 どこまで本気にしたら良いのか分からないそんなセリフを、キャシーは残した。

 私だって、キャシーが羨ましい。

 自分の好きな生き方をしている、自分の思ったことを素直に口に出せる、自分に嘘をつかない。そんなふうに、私もなれたら良かったのに。


「私は、ライザの味方だからね。忘れないで」


 本当に、キャシーってば。

 私のこと、いつまでも小さな女の子だと思って。

 同い年のくせに。



 *



 ジャックはここのところ、カルチャースクールの構想に熱心だ。

 元々そんなに多くない経理の仕事の合間に、色々と他のカルチャースクールをのぞきに行ってみたり、どういうふうに経営しているのか、調べたりしているようだ。


「ジャックは本気にしてるみたいですよ。機械細工教室のこと」


 休憩中のクリフォードさんに言うと、作業机で珈琲を飲みながら、


「らしいね」


 淡々と答えが返ってくる。


「いいんですか? もし教室を開くことになったら、クリフォードさん、講師ですよ」


「そうなるね」


「否が応でも、アトリエに人が集まってきます」


「そうだろうね。ここじゃ、手狭で教室なんて出来ない」


「何人くらいの枠でやろうとしているのか分かりませんけど、負担にはなりませんか?」


「負担? 誰の?」


「クリフォードさんの」


「僕の? 君じゃなくて?」


「どうして私なんですか」


「だってライザ、細かい説明は話上手な君がしてくれることになるんだろう? 僕は技術指導は出来るけど、一人一人にわかりやすく教えられるほど器用じゃない。僕の話を噛み砕いて生徒たちに説明するのは、君の仕事になるだろうね」


「え? そ、そうなんですか?」


「そうみたいだよ。ジャックの構想では」


 ……やられた。

 そういうふうに考えていたなんて、全然思いもしなかった。

 結局、何かを始めようと思ったときには、二人とも私に面倒なことを押しつけようする。その構図がまた明らかになっただけじゃない。

 私は手で顔を覆って、わかりやすく項垂れて見せた。


「君のご友人のアイディアがあまりにも素晴らしかったから、ジャックは酷く感銘を受けて、是非とも実現させたいと躍起だ。早くも大工に図面を引いて貰っていた」


「ず、図面?」


「アトリエの隣に、小さな土地があるだろう。そこに小屋を建てて教室を作るんだと。やるなら徹底的にっていうのが、彼の信条だからね。あそこまでやってくれてるんだ、僕は反対する立場に無い」


 まるで他人事のように、クリフォードさんは言う。


「ジャックの土地でも、ジャックが教えるわけでもないじゃないですか」


 私が口をとんがらせると、クリフォードさんは私を鼻で笑った。


「彼にはアトリエの経営を全部任せてる。大丈夫、心配ない。困ったことなんて、そうそう起こるもんじゃないよ。君は色々と心配しすぎるところがある」


 ――あんなに、お金に無頓着な経理なのに。ジャックのことを信じていないわけじゃないけれど、あまりにもクリフォードさんは、彼を信じすぎてる。小さいながらも一つのアトリエの経営者なのだから、もう少し金銭的な面もしっかりと考えて計画して貰いたいというのは、私の身勝手なのだろうか。


「そういえば、ライザ」


 クリフォードさんは声の調子を変えて、私の興味を惹いた。


「ここのところ、ちょっとご機嫌が悪かったみたいだけど、大丈夫かい? どこか具合が悪いとか、何か僕たちに言い辛いことがあるとか」


 それは。

 それは多分、キャシーがいたからです、なんて。

 言えるはずもなく。


「何もありませんよ。別に」


 私はクリフォードさんに悟られないよう、思いっ切りニッコリと笑った。



 *



 紙とカラーペンが、走り書きのメモと共に、事務室の棚の上に用意してあった。

 メモの内容をじっくり読むことなく、私はそれがなんなのか一瞬で察した。


「“クリフォード・J・スミス工房の機械細工教室のお知らせ”……本気で始めるつもりなんだ」


 酒の席でキャシーが口走ったことを、ジャックはしっかりと覚えていて、メモを取って置いたようだ。独特の癖のあるジャックの字は、急ぎすぎるとただの波線が並んでいるように見えてしまう。私も最近、やっと読めるようになってきた。

 メモの隅っこに、“レイアウトはライザに考えて貰う”と書いてある。イラストを入れて欲しいだとか、手書きとパソコンでの作成とどちらがいいのかだとか、ジャックなりに考えたことを書き留めたようだ。


「どうかな? そんな感じで考えてるんだけど」


 外出先から帰ってきたジャックが、メモを持つ私に声をかけてきた。

 私は慌ててメモを元の場所に戻す。


「いつから始めようと?」


 何の気なしに訪ねると、ジャックは嬉しそうに顔をほころばせた。


「資材調達と小屋の建設に3ヶ月ほどかかるそうだから、その後かな。早めにチラシを撒いて、受講者を募集しておこうと思うんだ。受講料、どのくらいが妥当かなと思って、近隣のカルチャースクールあちこち当たってみた。切りがいい方が集金はしやすそうだね。細かいところはクリフにも相談して決めようと思ってるんだけど、数字以外のチラシのレイアウト、是非、絵心のあるライザにお願いしようと思って、色々用意してみたんだ。アナログ派なのか、それともデジタル派なのか分からないけど、カラーペンあった方がレイアウト考えるのに役に立つかなと思って」


 ジャックは調子よく喋りまくった。

 キャシーの提案がそんなにも彼の心を揺さぶったのかと思うと、また何故かしら胸がモヤモヤしていく。

 私は、どんなにか惨めな顔をしていたのだろう。

 ジャックは私の顔を見て、自分の態度を反省するかのように急に眉毛の端っこを下げた。


「……何か、不満が?」


 私は首を横に振る。


「そんなことないよね。最近、ライザ、なんか変だ」


「変じゃありません」


 無理やり口角を上げようとして、失敗した。ただ口がひん曲がっただけ。


「変だよ。キャシーが来てからは特に」


 私はまた、首を横に振る。

 ジャックは荷物を自分の事務机に置いて、私の側まで寄ってきた。

 私はわざと彼から顔を逸らす。なるべく顔を見られたくなくて、彼が私を覗き込もうとするのを必死に拒む。

 ――と、そんな私の動きを察して、ジャックが急に私の真ん前に立った。私の両肩を抱き、真っ直ぐ前を見なさいと向きを直してくる。

 やめてくださいと、私は彼の手を払った。

 それでもジャックは、私をどうにか自分に振り向かせようとした。


「何を思い悩んでいるのか分からなきゃ、助けることなんて出来ないだろ」


 ジャックの声に、私は足を止める。

 いつもより強い声。責められているわけではないけれど、とても、相手にしたくない声。


「何も、悩んでません!」


 私は顔を上げずに言う。


「悩んでない人は、そんな顔しない。君、おかしいよ。急激におかしくなった。僕が嫌いになった? 僕が『君はキャシーに激しく嫉妬してる』なんて言ったから?」


 ジャックの言葉が、頭に響いた。

 どうしようもない。

 どう表現したらいいのかも分からない。

 そう、その通り。

 私は嫉妬してる。

 キャシーに激しく嫉妬を。


「――嫉妬なんて、すると思いますか? 私は、所詮キャシーには敵わない。嫉妬なんて出来るレベルじゃないんです。お二人とも、キャシーといるときは楽しそうでした。私は、あんなお二人を見たことがなかった。彼女の方が良かったですか? 彼女の方が話しやすかったですか? 私のような陰鬱な女より、キャシーの方がずっと、二人と相性が良さそうでした。私は――……」


 感情の赴くままセリフを吐いて、このまま最後まで余計なことまで喋りそうになって、私は少し躊躇した。

 崩れる。

 崩れてしまう。

 せっかく築き上げた大切な関係が。


 そう思ったのは私だけではなかった。

 ジャックは居ても立っても居られなかったのだろう。



 気が付くと私は、ジャックの胸の中に居た。


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