10.ありがとう

「ライザの架電効果で、商談も上手く行ったよ! ありがとう!」


 ある日の夕方、ジャックが両手を広げてアトリエに飛び込んできた。

 I州まで赴き、今まで取引のなかったアクセサリーショップに売り込みに行っていたのだ。店の一角クリフォード・J・スミス工房のコーナーを作って貰えることになったと、大喜びだった。


「第一印象は大切だよ。『あまりにも電話口での対応がお上手で、とても少人数でやっているアトリエからの売り込みだとは思えなかった』って、先方も驚いていたよ。やっぱり長年保険会社で営業やっていただけのことはあるね。流石ライザ!」


 テレアポ程度でそんなに褒められるとは思っていなかった私は、面食らった。やっぱり、多少なりとも営業経験が役に立ったってことなのだろう。


「ど、どういたしまして、ジャック。私に出来ることだったら、いくらでもやらせて貰うわ」


 ジャックの喜びようったらなかった。

 スキップ踏みながら細工の仕上げ加工をしていたクリフォードさんにハイタッチさせたくらいだ。


「男だけで湿っぽく仕事していたときとは気分も違うしね! ライザが来てくれて本当に良かった! ありがとう!」


 まるで子どもみたい。

 ルンルンと軽やかな足取りで裏口から事務所へと消えていくジャックを見ていると、私は思わず腹を抱えて笑ってしまった。


「ライザ、笑ってないで続き」


 ジャックのご機嫌が少し移ったのか、珍しく口角を上げるクリフォードさん。

 私はハッとして口を噤み、クリフォードさんの手元に目を落とした。


「塗料の種類と、刷毛の選び方は特に大事だという話をしたね。乾いたあとのことを想定して色を塗らなければならない。例えばこの塗料だと、塗ったあと乾かし方を誤ると塗りむらが出る。こっちの塗料は、熱を加えると色が変化するタイプだから、仕上げに熱加工の必要なものの場合は注意しなければならない」


 作業机に並べられた複数の瓶。それぞれメーカーも異なれば、特性も異なる。一度聞いたことを何度も聞き返さなくてもいいように、私はノートにメモしていく。


「それから、金属の種類によっても塗料の付き方に変化が出る。例えばこっちはアルミの板、こっちは銅の板。質感も色も違う。同じ塗料でも、発色が違う。これを踏まえて、ライザには色つけをお願いしたい。僕の作品は基本、色は殆ど付けないんだけれど、女性の発想と感覚で自由に塗って貰いたいんだ。今までとは違う作品にしたい。いいね?」


「……わかりました、やってみます」


 卵ほどの大きさの細工を数個渡され、色を塗るように指示された。

 商品になるかも知れない作品に手を加えるよう言われたのは、初めてのことだった。

 自分の作業机に、塗料の棚から瓶を幾つか取りだして並べる。下絵の為の紙と鉛筆、試し塗りのための金属くずも用意して、私はようやく机に向かった。

 渡されたのは、ケースを被せてキーホルダーとして売り出すもの。完成形は何度も見た。今度はこれに色を塗って売り出すのだ。

 歯車の周囲に綺麗な羽のパーツが幾つもちりばめられている。これだけで綺麗なのだけど。

 動作の邪魔をしないよう、色を塗らなければならない。

 私は紙に何パターンか絵を描いた。どれが一番この細工に合うデザインだろうかと。

 クリフォードさんの作る細工は、鳥のデザインが多い。白鳥だったり、鳩だったり。カモメ、ガチョウ、ひよこ……。あんな厳つい顔をしているのに、デザインはとても綺麗。

 赤ちゃんの毛先のような細い筆を手に取って塗料に浸し、慎重に塗っていく。私の手がどうか震えませんようにと願いを込めながら。

 集中すると、周囲の音がピタッと止む。

 クリフォードさんが金属を削る音も、事務所から漏れるジャックの電話の話し声も、外を走る車の音も、駆け抜けていく子どもたちの声も、葉の擦れる音も、風の音も。

 本当は聞こえているけれど聞こえていない。そんな不思議な感覚に陥っていく。

 集中するのは好きだ。

 こうやって自分だけの世界に入り込んで、目の前のその一点だけを見つめる。

 本当は好きだったこの時間は、保険会社じゃなかなか得られなかった。誰かと出会い、話すことから始まる仕事とは無縁の時間だ。

 とても短い時間がとても長く感じたり、長い時間が短く感じたりする、この感覚。

 私だけの時間、私だけの世界。


「――売り物にするの?」


 ジャックの声と影がふいに降りてきて、私はハッと頭を上げた。

 現実に引き戻された。


「へぇ。機械細工にこうやって色を塗るのも、なんだか斬新だね」


 ジャックは先に色を塗っていた未だ乾きたての機械細工を手に摘まみ、様々な角度から眺めていた。


「ちょっと前に、『斬新さがあれば』って取引先に言われてきたって、君、言っただろう。だからライザにやらせてみたんだ。僕の感覚ではこれ以上の作品は出来そうになかったから。機械細工に触れたばかりの新鮮な感覚で塗ってみたらどんな作品が出来るだろうと思ってね。どうやら成功かな」


 作業机に座ったまま振り向くクリフォードさんは、少し声の調子を上向かせている。

 私はちょっと嬉しくなって、思わず口元が緩んでしまった。


「ありがとうございます。ジャック、色はどう?」


 羽の部分に白い塗料。輪郭部分を柔らかく見せるようにパステルカラーの塗料を数種類重ねて塗って、暖かみのあるデザインにしてみた。他の機構から羽と鳥が浮き出るように色を塗ったのだが、本当に試行錯誤。上手く出来ているのかどうか、自分ではよく分からない。


「いいと思う。女性向け、だよね。ターゲットが絞ってあった方が売り込みやすいし。色使い、本当にいいと思う。センスあるよね」


「ありがとうございます」


 美術を囓って置いて良かった。

 私はホッと胸を撫で下ろした。


「ねぇクリフ。次、売り込みのときに持ってってもいい?」


 ジャックは言いながら、手に持っていた彩色済みの細工を一つ、クリフォードさんに渡した。

 クリフォードさんは目を細めながらじっくりと細工を観察し、塗料の付き方や色の出方をチェックする。うんうんと何度か首を縦に揺らし、


「思ってたよりもずっといい。ライザ、それぞれ違うデザインで塗ってみてくれ。凄いな。感覚の差がハッキリ出てる。大学で絵を描いてたんだっけ」


「はい。油絵を。抽象画でしたが」


「いいね。やっぱり、きちんと勉強したことのある人は違う。僕みたいに手探りじゃない。基盤がある。良い財産だ」


 クリフォードさんはそう言って、満面の笑みを私に向けた。



 *



 日々の片付けのお陰で、床は随分と広くなった。

 段ボールを片付けて中身を整理すると、部品が棚から溢れた。仕方なく余った金属板を溶接して棚や仕切りを作り、壁面収納を作っていく。これが案外上手くいって、塗料の瓶もきちんと種類ごと、色ごとに収納出来た。


「片付けの才能はピカイチだな」


 クリフォードさんは呆れたように言う。


「何言ってるんですか。仕事の基本は整理整頓ですよ。それぞれ持ち場にきちんと置かれているからこそ、効率的に仕事が出来るんです。注文した内容も忘れて、次から次へと適当に届いた荷物を山積みにするのは、仕事じゃないんです。怠慢です」


 そこまで言うと、クリフォードさんは両肩をすくめて、ブルッと震えてみせた。


「本当に、面倒な子を雇ったな」


 けれど、言葉とは裏腹に、クリフォードさんはとても嬉しそうだった。



 *



 展示室は商談スペースにもなっていた。

 小さな丸テーブルと丸椅子に、ジャックとスーツの男が二人、向かい合って座っている。


「色が付いてると、全然雰囲気違いますね。へぇ。同じ商品なのに」


 鼻にかかるような特徴のある声をした男はウッドマン氏。大手アクセサリー通販サイトのバイヤーだそうだ。小さなアトリエとはいえ、ジャックがあちこちに売り込みしている分、いろんな人が訪れる。けれど、私は間近で商談を見たことはなかった。


「彼女、最近弟子入りしたライザ・グリーンが色づけを担当しました。油絵の経験があるというので、スミスが任せたんです。どうですか、感触としては」


 私はジャックの少し後ろで、同席させて貰った。

 それにしても、自分が手がけた作品を誰かがまじまじと見るのは、何とも恥ずかしい。

 ウッドマン氏は手に持って、正面から、斜めから、そして裏も、360度舐めるようにして作品を見ていた。


「……いいね」


 ウッドマン氏が言うと、ジャックは声を高ぶらせた。


「でしょう? 色が付いている分、単価は高くなりますが、今までのとはちょっと違う切り口で売り出すことは可能だと思うんです。もし好評であれば、更に数を増やします」


「分かりました。せっかくだ、売ってみるだけの価値はありますよ」


「ありがとうございます!」


 商談は成功、ジャックもウッドマン氏も、二人ともにこやかに握手を交わしていた。



 *



「売り上げも上々、アトリエは綺麗になったし、クリフのご機嫌もすこぶる良い。本当に、ここを訪ねてきてくれてありがとう、ライザ」


 ウッドマン氏が去った展示室で、ジャックは突然そんなことを言い出した。

 もう夕方。仕事も終わりの時間だった。

 それにしても、改めて言われると、なんだか恥ずかしい。そんな大したことをしていたつもりはないのに、褒められるなんて思ってもいなかったから。


「クリフォードさんもジャックも、褒め上手だからじゃないですかね?」


 私は何と答えたら良いか分からなくて、そんなふうに返した。


「何それ。どういう意味?」


 ジャックは半笑い。


「そのまんまですよ。人間、完璧じゃないですから。怒鳴られて、怒られて、追い詰められてばかりじゃ萎縮しちゃいます。ちゃんと褒めてくれるからこそ、もっと頑張ろうと思えるんです。二人とも、褒めるのが凄く上手。だから私も、色々出来たんだと思いますよ」


 仕事が楽しい。

 純粋に、そう思った。

 どうにか生き続けるために仕事をしていたあの頃より、私はこっちの方が良い。

 お給料は確かにちょっと少ないけれど、贅沢しないようにすれば十分生きていける。

 誰かに認めて貰えて、誰かに褒めて貰えて、そうして、生きてるんだって、実感する。


「私こそ、異業種出身なのに、受け入れていただいて良かった。また、明日から頑張りますね!」


 私は久方ぶりに、充実感に浸っていた。

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