第5話 彼女は諜報員

目の前に魔女が立っていた。身長百七十五センチである野神の胸元に彼女の顔がある。肩口までのストレートな髪、前髪は眉のすぐ上の高さで切りそろえてある。深く二重のラインが刻まれたほんの少しつり上がった目。鼻筋が通り、天井の光を受けた唇が蠱惑的に思えた。容姿端麗。何より印象的なのが瞳の色で、彼女の瞳は緑色をしていた。日本人であるか判別がつきづらい、どこかエキゾチックで、エスニックな雰囲気を備えている。クールで隙のない表情で野神を見上げていた。


 ポケットに振動するスマホを入れ、逃げようとした。ふいに腕に痛みが走り、野神は膝から崩れ落ちた。後ろから腕を捕まれ、ねじ上げられた体勢になった。抵抗すると骨がこすれるような神経痛がやってくる。背後で顔の見えない女が命令する。


「理由はわかるよな、来い。顔貸してもらうよ」


 野神は背中からの圧力に誘導され、飲食店の雑居ビルとビルとの間にある、人間一人がやっと収まるほどの路地裏に連れて行かれた。背中から突き飛ばされ、膝をついた。すぐ後ろにある換気扇の音と熱とが吐き気を誘う。後ろを振り返ると、出口には女のシルエットがたたずんでいた。背に外光を受けて顔は見えなかったが、緑に輝く虹彩が野神を捕らえていた。そして突き出した右手には拳銃らしきものが握られている。女が口を開いた。


「何度か私の顔を見ていたな。目的はなんだ?」


 野神は何か言おうと思ったが、恐怖で声が出ない。顎とのどの筋肉が固まってしまったかのようだった。野神の顔に堅いものが当たって、勢いで倒れ込んだ。女に蹴り飛ばされたのだ。女は野神の胸ぐらをつかみ、感情を殺した声で囁いた。


「言え。平和な日本じゃ拷問できないとでも思ってるのか?」

「し・・・・・・知ら、なななな」


 意識はあって、知らないと言いたいだけなのに、声にならなかった。

 女が拍子抜けした声で、野神でない誰かに話しかけるように尋ねた。


「様子がおかしい。おい、こいつで間違いないのか?」


 片耳を押さえて喋っている。耳に通信機か何かつけているのだろうか。尚も独り言が続く。


「間抜けヅラのガキにしか見えん。完璧なセキュリティが破られた? この間も一三歳のガキに侵入されたばかりだろ。うん、覗きが趣味の気持ち悪いガキだ、大丈夫だと思う・・・・・・」


 魔女の言葉に苛立ちが募る。彼女の口から淡々とした調子で、気持ち悪いとか、覗きが趣味といった報告がなされている。多少、自覚はあるものの大きく自尊心を傷つけられる思いだ。彼女は顔の見えない相手に向かって、野神を罵り続けていた。彼は耐えきれず、思わず声を上げた。


「おい!」

「なんだ?」

「え? えーと・・・・・・」


 冷静に聞き返されても、否定できる材料は見つからない。全て本当の事だからだ。野神は狼狽えた。女の目が宙を泳いだ。顔はよく見えないがあきれているのが分かる。


「・・・・・・決まりだ。こいつは単なる気色の悪いデバガメだ。奪われた機密情報が入ったデバイスを回収したら見逃していいだろ? 構う時間が無駄だ」


 スマホやMPODを奪われる。それは、駄目だ。大路奈地美と連絡が取れなくなる。彼女に連絡を入れないと、拳銃を持った犯人が現れるターミナルへとやってくる。意地でもスマホは渡すものかと野神は思った。彼女を思うと、体の中からほんの少しの勇気が湧いた。


「おい、人を馬鹿にするのもいい加減にしろ」


 叫んでいた。勇気がまともに口が聞けるよう、恐怖を押さえつけてくれている。


「誰が見ても馬鹿だろう、お前は」

「余所の国で銃盗まれて殺しに使われる方が、よっぽど馬鹿野郎だろうが」


 野神は脛を蹴られ、再び地面へ這い蹲った。


「お前、仲間か? 拳銃持った馬鹿はどこに隠れてる? 言え」

 魔女の言葉に力はなかった。お前じゃないんだろう? と言いたげな調子だった。


「場所は知らない。奪ったファイルにそう書いてあった」

「おい、日本人。つまらない事を知ったな。大方、携帯電話かモバイルPCでハッキングしたんだろ。出せ。命は助けてやる」


 女は野神の頭上へ銃口を擦り付けた。野神も大事な友達の命がかかっている。スマホを奪われると、大路奈地美へ危険を知らせる事ができなくなる。頭の中でスマホを渡さずに済む作戦を考えていた。彼の中に一つの閃きが走った。


「携帯渡して済む話か? もう、どこかにファイルを転送したかもしれないのに?」

「しょーもない事、喋るな。早く携帯出せばいいんだよ」


 面倒くさげに酔っぱらいを相手にする警官のような適当な対応に頭にきた。野神は次の言葉に驚くがいい、と心で笑った。


「ネットの世界は広大だぞ。あるサーバに事件の内容が書かれたファイルを置いてきた。俺が二四時間以内に解除しなければ、自動で世界中に送信する仕組みになってる」


 女の目が見開かれる。効果があったようだ、と野神は思った。女は無言で硬直している。これならスマホを渡しても意味がないだろう。女の耳からかすかに誰かの声がもれ聞こえる。MIAも今の発言で慌てているに違いない、証拠をネットに流されたら困るだろう? 野神は勝ち誇った笑みで女を見上げた。女は苦笑した。


「やっぱり、馬鹿だった」


 野神は何か堅いもので頭を思いっきり殴られた。それが拳銃のグリップであることは野神には分からなかった。予想外の攻撃に頭が動転している。


「駆け引きのつもりか? 二四時間も相手に猶予を与えてどうする。お前、そんなに拷問好きか? Mなのか?」

 魔女は苛立ち混じりにそう吐き捨てた。その後、彼女は通信機と何かを言い争っていた。

「ちょっと、電源落とすからな。あとは、任せろ。心配するな、こいつは無関係の民間人だ。じゃーな!」


 魔女は耳から、何かの機械を取り外すと、ジャケットのポケットに押し込んだ。彼女は野神を睨みつけていた。握りしめた拳がぶるぶると震えている。


「お前なぁ! 変に証拠を別に置いたなんて言えば、MIAはお前を解放できなくなるだろう! さっさと、出すもん出せば拘束も、痛い目にも合わずに済むんだよ! せっかく、人がお前を無能扱いして、警戒を解いてやってるのに! 何のために、日本語でやりとりしたと思ってる。分かるだろ、私の意図してる事ぐらい。合わせろ!」


 魔女は野神に詰め寄り抗議した。頭上の曇りガラスから漏れる光が、薄暗い路地の中にいる二人の姿を照らした。彼女の緑色の瞳が潤んでいるように見えた。辺りは食器を洗う音と、換気扇が回る音で騒がしかった。


「スマホは渡せない。大事な友達とターミナルで待ち合わせしてるんだ。データをちょっと見たけど、拳銃を持った誰かが来るんだろう? 連絡してやらないと事件に巻き込まれるかもしれない」


「早く言え! 仲間が聞いてしまった。もう、お前を返せないじゃないか。サーバに細工したのは嘘だろうが、尋問と男の体が大好きな同僚にお前の事は任せる。マッチョの色男にな」


 心無しか声が弾んでいるように思えた。野神は心の底から震え上がったが、そんな彼を見て口端を釣り上げ、潤いを湛えた緑の瞳を細めた。初めて彼女を見た時に向けられていた目だ、と思った。まるで久しぶりに友人と出会ったかのような表情をしていた。しかし、かけられる言葉は乱暴だった。野神は当惑した。

 野神は首ねっこを捕まれた。必死の抵抗で逃れようとするが、彼女の細くしなやかな指からは想像もつかない力強い握力を解く事はできなかった。何故か魔女は突然、背後を振り返った。

 

 どこか遠くで女性の悲鳴が飛んだ。何十人もの悲鳴が折り重なって聞こえた。車が急ブレーキを踏み込み路面を滑る音、複数台によるクラクションの連打。車同士が衝突し、ひしゃげる音。その耳障りな全ての音が異常事態の到来を告げている。

 もはや、魔女は野神の顔をまともに見ていなかった。肩越しに背後を凝視していた。彼女のジャケットからノイズ混じりの音声が漏れている。彼女は機械を取り出し、耳に取り付けた。


 魔女の興味は野神から外界の異端事象へと移っていた。掴まれていた襟首の力が抜けていく。緑目の魔女は通信相手に何かを早口で告げながら、強風を舞う雪の中へと消えていった。MIAの魔女がターミナルにいる理由。何らかの形で同じ事件が起きるという犯行予告があった。他に、彼女の仲間がターミナルにいるに違いない。


 野神は一人、呆然と闇の中で耳をすまして外界の変化の行方を追っていた。ぱぁんと乾いた破裂音が轟いた。音は上へ上へと駆け抜け、空に溶けていくような余韻を耳に残した。恐怖に喚起された悲鳴の数が地上を揺らした。


 発砲音は割と近くから起こったように思える。ここから目と鼻の先で起こった悲鳴と、事故った車の衝撃音で判断できる。銃を持った犯人がこの近くにいる。

 早くここから離れなくてはならない。大路奈地美は異変に気づき、逃げただろうか。

 周辺の店の入り口が荒々しく開け放たれる音がした。人々がどこかへかけてゆく様が路地裏から見える。野神は魔女に蹴り飛ばされた膝や、殴られた頭の痛みに呻きながら駆け出した。


ポケットの中でスマホが振動を続けている。魔女はまだこの辺にいるのか。早くなんとかしろ、お前等のせいだろう。野神は心の中で毒づいていた。

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