解決しないループの話

楸白水

解決しないループの話

 「大切なものは失くしてから気付く」というのは遠い昔から幾世代にも語られてきた常套句だというのに、またこうして同じ過ちを繰り返す輩がいる。それは単に自分自身の身に起こらないと理解ができない馬鹿なのか、それとも「そんなこと自分がするはずない」という傲りから失敗するのか。

 とりあえず夜中のリビングで一人缶ビールを開ける俺自身がその馬鹿だというのは確かなことである。独りでじっとしていると耳鳴りがするほど静かになるので、こうして缶を勢いよく開けたり、炭酸の音に耳を傾けたり、ビールを一気飲みするときの喉の音を客観的に聞いていたりするのだ。

 本来なら二人いたはずのアパートに取り残されたまま、数時間が経とうとしている。どういうことなのか今回は本当に訳が分からない。そう、

 信じられないかもしれないが、俺はこの状況は二回目なのである。誰かにこの状況を説明したとしても疑われるだけだろう。しかし俺自身にもなぜこんなことが起こっているのか分からないのだからその疑いを晴らすことはできない。


 まずは一回目の話をしよう。

 俺は至って普通の会社員だった。そして高校の時から付き合い、同棲していた恋人がいた。仲も悪くはなかった。

 入社して数年がたったころ、俺は大きな仕事を成功させ昇進を果たした。社内でも一目置かれるようになったのだが、それがいけなかったのだ。名を上げれば当然皆から持て囃される。同僚も褒めたたえ、女子社員からのプライベートな誘いが増えた。

 俺は持て囃されるまま遊び歩き続けた。恋人との仲も冷え切ってしまった。なにせ急に複数の女性から注目されたのだから、天狗になっていたのだ。泣きすがる彼女を捨ててより若くて綺麗な子を選んだ。仕事も私事も栄えある未来だと確信してやまなかった。

 それからは見事な転落ぶりだった。持て囃されて天狗になった俺は、だんだんと人を見下し始めたのだった。「こいつらは俺より下だ」と腹の中で笑い、同僚に指示を下してゆく。そうなると彼らが面白く思わなくなるのは自然なことだった。些細な嫌がらせから始まり、陰口、無視、溜め息。思い起こせばいろいろあった。神経質になった俺は仕事にも行き詰り始めた。まあ昇進すればそれだけ責任や難易度が上がるのだから今までのようにはいかないのは仕方ない。ただ俺の場合、自業自得で孤立していたので誰も俺に救いの手を差し伸べるような奴はいなかった。仕事は行き詰まり、上司からも完全にお荷物扱いを受けてしまった。当然、新しい恋人は逃げて行った。

 どこから間違ってしまったのだろう。俺は頭を抱えて唸り続けていた。そもそもの話、俺はそんなにできた人間ではない。事の発端の仕事の成功だって、正直棚から牡丹餅のようなものだった。運が良かっただけで、自分は小さな人間だった。そのことを理解するのにここまで時間がかかってしまった。

 気が付けばスマホを取り出しかつての恋人の名前を検索していた。高校時代からずっと一緒にいたのだ。もしかしたらまだ独り身なのかもしれない。なにかすがる物が欲しくて検索ページを捲っていると彼女のSNSがヒットした。

 なんということだ。彼女は俺と別れた後すぐに他の男のものになっていたのだ。しかも同じ高校の同級生である。こいつ知ってる。俺は右手の震えが止まらなくなった。こんなみじめなことがあってたまるか。俺はスマホを地面に叩きつけた。丈夫な奴め、傷ひとつ付きやしない。

 どうしようもない後悔の念が押し寄せてきた。ああもうこの人生は詰んでしまった。やり直したい。頭の中にゲームオーバーの文字が浮かんだ。これがゲームだったらどんなに良かった事だろう。ぜひ直前の章まで戻りたいものだ、というところまで考えてあまりの馬鹿らしさに鼻で笑ってしまった。

「やり直したいですか」

 耳元で声がした。不自然な抑揚の機械みたいな声だった。ここには俺一人しかいないはずだ。案の定辺りを見回してみても何もない。とうとう幻聴まで聞こえる精神状態にまでなったか。本当に馬鹿なやつだな。しかしこうなったらやけだ、俺はあらん限りの声を出して意味不明な問いに答えてやった。

「ああ、もちろんやり直したいさ。やれるもんならな!」

「分かりました」

 何が分かったんだ!そう怒鳴る前に俺の意識はぷつりと途切れてしまっていた。



「ねえ、大丈夫?」

 なんだか懐かしい声と優しく俺を揺さぶる感触がする。ゆっくりと瞼を開けてみるとそこにはかつての恋人の姿があった。状況が呑み込めずただまばたきをすることしかできなかった。その間にも彼女は俺の顔を心配そうに覗き込んできた。

「急にどうしたの、目の前で倒れてるし。ねえ大丈夫なの」

 懐かしい、どうしてお前がここに。そういえば直前のあの機械音を思い出した。もしかして、本当にやりなおしたのか?

「なあ、今何日だっけ」

「え、と」

 二人は冷蔵庫横のカレンダーを同時に振り返った。日付は同じだが、西暦だけがやけに古い。いや、古いんじゃない。俺は戻ったんだ、あの日々に!

 何も言わずに力強く彼女を抱きしめた。彼女は戸惑いながら、ゆっくりと俺の背中に手を伸ばした。今度こそ、もう離さない。

 それからというもの、俺は今までの人生と全く違う道を歩んだ。もう背伸びをすることはやめにした。無理に大きな仕事は引き受けず、チャンスを凡才で受け流して平凡な平社員になった。身の丈に合わないことをしたから失敗したのだ。まだしばらくは昇進せずにその他大勢に埋没していたい。

 彼女にもこれ以上ないほど優しく振る舞った。最初からこういった人生を歩んでいればよかったのだ。これからは安定した人生を歩める。少し物足りないくらいでちょうどいい。彼女にも近々プロポーズをしよう。

 ……そう考えていた矢先だった。彼女が何の前触れもなくこのアパートから出て行った。「ごめんなさい」の書き置きだけを残して、荷物もひとつ残らずなくなっていた。俺が出張で家を空けた時を狙っていたのだろう。ずいぶんと計画的なことだ。

 俺は出張鞄を玄関に叩きつけた。畜生!何が間違っていたんだ。俺には何も分からない。今回は上手くやっていたはずだ。なのにどうしてこんなことになってしまっているんだ。

 ふとカレンダーを見た。そういえば、彼女を捨てたのはこんな寒い季節だったかもしれない。あの時と同じだ。俺たちは、何をしてもこの期間以上は恋人として続かないのか?どうやら訳の分からないまま今回の人生も詰んでしまったようだった。

 そして俺は冒頭の缶ビールを開け、胃に流し込むだけの生き物になってしまったのである。

「もう一度、やり直しますか」

 またあの声が聞こえてきた。ずいぶん親切な奴だ。もしかしたら、俺が望めば幾らでもやり直させてくれるのではないだろうか。

「そうだな、やり直したい」

 俺は迷わずそう答えた。

「なんであいつがいなくなったのか分からないが、もう失いたくないんだ」

「……分かりました」

 やけに長い沈黙の後そいつは苦々しげに返事をして、俺の意識は再びぷつりと途切れた。



 ……時計の針の音が響いている。今は何時で、何日だろう。

 ゆっくりと瞼を開けると、隣には彼女がいた。よかった。今回も無事に戻ってきたようだ。俺はのそのそと起きて、彼女にもたれかかった。彼女は動かなかった。

「なあ、今何日かな」

「カレンダーの見方も忘れちゃったの?」

 意地悪な声が降ってきた。そういやそうだ、振り返って確認すると、思った通り前回巻き戻った日と同じ数字が並んでいた。

 俺は彼女がそばにいるのが嬉しくてその手を握った。が、返ってきた反応は思っていたのと違うものだった。

「ねえ、いい加減にしてくれないかな」

「え、」

 驚いて彼女の顔を見ると、先ほどの声と同じくらい冷たいまなざしが俺を捕えていた。その瞳の奥は暗渠をたたえているかのように底が見えない。しかしそれさえも美しいと思ってしまうのは、彼女を愛しているからなのだろうか。

「私さ、君よりもっといい人を知っちゃったから。もういいんだよね。むしろ困っちゃうんだよ、とはあの日偶然会ったから、と結ばれるにはあの日じゃないとダメなんだよね」

「え、っと。何言って、」

「ああ、まだ分からない?」

 彼女は困った人を見るように眉をひそめて苦笑した。そして俺の耳元でささやいたのである。それは残酷で冷たく、けれど優しく甘美な響きを持って俺の脳内に直撃したのだった。


「巻き戻ってるのはさあ、君だけじゃあないんだよ」

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解決しないループの話 楸白水 @hisagi-hakusui

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