1. con brio:夜のカジノは活気を持って人々にゲームの合図をする
「ああもう、やめだ、やめ!今日は帰る!」
此処カジノ・ルッソリーニは、ヴェネツィアの中心地であるサン・マルコ広場の外れにある、とても豪勢なカジノだ。
毎日、大勢の人々がゲームを楽しみに来ている。
シャンデリアが輝き、ルーレットを転がす音やトランプのカードを切る音が響く。
そのとても広い部屋の一番隅にあるテーブルで、一人の男がルーレット用のチップをぐしゃぐしゃにして唸っていた。
先程までプレイしていたようだが、彼の手持ちを見る限り、盛大に負けたようだ。
「辞めろクウェート、ここはカジノなんだぞ?仕方ないだろう」
「五月蝿い!此処のルーレットはCheatだ、イカサマだ……。ジューンもそう思うだろ?」
「思わない、たまたま運が悪かっただけだろ…」
クウェート、と呼ばれた男はうがああ、と頭を抱えてテーブルに何度も頭を打ち付けた。打ち付けるたびにチップが跳ね上がる。
紺色のスーツを着ているが、ジャケットのボタンは開けており、サスペンダーでシャツとパンツを繋げている。
適当に止めたのか、ジャケットの袖のカフスは今にも取れそうだ。
「はあ……」
ジューン、と呼ばれた短髪の女はため息をつき、葉巻にライターで火をつけてクウェートに差し出した。
ジューンは黒いスーツを着こなし、スカートではなくパンツを履いている。白く細い首には、ダイヤモンドのネックレスが光っている。
彼女は一般女性に比べると、とてもスタイルが良い方だ。
「……?どうした、ジューン」
「とにかく落ち着け。今のままじゃ、帰った時大変だ」
「……そうだな。気が利くな」
クウェートは葉巻を受け取って咥え、煙を吐き出して暫く黙っていた。
ジューンは手帳を取り出し、ぱらぱらとページをめくっていた。
ゲームをプレイしていた客達は手を止め、珍しく静かな二人を、希少な絵画を見るように傍観し始めた。
二人共、黙っていればとても絵になるのだ。
淡い青のメッシュが入った金髪の美少年と、紫がかった黒髪の美女。
普段はカジノのジュークボックスミュージックに負けない程騒がしい二人(騒がしいのは基本クウェートだが)が黙ってルーレットのテーブルに座っているのだ。
誰もが振り向くのは当然の事だろう。
クウェートとジューンが暫く客達を魅了していると、彼らのテーブルに、カクテルグラスを拭きながら一人のウェイターが歩いてきた。
「お、今日も駄目だったのかい、クウェート」
「ビレーノ……。ここのルーレット毎回思うけどイカサマだろ。あのディーラー辞めさせろよ」
クウェートは彼を鋭い目付きで睨みつける。
「否、そんな事はありえない。そのテーブルでベットを積み上げていく奴だって山ほどいる。それに、彼は良いディーラーだ」
先程ビレーノと呼ばれたウェイターは、明るい金髪を、とても短く散髪し、清潔感を漂わせている。
声も落ち着きがあり、クウェートへの態度も慣れているようだ。
「俺は仕事の憂さ晴らしで来てんのによぉ……。こんなに毎日負けてたら、余計溜まっちまうぜ」
クウェートが大きくため息をつくと、葉巻の煙も一緒に大きく舞った。
「毎日って言ったって、二日目だろ。一昨日は10万積んで勝ってただろうが」
手帳を読んでいたジューンが顔を上げ、水を差す。
「あれはポーカーの席だ。ルーレットじゃない。それに10万じゃないぞ、100万だ」
「ああそうか」
ジューンはクウェートの話を軽く流し、また手帳に目を向けた。
クウェートの特技はトランプゲームだ。
テキサスホールデム、ブラックジャック。
彼と同じテーブルになった客が全員逃げ出す程のプレイをする事から、裏では「Devils Card player(悪魔のカードプレイヤー)」と呼ばれている。
「どの役で勝ったんだい?」
ビレーノがクウェートに問いかけると、クウェートはよくぞ聞いた、とでも言うような顔で答えた。
「そんなん一つに決まってんだろ。ロイヤルストレートフラッシュでチェックメイトだ」
「チェックメイトはチェス用語だろ……」
「うるせぇ!!!」
ジューンがすかさず口を挟み、クウェートは大声で怒鳴った。
ジューンは全く気にしていない。
クウェートが怒鳴るのは日常茶飯事だ。
「ところで、最近また新しいギャングがこの辺りを騒がせているらしいね」
「新しいギャングだぁ?」
ビレーノは、思い出したかのように二人に話した。
クウェートは下から見上げるようにビレーノに問いかけた。
「ああ。今はその話題で持ちきりだよ。何でも名前は……」
「名前なんてどうでもいい。ここら一体は俺たちのシマだ。ガキが粋がってんなら潰すだけだ」
クウェートはニヤリと笑い、葉巻を吹かせるのをやめた。
「でも、こんな時期にねぇ……。そいつら、私達のことは知らずに来たってことか?」
「……」
ジューンがビレーノに問いかけたが、ビレーノは黙々とグラスを拭いている。
「ビレーノ、お前何か知ってるな?」
クウェートはゆっくりと立ち上がり、にたつきながらビレーノに問いかけた。
スーツのパンツのポケットに両手を入れ、体を屈ませて首だけでビレーノを見上げる。
「さあ?私はしがないただのカクテルウェイターだからね。でも私は超能力者ではないから、聞いた話しか知らないよ」
ビレーノは、やはり飄々としている。
「……」
クウェートは黙ってルッソリーニを出て行こうとした。
「お、おいクウェート。勝手に行くのか?」
ジューンは、すかさずクウェートの腕を掴んだ。
「ボスに言っても意味ねぇだろ……。殺される、とか言って行かせてくれねぇよ」
「かと言って、勝手に行くのは流石に……」
「うるっせぇなぁ!黙ってついてこい!」
クウェートは癇癪を起こし始めていた。
こうなると、ジューンでも手がつけられなくなってしまう。
しかし今回は別なようだ。
「まあまあ落ち着きなよ、クウェート君。此処は他の客もいる。そんなに大声で、正体が明らかになってしまうことを言っていいのかい?」
ビレーノはクウェートの肩に手を置き、聞き分けの悪い子供を諭すように耳元で声をかけた。
「……チッ」
クウェートは舌打ちをすると、着ていたジャケットを無造作に脱いで肩に担ぎ、ビレーノの手を振り払って出口までずかずかと歩いて行ってしまった。
「……悪かったな、ビレーノ。今度はもっと、あいつの情緒が安定している時に来る」
「いやいや、いいよ。君も大変だね」
ジューンはビレーノに向かって小さく礼をすると、クウェートの後を追った。
「変わらないなあ、あの二人は……」
ビレーノは、両手を腰に当てて、笑いながら溜息をついた。
すると、遠くから別の従業員がビレーノを呼んだ。
「おーい、ビレーノ!あの席でディーラーやって来てくれないか?」
「あ、はい!わかりました」
ビレーノは、二人が出て行った事を確認すると、ブラックジャックのテーブルに駆けつけた。
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