7.雨の日
雨が降った。
彼のアトリエに来てから、初めての雨だった。
しとしとと朝から降る雨は、いろんなわだかまりを流していく。
錆びたトタンの屋根と外壁に、雨は遠慮なく降り続けた。道路はどこもかしこも水浸しで、用水路には勢いよく雨水が流れていく。
普段は耳心地のいい木々の葉音は、全部降りしきる雨音に書き換えられた。
町は、雨のせいでより一層寂れて見えた。
*
湿った空気はアトリエの中にまで侵入し、普段から口数の少ないクリフォードさんを益々物静かにさせた。もう午前10時を過ぎたというのに、今日は作業もせずに朝から自分の義手をしきりに気にしている。
あまりにも様子がおかしい。それは、まだ一緒に働き始めて間もない私にも分かるくらい顕著だった。
入荷したての部品を種類ごとに分けながら、順番にアトリエの引き出しにしまっていくという単純作業をしつつ、私はチラチラとクリフォードさんの様子を凝視していた。いつもはギィギィと音を立てて止まない機械義手の音が、今日は全くしない。それどころか、腕を作業台の上に乗せて、面倒くさそうに左手で書類や資料をめくっているだけのようだ。
10時半頃、郵便バイクの音。程なくして事務室からアトリエにジャックがやって来た。
「部品カタログ届いてるよ。最新号」
ジャックは普段通り自然体でクリフォードさんに近づき、ポンと作業机の上にカタログを置いた。
「ありがとう。置いといてくれ」
クリフォードさんは素っ気なく言う。
ジャックはそのまま立ち去ろうとして、「あ」と声を出して止まった。
それから一旦クリフォードさんの側に戻り、
「ゴメンゴメン。雨の日だった。封は開けとくから。カタログは直ぐ見る?」
「いや、そっちの。右の棚の端、空いてるとこへ」
珍しい。クリフォードさんに気を遣ってるジャックってなかなか見ない。
ジャックは言われたとおり、カタログを棚に突っ込んで、それからふぅとため息を吐いた。
「今日のランチは片手で食べられるものに変えて貰おうか。今日はハンバーガーの日だけど、片手じゃ食べづらいだろう。サンドイッチで良い?」
「頼む」
一連の会話を終えると、ジャックはまた事務室へ戻っていく。
なんだか、2人とも様子がおかしい。
私はトイレへ向かうフリをして、そそくさとジャックの後に付いていった。
*
ジャックがトマト印デリバリーへの電話を終えたところで、私は恐る恐る、事務室のドアを開けた。その様子があまりに奇っ怪に映ったようで、彼は顔を歪ませて、
「どしたの」
と笑った。
「あ、あの。ちょっといいですか」
パタンとドアを閉め、私はコッソリとジャックの事務机の側へと屈み込んだ。
「クリフォードさん、どうかしたんですか」
ヒソヒソ声で聞いたつもりなのに、ジャックは突然、
「ああ、あれね」
と、普通の声量で返してきた。
慌てて、静かに静かにとジェスチャーしたのに、ジャックは全然私の気持ちをくんでくれなかった。
「雨の日は、機械義手の調子が悪くなるんだよ」
「――え?」
妙に引っ繰り返ってしまった自分の声に驚いて、私は咄嗟に自分の口を塞いだ。
「雨の日だとダメなんですか?」
「そう。機械義手は湿気に弱い」
「湿気に」
「水にも弱い」
「水にも」
「手の部分には生活防水機能があるんだけど、あの通り、肘関節は可動部丸出しだからね。なぁんだ、知らなかったの。ま、人前で弱音吐きたくないんだもんね、クリフは。ましてライザの前だもん、何も言えなかったんじゃないかなぁ」
「なんですか、その言い方。まるで私が話しかけにくい人みたいに」
「話しかけにくいんじゃないの? 知らないけど」
ジャックは両肩を上げて半笑い。
こんな態度をされたら、あまり良い気分にはならない。
「それって、私が彼の奥さんに似てることと、何か関係あります?」
私も思わず大きめの声で返してしまった。
――と、その直後、事務室のドアが開いて、クリフォードさんが入ってきた。
しまった。
私は咄嗟に口を両手で塞いで壁際まで逃げてしまったのだけど、余計な言葉がクリフォードさんには届いていなかっただろうか。心臓がバクバクする。
クリフォードさんは汗だくだった。
左腕で額の汗を拭ってから、ジャックの方を見て一言。
「今日はダメだ。外してくれ」
何もしていないのに、相当疲れているように見えた。
「了解。ま、久々の雨だしね。今日はゆっくり休んだら?」
ジャックはそう言うと、応接用のソファの側に立っていた私をそこから動くようにジェスチャーした。
クリフォードさんは右肩をさするようにして歩き、ドサッとソファの上に座り込んだ。
すかさずジャックが手前に屈んで、クリフォードさんのシャツのボタンを外し始める。
「な、何してるんですか!」
私はびっくりして、ジャックのシャツの端を引っ張ってしまった。
「何って、脱がしてるんだけど、どうしたの」
「え? え? 脱がす?」
「服を脱がすためにはボタン外すだろ?」
頭の天辺まで熱くなった。
そ、そういう関係?
にわかには受け入れ難くて、でも男性同士、ずっと長年寄り添って貰ってればあり得るかもとか、2人とも独身なんだし、恋愛は自由よとか、変な妄想がグルグルグルグル……。
「ちょい腕曲げて。そうそう。はい、脱げた。汗びっしょりだな。待って、今拭くから」
ジャックが立ち上がった。
私は見ていられなくて、いつの間にか両手で顔を覆っていた。
「……何してんの」
耳元で、ジャックの間抜けた声。
「お、お邪魔しているみたいなのに、逃げ出すタイミングを失ってしまって。わ、私アトリエに戻りますから、お二人はごゆっくり」
自分でも何を言っているのかよく分からなかった。
突然脱ぐとか脱がすとか、あらぬ想像がグルグルと巡ってしまっていて、変なことを喋ってしまったということしか。
「あ、なんだ、そういうこと! 違う違う、僕たち二人とも、そういう趣味はないから。義手を外すの。湿気にやられると調子が悪くなるんだ。ちょっと拭いて調整してやるだけだから」
「――え? 調整?」
「義手は一人じゃ外せないんだよ。だから誰かが手伝ってあげないといけない。あれ? 言わなかったっけ。僕、彼の介護要員だって」
「き、聞いてません!」
顔を上げた。
少し張りのなくなった中年男性の半裸が見えた。思ったよりも筋肉質な彼の身体の、右肩に貼り付いた機械義手が、初めて全部、私の目の前に。
筋肉を模し、捻ったり曲げ伸ばしたり出来るようにしてある構造が、剥き出しになっている。布や細かいものを巻き込まないようガードは付いているものの、はっきりと可動部が見える。肩、二の腕、肘。腕から先は毎日見ているけれど――、彼の方から生えていたのは、美しい人工の構造物。思わず見とれてしまう。生唾を飲む。
「ライザも手伝ってくれる? 二人以上だと楽なんだよね、この作業」
クリフォードさんの方に腕を回しながら、ジャックは私にウインクした。
*
肩から先がない、ということを聞いたところで、服の上からはわからないもの。具体的にどこが欠損しているかなんて、失礼すぎて私から聞くべきことではないと思っていた。
第一、誰にだってプライドはある。
特にクリフォードさんは、私に対してあまり弱みを見せなかったところからして、プライドの塊のような印象があった。
上腕骨の一部を残して、そこから先が全部ない、ということらしい。
彼の義手は、肩をすっぽりと包み込み、残された僅かな上腕骨を支えにして装着されていた。更にズレないよう、ベルトを左脇の下、左肩を通して固定してある。
障碍者と言うよりはサイボーグと言った方がしっくりくるような見た目に、私は唖然としてしまっていた。
「外すから、義手を持っていて欲しいんだ」
私はジャックに言われるまま、そっと義手に手を添える。
クリフォードさんと目が合わないよう、私は義手を外すジャックの手に集中する。
ベルトを外し、肩の辺りの螺子を緩めると、カパッと義手が外れた。クリフォードさんが身体を動かすと、機械義手がドサッと私の手の中に落ちてくる。
「――重っ!」
思わず声に出してしまうくらい、ズッシリとした重み。
一方でクリフォードさんは、ホッとしたように首と肩を回している。
「慎重に持ち上げて、机のとこまで持ってきて」
ジャックに言われて、義手を持ったまま立ち上がると、その重みがまた私の腕にのしかかった。
「こ、こんなの付けて歩いてるんですか? 機械義手でも、もっと軽いの、たくさんあるのに」
クリフォードさんと機械義手を交互に見る私に、ジャックは声を出して笑った。
「そりゃ重いよ。機能重視だし。小型バッテリーやら基板やら、この中にぎゅうぎゅうに詰まってるんだもん。そうでなきゃ、義手であんな機械細工作れないでしょ」
「それはそうだと思いますけど……!」
机の上にそっと義手を置くと、一気に身体が軽くなる。女性だったらこんな義手、絶対に無理。私は大きく息を吐いて胸を擦った。
何㎏くらいあるんだろう、少なくとも小動物よりは重いような。
「雨のせいかな、可動部の調子がおかしい。ディーンを呼んでくれるか?」
額の汗を左手で拭いながらクリフォードさんが言うと、ジャックは「了解」と軽く返事をして受話器を握った。
「ディーンって、どなたですか?」
目をぱちくりする私に、クリフォードさんはぶっきらぼうに答える。
「僕の義手を作ってくれた悪友さ」
「悪友、ですか」
友達なんか居ないのかと。
言いかけて、私はぐっとセリフを飲み込んだ。
事故前は明るかったとジャックが言ったのを思い出した。人が変わったようになったのは事故の後。私は事故後のクリフォードさんしか知らない。
ジャックが電話口で親しそうに話しているのが、ボンヤリと耳に聞こえてくる。世間話を挟みつつ、どうやら話が付いたらしい。
「昼過ぎには来るって。それまでゆっくり休もう。偶にはこんな日があってもいいんじゃないかな」
雨のじとじとの中でも、ジャックだけはいつもと変わらない調子でにこやかだった。
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