第11話 魔法使いの余韻

 野神真は両足をくの字に曲げてへたり込んでいた。

 腰を抜かしてしまって下半身に力が入らない。フロアを隔てる薄壁の向こう側で、エメルが野神を呼んでいる。

 無我夢中でフロアに踏み込んだ後、銃声がした。そして直ぐ後に野神の目の前で金属がはじける音がして、欠片がどこかへ散った。その直ぐ後に、今エメルがいる辺りで銃声がしたのだ。続けざまに数発。具体的な数は解らない。


 野神が腰を抜かしたのはその時だった。目の前で何かが弾けて四方に飛んだのは、銃弾だった事を悟った。犯人が自分を撃ってきた銃弾と、エメルが撃った弾丸が偶然ぶつかりあって、助かった。

 普通なら、死んでいた。絶対に起きえない奇跡だった。一生分の運を使い果たした気分だった。心臓の音がハッキリと聞き取れるぐらいに動揺しているのが解る。


「おい、大丈夫か」


 知らぬ間にエメルが近くまで来ていた。

 彼女は野神に肩を貸し、立ち上がるよう促した。エメルの背丈は低いので、少し足を引きずったが、すぐに自力で立ち上がる事ができた。

 エメルは野神の背中を手の甲で叩いた。


「さっさと行って安心させてやれ」


 エメルが親指で穴が空いた薄壁を指している。側には派手に転がったハンガーラックが雑多なジャケットの山に埋もれていた。

 野神は大路奈地美を見つけた。


「俺だ、助けにきたぞ。大丈夫か、起きろ」


 かがみ込んで、今も床から顔を上げようとしない大路奈地美の肩を優しく叩いた。俺は何もしていない。野神はエメルの顔をちらりと見て、様子を伺った。

 彼女は銀色の銃をコートのポケットにしまい込む所だった。先ほど、懐から取り出した銃とは違った。犯人が使用していたものを無事回収できたのだろう。

 奈地美の目は真っ赤に腫れ、涙が流れ続けていた。野神の顔を確認すると、無言で力強く抱きついてきた。余程怖かったのだろう、自分は入って一瞬で腰を抜かした。そんな場所で彼女は一時間近くも潜んでいたのだ。


「すごいよ、ホント」


 野神は心から彼女を尊敬した。


「マコト君」


 突然の声に、振り返るとエメルが野神を見下ろして立っていた。銃撃戦の後にも関わらず冷静沈着で、息も乱れず、白いジーンズに血の一滴も付いていなかった。エメルに名前を呼ばれると、心が楽になる。クールで、怖い女だと思っていた彼女の、数少ない他人に対する親しみの表現に思えたからだ。


「倒れているSATが無線で仲間を呼んでる。ここでお別れだ。警察が来たら上手く話をしておいてくれよ」

 エメルは小声で耳打ちした。奈地美は野神の体に顔を埋めて離れなかった。

 野神は奈地美を抱き抱えている片手を外し、スマホを取り出した。後ろをふりむく形で手を伸ばし、エメルに差し出した。しかし、その手はスマホを堅く握りしめて離そうとはしなかった。野神は何か考えていた。彼の眼にはこの場にある何も映っておらず、どこか別にあるものを見ているようだった。


「まだ、携帯電話に未練があるのか」


 エメルの一言で、野神は我に帰った。後ろから冷や水でも落とされたような、少し飛び上がるような感じだった。野神は首を左右にふり否定した。


「もう、懲り懲りだよ。持って帰ってくれ」


 野神はエメルにスマホを手渡した。


「パスワードは六桁で772723だ」


 メモを取らないようだが、耳の通信機を介して聞いているから問題ないだろう。エメルは口角を上げて笑顔を見せた。相変わらず、目は笑っていないが、すごく爽やかな笑顔だと思った。エメルは手に持った何かを野神のジャケットのフードに突っ込んだ。一万円札の束だった。


「これで、新しいの買え。色々、助かったよ。じゃーな」


 エメルは両手を併せてお辞儀をした。それが、日本式の礼儀だと思っているらしい。それから、走って5Fへの階段を上っていった。


「あの人、誰?」


 奈地美は知らぬ間に顔を上げていて、去っていくエメルを目で追っていた。


「命の恩人・・・・・・かな?」


 元はと言えば、彼女が属しているMIAの失態でこういう事態になっているので、返事に戸惑った。


「それより、怪我してるんだろ? 見せてみろよ」


 野神は彼女から体を離し、足首を見た。青紫色に晴れ上がっていた。

 野神はコートのポケットから、小さな壷を出し、エメルに言われた通り、塗ってみた。


「いたっ!」


 すごく痛んだのだろう、彼女は尋常じゃない苦悶の表情で足を庇っている。

 野神は壷をのぞき込んだ。真っ赤でドロドロとした液体の中に、赤色の粒々が浮いていた。ほんのり漂うツンとした臭いが、野神の鼻を刺激する。唐辛子やハバネロを混ぜ込んだんじゃないだろうな。野神はエメルが去っていった5Fへと疑惑の目を向けた。


 警官が数人上がってきた。もう大丈夫だと、野神は安堵の息を漏らした。全身黒服の特殊部隊の若い男に声をかけられた。

「俺は怪我してません。彼女を見て上げてください」

 特殊部隊の男は野神の遠慮も聞かず、全身をチェックした。膝と、頭に少しふれられた時、小さな声を上げてしまった。

「膝が青くはれて、頭にこぶもできてるね。担架を頼む」

 無線で呼びかける特殊部隊の男に、再度彼女を診るように促すと、意外な言葉が返ってきた。

「彼女、どこも怪我してないけど」

 野神は奈地美を見た。奈地美も野神を見て、驚愕の表情を浮かべている。野神に先ほど怪我した箇所をアピールした。紫色に大きく腫れ上がっていた足が綺麗になっていた。


(私は魔法使いだからな)


 エメルは真顔でそう言っていた。犯人に撃ち込まれた弾丸に、彼女が撃った弾丸が偶然当たって助かったのは、偶然ではなかったのだろうか。そういえば、何故、自分に向かってエメルは銃を撃ったのか。殺すつもりなら、他に幾らでもチャンスはあった。

 奈地美は警察に何やら聞かれていた。一方の野神は、事件と関係のない、エメルによって傷ついたアザとこぶを治療するため、担架に乗せられて救急車に運び込まれようとしている。

 担架に乗せられた後は、エレベータで階下まで下ろされた。

 救急車に搬送されるまでの間、ずっとエメルと出会って、今までの短いつき合いを思い起こしていた。彼女は悪いヤツだとは思えない、それが野神の結論だった。

 野神が犯人とエメルが撃ち合っているフロアに突入する少し前、携帯電話にメッセージが入った。それはハッキングしてきた犯人からのメッセージだった。


(人質は解放する。絶対に、フロアの中には入ってくるな。あの女は、信用するな)


 犯人を信用するわけじゃないが、『あの女』という表現が気になった。

 犯人はエメルの事を知っていたのか? 彼女は犯人の事を知っていたのか?


 救急車に搬送された後は、どうでもよくなった。犯人は死んだ。エメルにも会うことはない。野神には関係のない話だ。

 しかし、大事な事を思い出した。MIAの機密データはMPODの方に入っていて、まだ自分が持っているのだ、ということを。

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