3.気まぐれ

 アトリエの隅にひとつだけ綺麗な机がある。

 スミス氏の事務机。彼はそこに丸椅子を持ってきて、私に座るように促した。


「狭いけど座って。あ……、汚れてるけど大丈夫?」


「大丈夫です、ありがとうございます」


 年の頃は四十代後半から五十代前半。無精髭、白髪の交じった黒に近い茶髪。容姿にそれほど気を遣わないのか、作業着は機械油の染みだらけ。香水は付けているようだったが、加齢臭が少し勝る。スミス氏は、くたびれた中年のおじさんだった。

 薄暗い工場こうばの天井からつり下がった大きめの裸電球が、パチパチとフィラメントを煌めかせて揺れている。機械細工に利用する様々な道具が、びっしりと棚に収められ、足元には作業台まで続くたくさんのコード。作業台の正面には小さな引き出しの付いた棚が括り付けてあった。見出しの付いた透明な引き出しの奥に、小さな部品が透けて見える。

 油にまみれた工場は、決して清潔ではなかった。


「独り身だから、どうしても掃除が行き届かなくて。こんなときに限ってジャックは休みだし。女の子が来るって知ってたら、もう少し綺麗にしてたんだけど」


 スミス氏は恥ずかしそうにはにかんで、私に珈琲を差し出してくれる。その芳醇な匂いさえ、機械油の臭いにかき消されていく。


「こちらこそ、すみません。手紙の他に手段があれば、もっとわかるようにご連絡出来たんですけど。――けど、来て良かった。こういうところで作ってらっしゃるんですね」


 ちょっと皮肉めいたことを喋ってしまったと、少し後悔はしたが、仕方ない。だって、本当に何もわからなかったのだ。

 そんな私の言葉にスミス氏は臆することもなく、つらつらと話し始める。


「まぁね。できあがった作品とは違って、思ったほど綺麗な場所で作ってるわけじゃないって、わかって貰えただけでも良いかな。作業自体、どうも油臭くて。完成品はガラスやケースで覆われてることが多いから全然気付かなかったと思うけど、なにせ手作業なんでね。あ、でもこれが業界全体の常識だとは思わないで。埃ひとつない部屋で防塵服を着込んで細心の注意を払いながら作ってる職人さんも知ってる。要するに、やり方に正解はないってこと」


 ハハハと笑って、スミス氏は自分の珈琲を啜る。

 笑うと目が見えなくなる。可愛い笑い方をする人だ。


「グリーンさん、仕事は? 何してる人?」


「あ……、『ライザ』でいいです。仕事は、今してません。前の仕事を辞めてから、ずっと求職中の身で」


「前の仕事?」


「はい……、保険会社で外交員を」


「そうか。外交員。では、機械細工の経験は?」


「いえ。お恥ずかしながら。機械細工自体、この前の展示会で初めて知りました。……呆れちゃいましたか?」


「うん。呆れた」


 彼はまたハハハと笑って、珈琲を啜った。その笑い声が、またなんとも可愛らしい。


「素人じゃ、お話になりませんか? 確かスミスさんも独学だったと伺いました。ご自分だって最初は素人だったってことですよね」


「そりゃそうだ。最初は誰だって素人だ。流石、外交員していただけあって話が上手いね。ところで隣に展示室があるんだけど、見る?」


「いいんですか?」


「市場に出回ってないヤツ、それから展示会にも出したことがないようなヤツもある。弟子を取れるほど優秀な技術は持ってないが、デザインや機械細工の基礎なら教えられる。僕の実力を見て、君が弟子になりたいと思うなら、僕は歓迎だよ」


「――ありがとうございます!」


 スミス氏は何故かご機嫌になって、私を展示室へと案内してくれた。

 不思議な人だ。

 こんなに親しげに話してくれているのに、実は全く私に対して警戒を解いていない。

 まるで表面上だけの愛想を振りまいているような、そんな態度に首を傾げながら、私は彼の作品をたっぷりと堪能した。



 *



 “歯車の芸術”――機械細工職人は、自らの仕事をそう呼ぶ。

 美しさを極めるため、彼らはミリ単位の歯車を組み合わせ、美しい作品を作り出す。

 時計のように持ち歩きの出来る実用性のある細工から、ときにはジオラマ大のものまで、様々な作品が世に出回っている。

 かつては手作業で職人が作るのが当たり前だったそれも、時代が進むにつれ人間はあくまで設計図を作るまで、組み立ては機械でというのが主流になって。けれど、それをあえて人間の手で、機械だけじゃない、様々な物――例えば木の実や木材、ときには石や宝石を組み合わせて新たな命を吹き込んでいくのが機械細工職人の仕事。ガラスやアクリルで覆われたケースの中で、どれだけ美しく歯車を回せるのか。機械細工職人たちはこぞって自分たちの腕を磨いている。

 それはびっくりするほど神経を使う作業で、100号の油絵のような大胆さは殆ど必要としなかった。小さな基板にひとつずつ端子をはんだごてしていくような繊細なものだった。

 コイン大の細工を作るのに、何ページにも及ぶ設計図が必要になることもあるという。

 歯車や螺子をサイズと用途ごとに分類し、細かく仕切って保管してあるのは、膨大な材料の中から必要なものを的確に見つけるため。業者から仕入れた材料を整理するだけで何日もかかることがあるそうだ。


「地味な作業だよ」


 スミス氏は言った。

 勿論、そうだろうと思う。

 地味ではない作業なんてない。作品をひとつ作り出すのに、その地味な作業をコツコツと丁寧に仕上げる必要がある。


「全部、お一人で? さっきお話に出た、ジャックという方は?」


「ああ、彼は経理と折衝担当で。作品は僕が一人で作ってる。生憎、ジャックは手先が僕より不器用なんだ」


 スミス氏はわざとらしく義手の右手を顔の前でチラチラさせた。


「誰かと一緒に作ろうとか、手伝って貰おうとか、そういうのは今までなかったんですか?」


 何の気なしに私が訊くと、スミス氏は少し顔を曇らせて、目を逸らした。


「なかったね。全く」


 伏せた目が、少し潤んでいるように見える。


「けど、どうして私のことは弟子にとってくださると」


「それは――、そうだな。一種の気まぐれだ。直ぐに辞めてもらうかも知れないし、教えたくなくなるかも知れない。口はお上手なようだから、話相手にはなるかも知れない。そんな程度だ。あまり期待しないでくれよ。本当に、人になんて教えたこと、ないんだから」


 何かを誤魔化すように、スミス氏は微笑んだ。


「大丈夫です、私、打たれ慣れてますから」


 私も、自分自身を誤魔化すようにフフッと笑って見せた。



 *



「弟子入りする?!」


 アトリエから戻った私を、キャシーの大声が歓迎した。

 相変わらず何の事前通告もなしに、勝手に部屋に上がり込んで我が物顔で居座っている。

 私は彼女にお茶を振る舞いながら、


「そうなの」


 と答えた。


「機械細工も素敵だったけど、彼自身も素敵な人で。ちょっと癖が強いけど、教わりたいなと思って。細かいことは、経理担当のジャックさんが戻ってきてからって約束で。電話連絡先もゲットしたし、近くに借りられる部屋があるよって情報もいただいたし。来週にはジャックさん、休暇から戻ってくるそうだから、連絡が来たら向かおうと思って」


「ハァ? あんた、何考えてんの?」


 キャシーの声は、いちいち耳に響いた。


「ホラ、この間キャシーもいってたじゃない。私にはこういうのが向いてるかもって。せっかくの機会だし、挑戦するのも悪くないんじゃないかと思うの。色々と準備があるから、会えなくなるけどゴメンね。引っ越し先決まったらちゃんと連絡するから」


「バッ……バッカねぇあんた! 初めて出会った職人に弟子入りって、よくもそんな博打みたいなこと! ライザらしくもない!」


「そんなことないわよ。結構好奇心旺盛なのよ、私」


 ヘラヘラと笑って適当にあしらおうと思ったけど、キャシーは鋭かった。テーブルの上に上半身乗っけて、私の顔をまじまじと見つめてくる。あまりにも顔が近くなって、私は海老反りになった。


「……なるほど。機械細工じゃなくて、職人さんが気になってるんだ」


 言葉にされた途端、顔が耳まで熱くなった。

 違うって言いたいのに、どうしても体は嘘をつけないらしい。


「好きとか、付き合いたいとか、そういう意味で気になってるわけじゃないのよ? とっても秘密めいていて、魅力的だと思って。大丈夫よ。親子ほども離れているんだもの、そういう気持ちになんてなりっこないから」


「……どうかしらね」


 ハハンと鼻で笑い、キャシーはようやく私から体を引き離した。


「ま、塞ぎ込みがちだったライザが前向きになったってのは良いことかもね。でも、恋愛は慎重にしなくちゃダメよ? で、その職人さん、まさか妻帯者じゃないでしょうね? 親子ほどの年の差なら、それこそいい人がいたっておかしくないでしょう?」


「ひ、独り身って言ってたわ」


「へぇ。いい年した、いい男が独り身ねぇ。訳あり?」


「さ……さぁ。そこまでは」


「変なことにならなきゃ良いけど。言っとくけど、私はいつでもライザの味方だからね? 困ったことがあったら直ぐに言うのよ? わかった?」


 キャシーってば、やたらとお姉さんぶる。私と同い年なのに。

 彼女は積極的で、しっかりと人生を見据えてて。バリバリ仕事をして、行動的で。私のことを気にかけてくれる。

 きっと、他に頼る人の居ない私を心配してくれてる。

 わかってるから、私はキャシーには嘘をつけない。


「勿論よ」


 彼女は私の言葉を聞くと、ホッとしたようにウインクして見せた。

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