目覚めの紅茶を貴方と。
芹澤©️
目覚めの紅茶を貴方と。
私の私室にどかどかと乱暴に入り込み、眉間の皺を深くしているこの目の前の男は、朝も早よから元気に私に立腹している。怒るというのは、とても気力が要る行為だと私は思う。なので、出来れば普段から人に怒ってその労力を使おうとは思わない。特に朝からなんて。
とは思っていても、私とこの男は性格も違うし、体力も違う。なんなら、性別が違うのだから、朝から機嫌が悪かろうと私と違って疲れ知らずなのだろう。羨ましがれば良いのか、呆れたら良いのかは分からないけれど。
「いつまで寝ているつもりだ! もう朝食の時間だぞ、ったく、待たせやがって……」
かっかとご立腹中のこの男を、私は半目で見てしまう。正直朝食は果物のジュースで済ませても良いくらい、私は朝に弱い。それに、そんな怒っている人と食事したくない。不味くなっちゃうじゃないの。そんな私の我が儘は通る筈も無いのは分かりきっているのだけど。
「……なら、先に食べれば良いでしょう? 昨日は少し読み物をして遅かったの。私など待たずに、ベルは先に済ませて食べたら良かったのに……。お腹が空いてるから、そんなにカリカリするんだわ」
そう言うと、ベルことベルトードは深い溜息を吐いた。もう、朝からやんなっちゃう。
そもそも、何で私が読み物をしていたのかって言うのも、この男のせいなのだ。こいつ、こいつのせいで……。
ベルトード・アーディス・エルドレウス辺境伯。
国の境目にある結構重要な位置の領主である。
ちょっと肩に掛かる長めの黒髪に切れ長の瞳は黒目。長身に広い肩幅に程よく付いた筋肉。好戦的で、そこが野性味があるから良いなんて市井では人気があるみたいだけど、是非とも私の立場と変わって貰いたい。
大体、妻の寝室に朝から立ち入るなら、お茶を淹れてくれるのが新婚の常ってものじゃないのかしら? それを、朝っぱらから怒鳴り散らすとか本当、私結婚に失敗したと思う。
私の家は吹けば飛ぶような細々とした男爵家で、辛うじて領地はあるものの田舎の貴族の堂に行った様な、平民と大差無い……そんな家。ベルトードを産んだオランジェ様が産後の肥立ちが悪く、たまたま近い日に私を産んでいた母さんが、たまたま領地も近くて交流があったからと出稼ぎの為に乳母にと、エルドレウス家に住み込みで入ったのが縁だった。本来なら、同格の伯爵家とか、良くて子爵家とか娶れば済む話しなのに、何故か嫁を幼馴染の私にしたものだから、色々大変なのだ。主に私が。
「……どうせ、化粧してもしなくても変わらないんだから、着替えたら直ぐに食堂へ来いよ。家族は飯を一緒に食べるものだ。ミレーヌおばさんの教えだろうが」
まー酷い。この男、あのお優しい御両親から生まれたとか信じられない。いくら王都から遠く離れた地方で、かなりの田舎だからってこの言葉使い。全っ然直らないんだから。聞いててイライラするわ。
「そんなの気にしないで先に食べれば良いって言ってるのに。女性の支度は長いんだから、これから毎日イライラするつもり? 」
「なら、さっさと起きろよ。俺はこの教わった基本を止めるつもりは無い」
そう言って、奴は部屋を後にした。あーもう面倒だわ。母さん、教えは間違いないとは思うけど、優しさが一番大切だってもっとちゃんと切実に奴に教えて欲しかったわ……私実家に帰りたいです。……これで結婚して三日目の夫婦が迎える朝のやりとりとか信じられない。
渋々立ち上がる私に、待機していた侍女が準備の為に服を脱がせてくれる。これも慣れない。助けて、母さん。
私と母さんは結局、母乳提供要員として一年お邪魔する筈が、元々体の弱かったオランジェ様を母さんが放っておけず、その後通いで週の半分はベルトードの世話兼話し相手としてその後十数年も通っていたものだから、私達は最早姉弟の感覚なのだ。だから、結婚したのに初夜も無ければ、何にも無い。ただの何も。部屋も別だし。
私、貧乏でも良いから、もっと愛ある夫婦生活したかった……。
ぼんやり考えていると、支度が終わったらしい。鏡には、金の髪をハーフアップにした、明るい茶色の瞳の女性が見つめている。特に何の変哲も無い、この国の一般的な配色の髪と目。確かに、化粧しても変わり映えしないかも知れないけれど、それをそのまま言うなんてちょっと……いやかなり酷いんじゃないかしら?
とは言え準備出来てしまったのだから仕方ない。私は重い足取りで、食堂へと向かった。
食堂では、食事に手も付けずにベルトードが待っていた。食べれば良いのに…。本来なら、テーブルに向かい合う形で端と端に席に着く筈なのに、私は奴の横の席に通された。
「……思ってたんだけど、この席おかしくないかしら? 」
屋敷に来てからずっとこの席なのだ。やけに近いと思う。
「……このテーブル見て言ってるのか? 端と端なんて声が聞こえないだろ。聞き返すなんて二度手間しながら話すのか、面倒臭い」
この食堂は普段使い様で小さめなのだけど、それでも我が家よりも広いし、テーブルだって長い。そんな不機嫌そうな顔を近距離で見て食べるよりも、私は遠目で良いのに。
「……分かったわ。もう、ベルはいつも怒ってるんだから」
「ならさっさと支度して部屋から出て来い」
言われて少しむっとしながらも、椅子を引かれ席に着く。目の前には、パンと茹で卵にサラダ。席に着いてから、温かい野菜のスープが運ばれて来た。うう、多いわ……今日も。私の尻込みした雰囲気を察したのか、ベルトードはじろりと睨んで来る。いえ、本人的には睨んでないのかも知れないけど、この男は目付きが悪いのだ。何もしてなくても怒っている様に見えてしまう。だから、本当に怒ってる時の顔は至近距離で見たくない。何よりも怖いから。
「残すなよ? 」
「……分かってるわよ」
「お前はそんなだから痩せっぽちなんだよ。俺がまともに食べさせてないとか思われるだろうが。もっと太れ」
女性に太れとか……この男何の教育を経てこんなになってしまったの? ううん、小さい頃から悪ガキだったわね。虫投げて来るとか、池に落とすとか、近所の悪ガキと結託して追っかけて来るとか……深窓の御令嬢なら、絶縁してるところよ。あ、だから……結婚してくれる人が居なくて?! それで仕方なく私にしたのかしら、この男。全く、失礼しちゃう。
「何だ? 」
「別に、何も」
こんな事考えてるのがバレたらまた面倒な事になってしまうに決まってる。そう思って、私はスープを口にした。
そもそも、寝坊の原因は私なんかが伯爵夫人になっちゃったりしたから、勉強不足を補う為にとこっそり自習しているからなのだ。大体、結婚が決まってからたった半年でこの屋敷に来る事になってしまって何もかもが追い付いていないのに、優しくない夫と過ごして行くなんて……人生ってままならないわ。
「……良い加減にしろよ、お前」
そう言って、相も変わらずベルトードは不機嫌そうに私を見下ろしている。そんなの知らないとばかりに目も合わせず、私は鏡を見続けて答えた。
「何かしら? 」
「何で今日のドレスはそっちにしたんだよ。お前はピンクの方が肌に合うんだから、俺の用意した中であったろ、金の装飾の。それを着ろ」
まあーー!! なんて俺様なのかしら?! そもそも、女性の支度中に部屋に乱入して来るなんて、紳士……いえ、男の風上にも置けない奴!
「だって私は二十歳だもの。一応は既婚者なのだし、昼の会場でピンクは若すぎると思うのよ。しかも今日の侯爵様の愛娘のティモシーネ様はピンクがお好きらしいとの噂なの。かち合ったら大変でしょう? 」
そう言う私は、今日は薄い水色のボリュームを抑えたドレスにした。落ち着いていて、大人っぽく見える……と思う。若くても伯爵夫人なのだから、きちんとしないと。このドレスだって結婚する時にベルトードが揃えたドレスの内の一着だもの。顔は潰して無い筈だし。
「一応はって何だよ。そうか、分かった」
そう言うと、奴は部屋から出て行った。全く、これが結婚してから一カ月の夫婦の会話なのかしら? と言うか、化粧してもしなくても変わり映えしないとか言う癖に、ドレスは指定して来るとか訳が分からないわ。
今日は私達の結婚式に顔を出して頂いた侯爵様の御令嬢の誕生会なのだ。結婚式のお礼と、夫婦仲良しですアピールの為に着飾って参加しなければいけないのだけれど、主役と色が被っては失礼だものね。と言うか、前々から聞いておくものじゃないの? どれだけ妻に興味無いのかしら、あの男。
そうやって若干ムカムカしながら支度を終えて、玄関へと続くスロープを降りながら…私は驚いた。
「……態々着替えたの? 」
玄関で待ち構えていたベルトードは、正装の色を変えていたのだ。さっき部屋に突入して来た時は黒地のコートに中は黄味が強めのクリーム色のベストだったのに、今は鮮やかな青地の正装に着替えていた。襟や裾の装飾は、今日の私のドレスと同じ色が入っている。
「……新婚夫婦の衣装がちぐはぐも無いだろうが。お前のドレスを揃えた時に俺のも揃え直したから、当分困る事は無い」
「……まあ、用意周到ですこと」
「ただでさえ結婚式の準備で日を取られたんだ。どうせ用意するんだ、後からちまちま作るより、ある程度のものは揃えておいて損は無いだろう。女の流行りは知らんが」
「ええ、ベルは分からないでしょうね」
「何か言ったか? 」
「いいえ? どれも基本的な型だから、後は宝飾品で印象は変えられるわ。色々ありがとう、ベル。大変だったでしょう? 」
「……別に。ほら、お前が遅いから遅刻しそうだ。行くぞ」
まあーー! 女性のせいにして! せっかくお礼を言ったのに、損した気分だわ。しかも、着飾った妻を褒めもしないとか、何なのこの男! 例え愛の無い生活だとしても、お世辞くらい言うものじゃない? 酷いわ。今日はお義父様とお義母様もいらっしゃるから、ちょっと告げ口してやろうかしら??
馬車の中でそう会話が弾む事も無く、私達はパーティ会場へと向かったのだった。
パーティ会場では侯爵様と御令嬢に滞りなく挨拶をして、沢山の人混みの中、お義父様とお義母様の元へ私達は向かった。小柄で金の髪を見事に結い上げたお義母様と、背が高く後ろに纏めた焦げ茶色の髪と立派な髭が印象的なお義父様は、此方を見るとにっこりと微笑んでくれた。
「まあ、まあ、まあ! とても似合ってますよ、そのドレス。ベルトードが用意したの? 本当に? 」
「はい。他にも沢山のドレスを用意して下さいました。全て袖を通せるか不安なくらいです」
「まあ〜。へえ〜? あのベルトードが、ねえ〜? あなた? 」
「うむ。結婚式の用意は全て自分でやると聞かなかったから、私達二人は心配していたのだが……この分なら生活に問題は無さそうだね」
そんな事は無いのですが……やっぱり心配かける事は言わない方が良いみたいね。態々心配させる訳にもいかないし、ここは曖昧に微笑んでおきましょう。
「ベルトードは昔から素直ではありませんでしたからね、貴女に迷惑をかけているんじゃないかと気が気じゃ無かったんですの。話しを聞けて良かったわ」
「…母さん? ちょっと、」
「まあまあ、今度はこっちの領地に新婚旅行にでも遊びにおいで。海が近くて景色が良いから、きっと気に入るよ」
「はい、ありがとうございます。是非お伺いしたいですわ」
ベルトードは昔から素直じゃない……ねぇ。ある意味素直に私をいじめていた気がするのだけれど。親の欲目という奴なのかしらね。ああ、御両親はこんなに素敵な方々だというのに……。なんで奴はちょっと不機嫌そうになってるのかしら? 本当、これで素直……ちょっと違うかしらね?
暫く会話した後、御両親と別れてベルトードと共に挨拶回りをしていたのだけど、少し疲れて私は休む事にした。ベルトードと言えば、また顔見知りに会って直ぐに戻ると言い残して行ってしまった。でも長引きそうだし、出来れば何処かに座りたい。庭園で開催されたこの誕生会は東屋やベンチもあるとはいえ、何処も満杯なのだ。座れる所を探していると、見知った顔を見つけた。
「やあ、ご機嫌よう。久しぶりですね、元気にしていましたか? 」
「まあ、アンソニー様。ご機嫌麗しゅうございます。お陰様で元気ですわ。そちらは? 」
「ああ、私も相変わらずですね。……なんだか凄く綺麗になりましたね。見違えました」
「まあ、ふふふっお世辞でも嬉しいですわ」
久しぶりに殿方からお世辞でも褒めて貰えたわ。全く女性扱いされていないものだから、ちょっと嬉しくて顔が赤くなりそうよ。
アンソニー様は私の元婚約者だ。子爵家の次男で、王城の文官をされている。婚約期間中は月に一度お会い出来るかどうかだったけれど、穏やかで優しい方だったので、関係は良好だった。でも、アンソニー様にとってもっと良い縁談が舞い込んでしまって、破談になってしまったのよね。違約金を頂いたし、さして気にはしてないのだけど。
「あれから如何でした? もう結婚はなさってまして? 」
そう言うと、アンソニー様は少し複雑そうな、困った様な表情になった。何か上手く行ってないのかしら?
「う……ん。まあ、ちょっと今はまだ婚約期間中と言いますか……」
「そうでしたの……。色々ありますものね。どうか、お気を落とさずに」
「……ありがとう」
そう言って微笑む顔に懐かしさが込み上げて、私の胸を少しだけきゅっと掴んだ。
「……何をしている」
あら、怖い。嫌だわ、もう戻って来たみたい。振り向けば、ベルトードが……ちょっと怒った顔で佇んでいた。この表情の違いが分かるのは御両親と、屋敷に長らく勤めている者数人と、私ぐらいかしら?
「ご挨拶しておりましたのよ。ベルトード、こちらマルテッド子爵家のアンソニー様。アンソニー様、こちら私の夫のベルトードと申します」
「……どうも」
「……これは御機嫌よう。以後お見知り置きを、伯爵どの。申し訳ないですが、私はこれで。そうだ、遅くなりましたが、ご結婚おめでとう。それじゃ、またの機会に」
「はい、ご機嫌よう」
そう私が挨拶した後、ベルトードが私の手首を掴んで足早に庭園を横切り…私は庭園の奥まった人気の無い生け垣の間に連れて来られた。何だかいつにも増して怒っているみたいなのだけど。同じ場所で待っていなかったのが悪かったかしら?
「本当、良い加減にしろよ、お前」
「何をそんなに怒っているのか分からないわ。ベルトード、今は大事なお祝いの席なのよ、落ち着いて下さいませんと」
怖い。これは結構怒っている顔だわ。怒り顔が通常なのに、まだ段階を踏めるなんてある意味凄いわね。
「……お前は俺の妻だな? 何故元婚約者と気安く話しをしている? 」
「こんな風に詰め寄るのがベルの言う妻への扱いなのかは甚だ疑問だけれど、一応妻でしょう? それに、挨拶ぐらいするわよ、もう済んだ話だもの。と言うか、私アンソニー様が婚約者だったと貴方に伝えたかしら? 知ってたの? 」
「……」
そんなじっと睨まれても……。本当に珍しい黒い瞳だこと。何代か前のご先祖様が黒髪黒目だったらしいから、ベルがそうでもおかしくはないけれど、隣国でも珍しいでしょうし、もっと遠い所の姫君だったのかも知れないわね。御両親も綺麗なお顔立ちだけど、すっと入った鼻筋がちょっと違うものね。まあ、女性から黄色い声が上がるのも……悔しいけれど分かる気がするわね。
「……挨拶は粗方ついたし、帰るか。今日は気が削がれた」
「あら、ではまたお義父様とお義母様にご挨拶しないと。侯爵様にも。行きましょうか、ベル」
「ん」
「今度は優しく掴んでね? さっき掴まれた手首がちょっと痛いから」
そう言うと、ベルトードは私の手袋を乱暴に下げて、手首を観察し始めた。
「あのぐらいでこんなに赤くなるのか……」
「まあ、時間が経てば治るでしょう。さ、優しく、でお願いよ? 」
ベルトードはちょっと恐る恐るといった様子で、私の手を引いた。もう、全く乱暴なんだから。まだお互い二十歳だけど、ベルトードの方が遥かに子供だと思う。確かに、飛び地に隠居した御両親に変わって色々頑張っているけど、女性の扱いってのがなってないのよね。
「お前、転んだだけで骨が折れるんじゃないか? もっと飯を食え。怖くて腕も掴めん」
「怖いなんて、領主ともあろう男の言葉とは思えないわ。女性は皮膚も男性より弱いし、力も圧倒的に弱い。ベルが気をつければ良いのよ」
「……ふん」
どうやら納得してないみたいね。鍛えれば全て賄えると思っていそうだわ。…その内鍛えろなんて言いださないでしょうね?断固拒否だわ。そうでなくとも、子供の頃ベルトードに死ぬ程追い掛けられて、運動なんて大嫌いになったのに。
「……」
すっかり黙ってしまったけど、まさか本気で鍛えろなんて思っていないでしょうね?帰りの道中も私は内心ハラハラしながら馬車に揺られていたのだけれど、ベルトードはその日寝る挨拶以外口にすることは無かった。
「……もっと嬉しそうにしたらどうなんだ」
そう言って仏頂面を隠しもせず私を責めるベルトードに、私はそっぽを向いた。
今私達はエルドレウス家の所有する飛び地、この国の端の海へと向かう馬車の中に居た。御両親に会いに行くついでの新婚旅行らしい。誕生会に出席した次の日、決定事項としていきなり告げられたのだ。どうやら、帰りに黙っていたのはこの旅行を考えていたからなのかも知れない。もう半日程揺られ、私は少し疲れている。疲れているけど、何となくこの男の前で寝れないのだ。まさか、私がベルトードを意識して眠れないなんて、自分でも今の状況に驚いている。
「ほら、この森を抜ければ海が見える。お前、海は初めてなんだろう?だから、子供みたいに興奮して寝れずにそんな疲れきった顔をしてるんだ」
その言葉にじとっと奴を睨んでみるけど、これが効果があった試しは今の所無いので、私は小さく溜息を吐いた。
「そんな子供じゃないわ。そりゃ、ちょっと疲れてはいるけれど……」
「……そうか、なら、ん」
そう言いながら、ベルトードは自身の膝をぽんぽんと叩いた。
「……何? 」
「初めての長旅で疲れたんだろう?ほら、こっちに来て寝れば良い」
そう言って、またぽんぽんと膝を叩く。…それが既に子供扱いだと思うのだけど、私の勘違いなのかしら?
「……嫌よ、恥ずかしいもの……」
手を繋いだ事は数度あれど、そんな、いきなり膝に寝転がるなんて出来るわけないじゃないの。なんなのこの男、疲れて頭がおかしくなったのかしら?
「なら、俺が其方へ行くから良い」
私はぎょっとして、危うく立ち上がりかけた。どうしたと言うのだろう? 普段会話は有っても触れ合いなんて持ちたがらない癖に!
「だから、良いって言ってるのに、」
私の言葉は無視され、ベルトードはすっと席を移動すると、無理矢理私の隣にどっかりと座った。本当に、俺様だわ。なんで、どうしてこういう風に育ってしまったの?紳士教育はされていた筈よね? まさか、武術だけ学んで来た訳じゃないわよね?
「きゃっ」
奴は思考に浸っていた私の肩を乱暴に引き寄せ、非力な私はあっという間にベルトードの膝の上に倒れた。……屈辱だわ。この有無を言わさない行動。そりゃあ、私だって淑女らしいかと言われれば疑問だけど、日々勉強してるのだから、ベルトードもそれ相応の扱いをしてくれても良いじゃないの。あら、そう思うとなんだか悔し涙が……
「……お前は細い上に勉強のし過ぎだ。昨日も、俺の親に会うから大方マナー本でも読み漁ってたんだろ?良いから休め。海が見えたら起こしてやる」
知っていたの?!
こっそりしていたつもりだったのに、ベルトードに知られていた事がとても恥ずかしい。顔は赤くなっていないかしら?ベルトードは……と、ちらりと伺うと、肘掛けに肘を付いて、手で口許を覆っていて今は表情は分からないけれど、視線は窓の外へ向かっていたので、ほっとした。
公の場で伯爵夫人足る振る舞いをベルトードの前で披露する為だけに勉強しているなんて、口が裂けても言えないもの。それより、何でバレたのかしら? 本はこっそり読んでいたのに……。
「ねぇ、ベル……どうして、」
「しっ!」
窓の外へ向けていた眼差しが、鋭くなる。余りの迫力に、私は慌てて起き上がった。けど、直ぐに肩を押されて屈まされた。
「……賊だ。良いか、俺が良いと言うまで顔を上げるな」
賊?! そんな、護衛は少数しか連れて来ていないのに! 一体どの位の規模が? 戦力は足りているの? 駄目、怖くて、急に体が寒く感じてしまう。
「あの、ベル……」
「お前は賢い女だ。俺の言う事が聞けるな?良いか、絶対に顔を上げるなよ! 」
そう言って、ベルトードは馬車の外へ飛び出して行ってしまった。途端に怒号と金属音、馬の嘶きが聞こえて、私は身を小さくして恐怖に耐えた。ベルトードは辺境伯らしく戦に慣れているし、鍛錬だって怠らない。負ける訳ない。そう思っても、外の音は不気味な程大きく聞こえて、私の心を不安にさせる。
もし、あの男が死んでしまったらどうしよう?!
まだ勉強の成果だって満足に見せてないし、そもそも夫婦らしくもまだしていないし、あいつなんて何時も怒っているし、笑わないし、俺様だし、私の話し聞いてないし、それにそれに……
本当はさっき、膝枕をしていた時薄っすら微笑んでいたの、分かってるんだから。出会って20年。私の観察力を舐めないで欲しいわ!
恐る恐る窓から外を覗けば、粗方片付いたのか倒れている人達。その直ぐ後にベルトードの後ろからジリジリと近付く不穏な動きの男が見えた。
「ベルトードっ! 」
私は思わず馬車の扉を開け放ち、ベルトードに向かって走っていた。
「っ?! シルフィっ出て来るなと! 」
必死の形相のベルトードが目の前に見えた。ああ、愛称を呼ばれたのはいつ振りだろう?あれは、確か…
『俺、ちゃんと領主として勉強するから、そしたらシルフィ、俺と……その……』
まだあどけなさが残るベルトードの顔が浮かんだ。あの後の言葉は、何て続いたのだったか……。
「シルフィ?! シルベーヌっ!! 」
賊が振り上げた刃が光って、振り下ろされる。私はそのまま意識を失った。
「本当、良い加減にしろよ、お前……っ!! 」
目が覚めた私を待ち構えていたのは、ぐしゃぐしゃに崩した顔を私に擦り付けて来るベルトードだった。顔が涙でしっとりしているから、正直な所止めて欲しい。
どうやら、私は3日程意識不明だったらしい。怪我は腕をほんのちょっと切っただけだったけど、寝不足と疲れと極度の緊張が私を昏倒させたらしい。お医者様の説明中も、ベルトードが引っ付いて離れないから、聞くのに大変苦労した。と言うか、私に引っ付いているこれはベルトードなのかしら? そっくりさんか影武者? こんな姿は初めて見るわよ??
「俺の言う事を聞けと言っただろう! 何故出て来た! お前、お前は只でさえか細いって言うのにっ」
「……夫の盾になる事ぐらい、やってみせるわよ。私は一応貴方の妻だもの」
「…馬鹿かお前はっ! 馬鹿だ、大馬鹿者だ! 」
「まあまあ、その位で止めてあげたら如何です。シルベーヌさんも目覚めたばかりでお疲れでしょうし」
そう言えば、何故アンソニー様が部屋の片隅にいらっしゃるのかしら? ここは……多分御両親のお屋敷かしら?それにしたって女性の部屋に……ベルトードの迫力が凄いから、聞くに聞けなかったのだけど。
「あの、何故アンソニー様が此方に……? 」
「ああ、何やら賊は私の差し金だろうと物凄い剣幕で我が屋敷にいらしてね? 」
「ええと、誰が……」
「貴女の最愛の旦那さんが? 」
そう言って、アンソニー様は何やら思い出したのか、くすくすと一人で笑っている。
「それで、何故アンソニー様が? 」
「私と貴方の婚約が、其方の旦那さんによって白紙に戻されたのを根に持って?とか言われたけれど……ねぇ? 」
ねぇ?と言われても……。一体何の話しなのかしら?白紙に戻したのがベルトード? 何故、彼がそんな事を……。
「ベル、何の話しなの? 」
「………」
ベルトードは抱き付いたまま、こっちを見ようともしない。
「まあ、私と貴女とは正式に手続きも終えてますし、エルドレウス家から紹介された婚約話しは本当に有難かったですし、今婚約が長引いているのは婚約者がドレスのデザインに迷っているだけで、私が何かする訳無いのですが…いや、シルベーヌさん。貴女怖い位愛されてますよ? 」
「……ベル? 」
何やら合致しない話しばかりで、私は恐らく硬い表情で抱き付いている背中を睨んだ。名を呼んだ声は恐りを含んで思っていたよりも部屋の中で響いた。
「マルテッドどの、本当に貴殿には失礼な事をした。今後お互いの領地にとってより良い話しも出来た事だし、妻は疲れている様だ。さ、またサロンへとご案内しようか。シルベーヌ、ゆっくりと休んだら良い」
がばっと起きて私の顔を見もせずに、ベルトードは扉へと踵を返した。私の静止虚しく、男2人は部屋から出て行ってしまった。伸ばした手は、掴む者も無くそのまま毛布の上にぽてりと力無げに落ちた。半ば放心しながら、私は閉じられた扉を見つめていた。
……ベルトードが、私の婚約を邪魔した? それで直ぐに私と婚約して半年で結婚? 資産も無ければ、過去婚約解消した事もある、こんな不良債権な嫁を何故好き好んで娶るのか。正気の沙汰とは思えないわ。
なんて考えていると、倒れる前に思い出せなかった記憶が頭に浮かんだ。
『……そしたら、俺の嫁に来いよ! 約束だぞ?! 』
あ、あれは……大きくなってエルドレウス家にお邪魔しなくなる前の話しだわ。私、私は何て言ったのかしら?
『無理よ。私男爵家だもの。ベルはベルの相応しいお嫁さんを貰って、この家を守らないといけないって母さんが言ってたわ。私も、私にそれなりに相応しい人と結婚するんだって』
我ながら可愛くない台詞……。ベルったら涙目だったわね。あの頃は憎らしいけど、まだ可愛らしかったのに……。
『……シルフィは俺の事好きじゃないのかっ?! 』
『だって、ベルったら何時も意地悪するんだもん。どうしても困ったら、お嫁に来てあげても良いけど、きっと無理だと思うわ。ベルも他に美人を見たら考えが変わる筈よ。』
『……もう良い!! シルフィなんて知らないからな! 二度と会えなくっても後悔するなよ!! 』
『そうなの? まあ、ベルもこれから忙しいものね。じゃあ、会えなくなるけど、体には気をつけなきゃ駄目だよ? 』
『っ良い加減にしろよ! シルフィの馬鹿! ばーか! 』
……これが成人前のやり取りとか頭痛がするわね……。私…どれだけ頑なで意地っ張りなの?あの時、私どんな顔をしていたのかしら……きっと碌な顔して無いわね。でも、仕方無いじゃない。家格が違い過ぎるんだもの。そう言い聞かされて来たんだもの。
でも、私は今現在紛う事なくベルトードの妻なのだ。
「……本当、良い加減にしないといけないんだわ」
独り言を呟いて頭を抱えたその直ぐ後に、ノックと共にベルトードが部屋へと入って来た。その顔は、何処か仏頂面の様な、照れている様な。心配して来たのだろうけど、そっぽを向いてるなんて、本当にこの男は……。ううん、私の方が改めないといけないものね。
「……直ぐに一人にして悪かった。どうだ、具合の方は? 」
「ベル……私……」
「ん? なんだ、どうしたっ? 」
慌てて駆け寄るベルトードの手を、私はそっと自分の両手で包んだ。緊張で力が入り過ぎたかも知れない。
「私、案外貴方を愛しているんだと思って」
少し恥ずかしいけれど、一大決心でそう言ってみれば、ベルトードははくはくと口を動かしながら、驚いた表情で私を見ている。
「な、どうした?! 熱でもあるのか?? 」
そう言って私の手を振りほどいたと思えば、私の額に手を当ててみたり、頬を両手で挟んでみたりするベルトードに、私は半目になってしまう。
「何よ。そんなに驚かなくても、」
「そんなの、今更だろ?! 」
……思っていた返答と違うんだけれど。どれが今更なの?私達、結婚してからのこの2ヶ月は結構冷えた仲だったと記憶しているのだけど。
「愛してなきゃ暴漢の前に身を挺して飛び出して来る奴がいるか? 毎日遅くまで伯爵夫人足るべく勉強するか?それとなく俺の両親に俺の事を褒めるか? 誕生会の主催者の好みを調べて、失礼の無い様に用意するか?俺に丸投げしたって良いのを、そうやって陰で頑張って、それを愛していない男の為に全てやるのか、お前は? 」
「……あの、」
「なんだ? 」
「恥ずかしいので、実家に帰っても良いかしら? 」
「はあ? 」
こう、つらつらと淀み無く説明されると、なんだか私ばかり結婚生活を張り切っていたみたいで滑稽じゃないの。
「それに、アンソニー様はああ言っていたけど、私、ベルからそれらしい事聞いた事が無いし……」
「お前は綺麗だと褒めただろう? 」
覚えが無い言葉に、私は首を傾げた。
「……お前は元が良いから、化粧しなくても、その……」
「ああ、あの化粧してもしなくても変わらないって言葉?どうやっても大差ないって言われたのかと……」
「……お前は色白だから、淡いピンク色が似合うと……」
「あ、それは純粋に気付かなかったわ。そうだったのね」
「…………」
黙ってしまったわね。だって褒めていたなんて気付かなかったんだもの。回りくどいと言うか、褒めている内に入らないと言うか……。
「……好きでも無い女とこんな急いで結婚したりしない」
「しかも、人の縁談に介入してまで? 」
「……それは……。まさか、後悔しているのか? 」
んー。そうね、最初はそうだったかもね。婚約解消については、結構あっさりと受け入れられたけど。
「だって、誰だって愛されて望まれた結婚をしたいと思うじゃない。でもベルったらちっともそんな素振りを見せないもの。仕方なく結婚したのかと思うじゃない」
「それは、お前が意地を張るから…テ」
「あら? 私が? いつ……」
確かに、ちょっと私の態度は頑なだったとは思うけど、だって、ベルトードだって結構天邪鬼だったと思うわ。本当、素直じゃないってこの事だったのね?後でお義母様に色々と伺わないといけないわね。
「「…………」」
お互いバツの悪い顔をして、四方に視線を逸らしていたのだけど、ベルトードは少し可笑しそうに笑いだした。なんて珍しい光景なのかしら。思わず目を見開いて、私はじっと彼を見つめてしまう。
「……俺達は昔から相変わらずだな。その、なんだ……とりあえず、新婚らしく目覚めの紅茶を飲む仲から始めないか? 」
「……貴方が淹れてくれるの? 」
「勿論だ。シルフィの為に美味い茶を淹れてやる」
「まあ、ふふっ。お手並み拝見と行こうじゃない」
そう言うと、ベルトードは自身の頭を片手で乱暴にがりがりと掻きながら、それでも何だか嬉しそうに口許に弧を描いて、いつもの台詞を言うのだ。
「本当、お前……意地っ張りも良い加減にしろよ? 」
それから、私達は結婚して初めてお互いの顔を合わせて笑い合ったのだった。
目覚めの紅茶を貴方と。 芹澤©️ @serizawadayo
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