11.すでにその時。妹は帰ってきていたらしい

 やがて僕らはそれぞれの食事を終えて、席を立った。払いを持ってもらいながら一足先に外へと出てみれば、まだ肌寒さが染み入る春の終わりだった。


 戸明かりが漏れる背後から、デインズさんの息遣いを感じる。


「敵を間違えるんじゃないよ、坊や」


 こちらが振り返るより先に、そう言い残した彼女はすでに別の方へと歩き始めていた。慌てて追いかけようとした時には、どういう理屈かもう背中さえ見えないほど遠く、呆然と辺りを眺め渡してみれば、そこは見慣れた商店街の外れだった。振り返ってもつい先ほどまで背後にあったはずの店の位置は判然としなくて。


 神出にも鬼没にも、神なり鬼なりの道理くらい通してくれても良いとは思うのだけど、相変わらずの破茶目茶具合な上に、こんなところに置き去られて一人で帰れというのも酷な話だと思った。何と言っても僕はあくまでコンビニへと行くつもり程度の軽装備で、ここから家までの道のりは自転車でもそこそこに時間がかかる。


 ……。


 文句を言おうにも当の相手はすでに去ってしまっていたから、やはり黙って歩くしかなかった。


 せめてもう少し風が弱ければと思いつつ、自宅の方へと足を向ける。




 ただいまと玄関を開けるのも本日二度目。深夜も遅い室内が点け放した電灯に寂しく照らし出されていた。


 靴を脱いで自室へ。着替えを用意し、手早くシャワーを浴びる。


 人心地ついたところで、さてどうしようかと迷う。寝るのには少し早い時間だったけれども、睡眠時間を勘案して逆算すれば学校の課題をこなせるほどの時間はなく、ついでに言えば気力もない。早々に明日の優等生を諦めて、明後日からの自分に期待をかけることにする。


 自前で淹れた緑茶を啜りながら和室へと移る。その部屋で動くものはと言えば自身を除いても時計の針くらいなもので、咳をするまでもなく、持て余すほどの一人を噛み締める。


 というより実のところ、今やこの家に住んでいるのは僕一人だったりする。かつては僕を含めて四人所帯で生活していた時期があったようにも思うけど、正確な日付が定かでない程度の昔に、他の人間はそれぞれ出ていった。いや、消えていったの方が正しいのかなと僕は首を傾げる。ついでだから家の間取りを詳細に綴るなら、一階には和室と別に居間があって、それに加えて両親が寝室として使っていた部屋がある。二階に子ども部屋と物置部屋が二つずつ。


 この一人暮らしには広すぎる家を僕一人が使い放題なのはちょっとした贅沢だと思う。もっとも、両親の寝室はガムテープでみっちりと封じてしまっているせいで使えないし、いくつかの部屋には、掃除効率の都合から、めったに足を踏み入れることもないのだけど。


 ……。


 僕はこの家の一番奥に位置する、寝室手前の廊下に膝をついた。湯呑みを脇に置いて、目を閉じ手を合わせる。


 ただいま。


 そう呼び掛けたのを皮切りに、父さんの気配が湧き出し始める。匂いが漏れないよう密閉した向こう側から、こちらの存在を知覚し目覚めかけているような心地があった。


 しかし今日はあまり調子が良くないのか、何かを言いたげにはするものの、なかなか言葉を寄越すことはなく、ただ僕らは黙ったままにしばらく向かい合った。


 ……。


 結局それから数十分待ってみても父さんの濃さはある程度を越えず、僕の方が先に諦めておやすみと残し、立つこととなった。


 冷めきった湯呑みを片付けて、二階へ。


 自室のベッドに転がり、残す明かりは机上のデスクライトのみ。窓越しの暗闇に遥か遠方を走る救急車が聞こえて、ふと息が詰まる。


 今日あったことを思い返してみる。


 七秒。何て一日だったんだろうと、思わずため息を吐いてしまう。


 しかしそんな一日もこうしてきちんと終わる。


 僕は眠りへと落ちていき、やがては沈黙だけが取り残された。


 その晩あったことはといえば、それだけだった。


 しかし今思えば、すでにその時。妹は同じ屋根の下に帰ってきていたらしい。



   ※


 その夜、僕は苦い記憶の夢を見た。猫を抱き潰してしまった夢だ。


 大した背景があるわけでもない。当時の僕は秘かに餌をやっていた猫がいて、ふとした拍子に車の前へと飛び出しかけたそいつを、抱き止めようとして力加減を間違えたという、それだけの話。


 されどその出来事をきっかけに、幼かった僕は自身の抱える特別というものが決して誰かに誇れるものでなく、単なる危険な『異常』なのだと認識し始めたのだと思う。


 自分が正義の側ではなく、滅ぼされるべき『化け物』の側なのだと否応なく理解する一幕。


 思い出すだに身震いが止まらなくなる記憶のひとつ。いつまでも手元にぐったりと垂れる肉塊と外れた骨の感触が残り、夢の中の幼い僕は泣いていた。


 繰り返すけど、でもやっぱりこれはただそれだけの話でしかなくて、僕の経験そのものはさして特別でも何でもないのだと思う。誰だって自身が何者であるのかということに向き合わされて失望した経験があるんじゃないか、なんて。


 だからそんな過去を思い出した程度で、内側をがりがりと掻きむしられているような気分になってしまうのは、僕がまだ幼いということの証左でしかないのだろう。


 それなのに。こうしてたまに夢を見るくらいには、未だ苦しい。


 記憶。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る