第10話 決着

 空を舞う鳥の、その羽を羽ばたかせる筋肉の微細な動き、羽のなびきが伝わってゆく様をはっきりと目で追えるようになった日の事はよく覚えている。

 今では誰もが高性能カメラのスローモーション機能でそれを見る事ができる。携帯電話でもそういった機能がついているものもある。

 あの女はそれを『魔法』と呼んだ。なら、今は誰もが魔法使いの時代だな、とエメルは思う。


 エメルは4Fメンズファッションフロアに飛び込んだ。瞳に力を込めた。そして、力を解放するように眼を見開く。

 入って、右手のショップとショップを隔てるパーティションから発砲音が聞こえる前に、目をそちらへと向けていた。ベレッタを握った手も同時に動いていた。小さな円柱状の金属片がゆっくりと回転しながら、真っ直ぐエメルに迫ってくるのが解る。


 エメルの意識はハッキリと、今起こっている現象を捉えているが、体は今、働いている思考の何千分の一にも満たないほど、スローモーションのような動きで飛んでくる金属片めがけて銃を構え、引き金を引こうとしている。回転する金属片、つまり銃弾がエメルに到達するほうが早いと判断した彼女は、膝の力を抜き、重力に身を任せた。上体が後方へと傾き、体が静かに、フロアの床へと落ちていく。


 彼女の長い髪が空をたなびき、美しい艶のある髪の流れが詳細にエメルの瞳に映っている。彼女の髪の波から長方形のロケットのような形の銃弾が現れた。頭の上をスローモーションで進んでいく。敵の銃撃はやり過ごした。エメルは瞳の力を抜いた。目に映る全ての動きが急激に加速していくように映った。感覚が元に戻ったのだ。

 

 エメルはパーティションめがけてベレッタの引き金を引いた。手応えはない。エメルは背中から床へ、倒れ込んだ。直ぐ左にあったマネキンに敵の弾丸が刺さり、後方へ倒れた。マネキンの頭部が床に激突し、激しい音をたてた。

  

 エメルは太股に力を込め、上体を跳ね上げ、立ち上がった。正面5mほど先に見える、ある有名ブランド店のカウンターの中へ滑り込んだ。その間、二秒たらずの事だった。彼女の呼吸は平常で、激しい動きをした人間にはありえない落ち着きを保っている。


 今のは危なかったと、内心肝をつぶしていた。

 魔法がなければ、入ってきた時に頭部に銃弾が当たり、死んでいた。人体改造の魔法。五感と肉体を強化し、その働きを異常なまでに跳ね上げる。強化を制御出来るのは一度に二つだけだった。それ以上の強化は、脳や体に痛みを伴う。それが魔法の限界を告げる信号だった。


 先ほどは、目の感覚と手だけを強化した。高性能カメラのような視野は全ての動きを微細に捉えるが、見えているだけだ。体を対応させようと思ったら、体も強化しなければならないが、片手、それも手首から先だけだったり、足首から下だったり、感覚と併用する際、肉体強化は非常に限定的になる。


 エメルは視覚と手の強化のセットをよく使う。目に映る全ての動きは緩慢、それらを正確、精緻に捉え、目標に向けて最速の指で引き金を引けるからだ。それに加えて、異様な回復力。魔法の力を得て以来、どんな激しい運動もエメルの鉄面皮を破るに至らなかった。


 発砲音が轟いた。すぐ後に、エメルの頭上にあったレジが壊れる金属音が響き、現金を一斉に吐き出した。地上に硬貨の雨が落下し、回転し、滑っていく。硬貨独特の反響音がエメルには耳障りだった。敵は野神の携帯電話を介して、百貨店の警備システムの映像を見ている。頭上のレジを撃ったのは、『見えているぞ』という意志表示に違いなかった。


 弾が飛んできた方向は分かるが、もう移動してるに違いなかった。


 エメルは視覚を強化する、同じ箇所でも力の込め方で、その用途が微妙に変化する。目を細めると、スナイパーライフルのスコープのように遠くの標的も正確に捕らえる事ができた。ベレッタを構え、リアサイトで監視カメラに狙いを定める。ベレッタは火を噴き、監視カメラを破壊した。


 確認できる限りの監視カメラ三台を破壊すると、素早く移動した。一発の銃弾が飛んできたが、目を見開いて視覚強化する事で明後日の方向へゆっくりと飛んでいくのを確認し、別の店舗のカウンターへと無事滑り込む。そして、その角度から見える監視カメラをもう二台破壊するのだった。


 エメルは早く勝負を決めたかった。真正面からの撃ち合いなら、まず負けない自信があった。弾が見える上に、最速で引き金に指をかけられるのだ。負ける理由が無かった。


「おい!」


 フロア中に犯人の声が轟いた。スピーカーを通した割れた声だった。

 これではどこから喋っているのか、解らない。エメルは臭覚を強化し、場所を探ろうとしたが、人間の体臭、革商品や衣服の臭い、血や薬莢の臭いなどが渾然一体となって細かい位置がわからない。臭覚は役に立たなかった。


「きゃあ!!!」


 乱暴に何かを掴んで引きずる音がスピーカーを通して伝わり、その後、女の悲鳴がこだました。


「MIAの女!出てこい。今から五数える内に、出てこないと、この女を殺す」


 敵はエメルがMIA所属の人間だという事を知っている。MIAに脅迫文を寄越してきた人間に間違いない。野神真との会話を彼の携帯電話を介して盗聴している。私が、野神の友人を優先するのを知って人質に取った。

 単独で動いているのには驚いたが、何らかの魔法を頼んでの事かもしれない。警戒していたが、何も特殊な事を仕掛けてくる様子はない。


「5」


 犯人のカウントが始まった。

 エメルが出なければ、野神の友人は殺される。


「4」


 出れば、どこから銃弾が飛んでくるか解らない。


「3」


 人体強化の魔法にも限界がある。幾ら、飛んでくる銃弾をスローモーションで見る事ができても、背中から、見えない所から撃たれたら回避の仕様がない。


「2」


 最後まで諦めずに周辺を探る。完全に気配を殺していて、居場所が把握できない。

 

「1」


 エメルは立ち上がり、名乗りでる事を覚悟した。

 脳や体が悲鳴を上げるのを覚悟で、全ての能力を上げる。

 二秒もあれば終わる。反動でどんな症状がでるかは分からない。


「ここにいるぞ!!」


 立ち上がったエメルが声を上げようとしたその時、別の角度から怒鳴り声が飛んできた。4Fの出入り口に野神が立っていた。

 エメルは即座に頭を切り替えた。ベレッタを構え、引き金に手をかける。そして視力を強化し、眼を大きく見開いた。銃声が鳴った。

 野神めがけて飛んでくる銃弾をエメルは必死で探した。


 どこから飛んでくる。エメルの位置から十一時の方向、パーティションを突き破って銃弾が野神に吸い寄せられるように飛んでいた。エメルは引き金を引いた。エメルの銃口から二発の弾丸が発射された。弾丸が飛び交う中東での任務で何度も、これで仲間を救った。自分の愛銃、ベレッタM9FSセンチュリオンの初速度、角度、クセは熟知している。飛んでくる弾丸のスピード、角度を見極め、真横から当ててはじき返す。ニューナンブなら自信がないが、この銃ならできる確信があった。


 エメルは視覚強化を解除した。下半身の強化へ移行し、弾が飛んできた方向へ駆け出した。野神の目の前で、金属と金属が激しくぶつかり合う音が空気を振るわせた。野神は何が起こっているのか解らなかった。


 エメルは二発目の銃弾を撃ち込もうと野神に銃を構えている男を眼下に捉えていた。男は腰を低く落とし、屈んだ体制だった。面を隠すシールドの付いたヘルメットを被っていた。警官から奪ったものだった。


 男がエメルに気づいた時には遅かった。低い衝撃音と、オレンジの光が瞬くのが男の耳と目に焼き付いた。

 エメルはベレッタの引き金を弾き終わっていた。男のヘルメットの下部、日に焼けた皮膚に三つの穴が空き、血を吹き出してのけぞった。ゆっくりと体が傾き、頭をフロアに打ち付け、そのまま動かなかった。エメルは男の足下で顔を伏せている女に、そのまま顔を上げるなと命令した。女は震えていた。野神真の友人だった。


 エメルは倒れた男の頭からヘルメットを外して放り投げた。露わになった顔は浅黒く、髪が黒く、短い髪があちこちで巻いていた。つり目で、鼻が高く、頬はこけている。分厚い唇の周りをチリチリの髭がまんべんなく覆っていた。アジア人だった。魔女でないのは知っていたが、男の顔に心当たりがなかった。


 MIAの携帯端末で写真を撮り、男の眉間にもう一発弾丸を撃ち込んだ。頭を中心に赤黒い血だまりが床の上を延びていく。エメルは近くにあった、男性モノのアウターが沢山かけてあるハンガーラックをひっくり返し、死体となった犯人を衣類で覆い隠すと、野神の友人に声をかけた。


「もう、大丈夫だ」


 女は呼びかけに応じず、震えて顔を伏せている。

 エメルは嘆息し、銃痕が残るパーティションへ向かって声を張り上げた。


「マコト君! 終わったよ」

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