10.私はあんたに帰ってきたのよ
帰り着く。
ただいまと靴を脱ぎ、真っ暗な室内に明かりをつけていく。こんなに遅くなるとは思っていなかったし、商店街で適当に夕飯を済ませて来れば良かったと思いつつ、制服を着替えた。この時間から自炊をこなすことにも億劫さを感じたので、改めて靴を履き財布を持って、深夜帯までやっているコンビニへと向かうその途上のこと。
「……迷った、かも?」
と、口では疑問形にしてみても、言い訳のしようがないほどそれは、完璧な迷いっぷりだった。
一部の隙もなく周囲の風景に見覚えがない。迷い具合という項目に適切な評価が下される社会であったなら、迷妄エリートの名を冠せられるにやぶさかでもないほど。デパート受付のお姉さんとは顔見知りで幼児先輩とは向こうが敬語を使うような間柄、なんて。
冗談はともかく。
もちろん自身の家の近所で迷子になるほど、僕が地理に弱いわけでもない。歪んでいたのはたぶん町並みの方だった。いや、こちらは冗談というわけでもなく。
同じ表札の前を通る。坂道が一向に終わらない。曲がり角が塞がれている。そんな風景を繰り返されて、しかし足元のペースに乱れはなかった。即席なはずの迷宮は割りに作りが素直で、こちらがはっきりとした違和感を抱くより先に、僕を導き手の居場所へとたどり着かせている。
「ただいま、坊や」
こちらを見もせずにそう呟いたのはやってきた僕の方ではなく、僕を迎え入れた彼女の方だった。
碧眼。大きなつば付き帽。痩せた首元にスカーフを巻き、短く撫で付けられた金髪が婦人を若く見せている。
周りを見渡せば、どうやらここはちょっとした空き地に作られたつまらない公園で、彼女が占有して座っているのはたったひとつきりのベンチだった。脇には古めかしいラジオ。しかしその音は、近付いてみてもやはり死にチャンネル砂嵐だった。
彼女とは顔見知りであるけれど、一度たりともまともな場所で出会えたことのない相手で、それゆえたまに、ひょっとして僕の妄想の産物ではなんて実在を疑ってみたくなる。
「ただいまは家に帰ってきた時の挨拶ですよ、デインズさん」
「私はあんたに帰ってきたのよ」
抜け抜けと彼女は微笑みも浮かべないままに、訛りのある日本語で間違いを誤魔化した。
ようやくこちらへと視線が向く。
「あんたは私が会おうと思ったから導かれたの」
「……」それはそうでしょうけどさ。
彼女はこちらの気持ちなど欠片も慮らないままにラジオを止めて、真っ黒な手提げ鞄へとしまう。
僕の差し出した手を取って彼女は立ち上がった。傍らに立てかけていた杖も拾い上げる。
「夕飯はまだだろうね?」
そう訊いて、しかしやはり答えなどすでに承知しているかのように、一顧だにせず歩き始める。時間は深夜に近く、僕がこんな夜遅くまで夕食を引き延ばして何をしていたかなんてデインズさんが知るはずもなくて、されどよどみない彼女の確信じみた足取りに僕は背後で首を傾げる。そうは言っても尋ねるだけ無駄だろうけれど、と思っていたら。
「顔を見ればわかるのさ」
なんて、尋ねなかったことにまで答えられて、いよいよ閉口する。
無言のままにしばらく付き従った。
「……」
それにしてもこの人と一緒に歩いていると、どこへ向かっていたとしても道程が不自然に縮められるのは相変わらずのこと。
彼女が立ち止まったのは一見するとマンションの裏口にしか見えない扉の手前。しかし注意深く観察してみれば、表札のように見えた呼び鈴の少し上に小さな看板が掛けてあり、デインズさんに言われて開けた扉の内側はバーらしき空間だった。
内側は絞られた照明によって薄暗く、されど目が慣れてみればありふれた板敷きの飲食店だった。
客はほとんどいない。カウンターの端で本を読む男が一人。テーブルの酒に手も付けず、内緒話をするように額を突き合わせた男女が一組。それだけだった。
デインズさんの先導で隅のテーブルへ。向かい合わせのままに座る。手の届く範囲にメニューが見当たらなくて思わず探していたら、それを小脇に抱えた男が奥からやってきて、渡そうとしてくれる。
「いつものと、ペリエを二つずつ」
しかし僕が受け取るより先にデインズさんが注文を済ませてしまい、開かれることもないままにメニューは遠ざかって行ってしまった。
「……」
恐らく奢ってもらえるだろう身の上である以上、何を言えた義理でもないけれど、欲を言えばこういった場所には何が用意されているのかくらいは見てみたかった。
ちょっとした蛮勇のつもりで、炭酸水を注ぐ男にもう一度メニューを持ってきてくれるよう頼んでみた。
受け取って、眺めてみる。四カ国語で書かれている上に基本的な金額が四桁からだった。思わず唸り声を上げかけたのを、代わりに。
「いつものってどれなんですか」
「そこにはないよ」
……。いつも頼む品が裏メニューな客というのも嫌味なものだな、なんて。
この時点まではその程度に思っていたけれど。
数分後。
「……えぇ」
僕らの前に運ばれてきたのは牛丼だった。
向かいでは平然と添えられた箸を取る彼女がいて、早くも一口目を賞味していた。どうやら冗談のたぐいではないらしい。
「和食だろうさね」
「……和食と言うか」
蓋を開けた途端、丼の奥側から白米の湯気が立ってくる。よくもまぁ軽食しか想定されてないだろう、ろくな調理設備もなさげな厨房で米が炊けたものだとまずそこに感心する。とは言え、目の前に出されていつまでも手を付けぬまま冷めるに任せるのも馬鹿らしく、空腹具合もいい加減限界だったので、ひとまず食べてみる。
「……解せない」
悔しいことにこれまで食べてきた牛丼の中で一番美味しかった。バーなのに。
「最近良くないのと付き合い始めたみたいだね」
「……」
脈絡なく本題が降ってきた。
思い返してみれば老女と最後に会ったのが先学期の終業式直前で、それ以降に出会った『良くない』相手といえば。
「浮月筋の贋作だろう」
「……よくご存知で」
あそこの神主も何考えているのかと恐らく独り言のつもりでため息。
浮月さん(父)が何を考えているのかは知らないけれど。
「何か問題ありますか」
「今度、昔の仲間が来るんだよ」
「……」
これまた脈絡なく打ち明けられた。
持ち上げた視線がデインズさんの碧眼とかち合う。
相も変わらずふざけの色が欠片も見られない、瑠璃のように硬く冷たい石の鳥。
つい困ってしまって、それが僕と何の関係があるのかなんて余程尋ねるつもりで口を開いて。
「たぶん坊やたちを殺そうとするんじゃないかね」
「……」言葉を失う。
坊やたち、と複数形にまとめられたからには、そこには浮月さんも混じっているのだろう。
しばらくの沈黙の後、ようやくの想いで尋ねられたのはありきたりな問いだった。
「何故ですか?」
「それは、あんた自身がよく知っているはずさ」
「……」
この人の性格から言って、九割九分、カマかけだろうとは思う。
しかし。
どうしてよりによって、今日この日にデインズさんが僕と接触を試みたのかと考えてみれば、残りの一分が出てしまった感が絶えない。あるいは異様なまでの勘の良さがなせるハッタリだろうかとも思うのだけど。
……。
もし仮に、僕や浮月さんが人を一人監禁してきたと知られているならば、少なくとも決して褒められたりはしないだろう。
何せ事態の全容は僕ら自身さえ把握しておらず、かと言って犯した罪は明瞭過ぎるほどに過剰。一般的な人外が人間と同じ法律で裁かれるとは思わないけれど、最悪この場で殺されることさえ覚悟しなくてはならないと思えば、ため息のひとつも吐きたくなる。
「私らは『抑止力』と呼ばれる組織に属している」
と、相変わらずの独壇場で恐らく初めて、デインズさんはこちらの反応を伺うような素振りを見せた。あるいはもしかしたら人外コミュニティに所属する誰もが知っていておかしくない名前なのかもしれない。しかしあいにくにして『抑止力』なんて単語が初耳である程度には、僕は向こう側の人間と距離を置いて暮らしているつもりだった。その例外たる彼女はもちろん、そんな僕の立ち位置も理解しているはずなのに、続けてこんな台詞を卓上に置いてしまう。
「星田勝彦も『抑止力』の一人だった」
「……」
それは父の名前だった。意外な繋がりを打ち明けられて世間は狭いななんてことを思いつつ。
違和感を覚えて首を傾げる。
周囲の喧騒がぴたりと消え去っているのだと気付いて、辺りを見回す。
店内の客全員が僕を見ていた。目が合ってさえ逸らされることはなく、見つめ返される。恐らく彼らが反応した対象はデインズさんの口から出た父の名で、つまりはここにいる全員が人間ではないということだろう。今更に自分の連れてこられた場所に、味方が一人もいないことを悟って鳥肌が立つ。
こんな事態を恐らくは故意に引き起こしたのだろう彼女自身が、何でもないと手を振ってようやく、集まっていた視線は渋々といったようにバラけた。
これでわかっただろうと言わんばかりに。
「あんたの父親は未だに厭われている」
と、周囲に聞かせるつもりもない音量へと戻して、彼女は言う。
「……でも、」声音に戸惑いを隠せないまま。「ただの人間でしょう?」
「あれが人間かね?」
呆れたような声を出される。それはまぁ、死んだ今となってはもう人とは呼べないだろうけど、少なくとも生まれた当時は人間だったはず。
そんな旨のことを言ってみても僕の言葉が余程見当外れな内容だったのか、彼女の見下したような視線は変わらなかった。
ただ一言。「知らないなら、まぁいいさ」
話を戻すが、と彼女は続けた。
「私らは、言わば人ならざるもののための警察組織のようなものだ」
「……」
それは例えば、人外による犯罪を取り締まったりだとか、諍いを仲介したりだとか。あるいは人間による僕らへの迫害を予防するために存在そのものを隠蔽したりだとか。
彼女の話によれば、そんな細々とした調整を自主的に請け負っている組織らしい。
「それで、」内心の動揺を無理に押し隠しつつ。「どうして僕らが殺されようとするんです?」
なんて、逆にカマをかけてみる。脳裏にはもちろん、今も倉庫で血を垂れ流し続ける白地さん。
されどそんなイメージを見透かされるかのように、彼女はただ鼻を鳴らしただけだった。
そして。
あんたは『人間』になりたいのかい。それとも『化け物』になりたいのかい。
「……」
「てっきり私ゃ、あんたが『人間』としてひっそり暮らすと思っていたんだよ」
だからこそ今まで連れてこなかったのだ、と続ける。
その言葉はきっと真実だろう。デインズさんとの付き合いは結構長く、されどその間一度たりとも、彼女以外の人外を紹介されたことはなかった。
ずっと庇われ続けていたのだと、唐突に知る。
「……僕は」
正直なところ、ここで『化け物』を選ぶ奴はどうかしていると思った。この社会は『異常』であることに対してひどく不寛容だ。自益のために他者を殺すなんて、動物なら当たり前に行っていることをするだけで罰され、そうでなくとも戸籍が不明瞭というだけで義務教育や医療保険は受けられず、当然年金だってろくに降りないだろう。
だから当然のように『人間』になりたいと答えるつもりで、ふいに。『人間として暮らす』という彼女の言葉が、自身の力を隠し通して、弱く、愚かなまま死んでいくことをも含意しているのだと思い至る。
……。
それは何かが違う気がした。生き残るために使える力を振り絞らない在り方は、生き物としてどこかしら歪んでいる。
改めて問い直してみれば、そういうものではなかったはずだという思いが湧き上がる。僕がなりたかったのは、そうじゃないはずだ、と。
しかし、ならばどうして当初の僕は『人間』になりたいなんて答えかけたのかと、首を傾げる。
長い沈黙の後、散々悩んだ挙句に口を突いて出たのはこんな言葉。
「僕は『普通』になりたいです」
「……」
老女は何の反応も返さずに、ただ水を一口飲んだ。
彼女はそれ以上続けることもなく、元のように箸を口元へと動かすことを再開した。会話を捨て置かれて呆然としたまま、どう育てればここまで優雅に牛丼を食せる淑女が出来上がるのかなんて深淵に思いを馳せる。
……。
こうなるともう何を問いかけても無駄だろう。デインズさんは一から十まで説明するということを極端に嫌う。
その癖「言い忘れていたが、」と意味なく十一を付け足すことを好む。
「坊やも『抑止力』の一員だからね」
唐突に言われて何のことかと首を傾げ、理解が至るにつけてようやく唖然とする。
「……驚愕の事実なんですが」
勝手に申請しておいたのだと何故か少し誇らしげ。
考えてみれば書類上、僕の親権はこの人が預かっているはずだから、やって出来ないこともないのだろうけど。本人確認もないとは『抑止力』とやらの入会審査も思ったよりザルなんだなと。
秘密組織というよりは、村の自警団といったような印象が僕の中で定着しつつある。
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