「箱入り娘」
縁側紅茶
「箱入り娘」
踏切内の縁石に座っていた。
当然のように電車が迫ってくるが止まる様子も、僕を気にしている気配もない。
そのまま電車に轢かれる。体にその感触はないが、その現象に脳は少し混乱しているようで奇妙な感覚があった。
丁度1ヶ月前には僕はここで死んでいた。
縁石に座ったまま空を仰ぐ。生前見た青空より何倍も綺麗でとても心地の良い空だった。
△◯会社に勤めて10年、会社が不況により数年赤字が続き、各々の作業量と労働時間は増加して賃金は変わらないという状況になっていた。
元々好きなことを諦めて入った会社で、給料をもらっても一体何に使えばいいのか、一体何をやりたかったのか分からず働いていた。
そんな心理状態に労働環境の悪化が重なり、通勤途中の遮断機が下りた踏切を見て、ふと死のうと思って踏切内に飛び込んだ。
その後のことはよく覚えていないが、気付いたらこの何の思い入れもない踏切に魂ごと縛られていた。
いざ死んでみると何もすることがないというのもまた苦痛で、喋り相手がいないことにより孤独感も増していった。
生前は自分のことで精一杯で他人を気にする余裕は無かったから、久々にここを通る人間を見ているととても明るい気持ちになれた。
遮断機が下りてきた踏切内に大きな荷物を持ったお年寄りがまだ歩いていて、それを見かねた学生が荷物を持ってお年寄りを外まで出してあげている姿。踏切内を通る車両同士が譲り合い、大きな車両を先に行かせるドライバーの姿。通学中の学生達が会話をしながら無邪気な笑顔を見せている姿。
世界はこんなにも明るいのだなと思った。どうして自分には真っ暗なものとして見えていたのか不思議に思ったが、もう死んでいる身には関係ないと考えないようにした。
しかし、この小さな明るい世界にも時折暗い影が現れるのだった。
通学中の学生達の中で、他のグループよりも大勢の学生に囲まれた女学生がいた。
長い黒髪はとても手入れされているようで艶があり、風でなびく度に回りの学生が幸福そうな顔をしていた。化粧は禁止されているだろうが、できるだけ自然になるように今時の学生らしく多少の化粧はしているようだった。同世代の女の子から人気があるようで、ファッションや化粧の相談だけじゃなく、恋や勉強の相談にも乗ってあげているようで相当な人望のある子のようだった。
最初はただ綺麗な子だなという印象だったが、その日の深夜、部屋着と思われるラフな格好にメガネをかけ、長い髪でできるだけ顔を隠しながら踏切を通る女の子がいた。数十分後には逆方向からまたその女の子が現れた。しかし、先程とは違い両手に大きな買い物袋を持っていた。
次の日、また大勢の学生に囲まれた綺麗な女学生がここを通った。その時に深夜に見た女の子とこの綺麗な女学生が同一人物だということに気付いた。
僕はこの小さな世界の彼女しかみることができないが、朝夕の通学中、毎回大勢の学生に囲まれて会話している姿は幾度となく見たが、彼女の笑顔を見たことは無かった。夜も買い物だけじゃなく数時間後に帰ってくることもあり、あまり他人のことを考慮してこなかった僕でも何をしているか、どういう家庭環境なのか、彼女がどういう気持ちで生きているか多少想像がついた。
夜、遮断機が下りて電車が通るのを待っている時、彼女は電車に対して羨望のような眼差しをするのだった。
彼女の暗い部分に段々と惹かれていった僕は毎日彼女を見るのが1日の楽しみになっていた。
彼女を観察し続けて数週間経ったある日、朝夕と彼女だけが現れない日があった。体調が悪いだけかと思ったのだが、何日経っても彼女だけ現れない。一瞬嫌な予感が頭を過り、いつの間にか踏切内しか歩むことができなかった足が踏切の外に出ていた。
彼女を探すのに時間はかからなかった。徒歩10分もかからない近くの道路の縁石付近に多くの花が手向けられていた。
そのすぐ横に彼女は立っていた。
生きていた頃の若々しい紅潮した肌は、今は青白くなり少し老けた印象を受けた。
「私、死ぬのが怖かったんです。」
僕に気が付いていたのか、彼女は唐突に語り始めた。
「毎日毎日なんで生きているんだろうって考えて、死にたくなって、でも怖くて・・・。だからこの事故に巻き込まれる瞬間、すこし喜んじゃったんです。やっとこんな無意味な人生から解放されるんだって・・・。でも実際はそうじゃなかった。死んでもこうやってこの世界に留められて、何もできなくて、表面上だけ仲良くしてた友達が花を手向けてくれてるのを見ていることしかできなくて。
私は無になりたかったんです。こんな感情なんてものがあるからつらいんです。これなら生きていた方がまだ楽だった・・・。」
僕に返す言葉はない。彼女は慰めてほしいわけではないのだ。
「でも良かった。ようやく来てくれた。待ってたんですよ。私はどっちに行くんですか?できれば存在を消していただくのが一番良いんですけど、そんな要求通りませんよね。でもまずこの世界から抜け出せるのなら良いです。早くしてください。」
彼女は何か勘違いをしているようだった。
「ま、待ってくれ。落ち着いて話を聞いてほしい。僕は君が思っているような存在じゃない。僕も死んで霊になってしまったただの人間だ。」
彼女は少し驚き、そうですか。とひどく落胆した様子で虚空を見つめ始めた。
数分沈黙が流れた。
僕は彼女がいつ事故で亡くなったのか知らない。だから何日ここでただ立ち続けてきたのかも分からない。
そして自分以外の霊を初めて見たのだ。僕自身ひどく動揺していたが、考えるより早く彼女に話しかけていた。多分、死んでから誰とも会話をしていなかったから、という理由よりも別の理由で。
「ぼ、僕も同じような理由で・・・僕の場合は自殺だったんだけど。僕にもなんで霊になったか分からないんだ。この世に未練なんて無いはずなのに。」
彼女は虚空を見つめたままだ。まるで会話になっていない。
少しの間を置いて彼女が口を開いた。
「・・・他の方は、他の幽霊の方はいないんですか。」
「・・・僕以外の霊は君が初めてだよ。」
そうですか。と言いまた物思いにふける。
少なくとも会話をする意志はあるようだった。
「えっと、僕はもう何ヶ月も前に自殺して霊になってて、すぐそこの踏切なんだけど、あそこに地縛霊としてしばらくいたんだ。
何て言ったらいいのか分からないけど、僕も生きていた頃に人生に絶望して自殺したんだけど、死んで他人をよく見るようになったらこの世界がすごく綺麗なものに見えたんだ。あの踏切内だけの小さな世界だけど。」
彼女は眉一つ動かさない。
「でも君だけは違った。君もよくあの踏切通るよね。だからどうしても目についてしまうんだよ、君が夜な夜なあの踏切を通るのが。それ以来君のことがどうしても気になってしまって。あの小さな世界であそこまで暗い表情していたのは君だけなんだ。家庭環境までは分からないけど、相当な辛い環境にいることは想像できたよ。
だから助けてあげたかった、けど何もできなくて、君は死んでしまって・・・。だからその、何ていうか・・・ごめん。」
ここまでむちゃくちゃながらも言葉を紡いだのは、彼女を可哀想だと思ったからなのか、彼女ともっと話したいと思ったからなのかは自分でも分からなかった。
しかし僕の言葉はすぐ隣を走る車達の流れに乗ってどこかへ流れていったかのようだった。
僕に意識が戻ってきたのは辺りが暗くなってからだった。
言葉で詰まっていた思考をようやく動かす。
「・・・僕は、霊になったのには理由があると思う。」
彼女の気を引くために強い口調で切り出した。
それでも彼女は動かない。感情すらも地に縛られているかのようだった。
「死んでからずっと、なぜ僕だけしか霊がいないのか考えていたんだ。そして死んでから世界の明るい部分を知り···君を知ることができた。
だからこの世界は、生前人生を楽しむことができなかった人間に与えられる希望の世界なんじゃないかって、思ったんだ。
それも君が霊になってしまったことで確信を得た。すぐに切り替えるのは難しいと思う。けど、君は生前の縛りからは解放されたんだ。だからここではもっと好きに過ごしてもいいと思う。」
ここで初めて彼女が死んでしまったこと、霊になってしまったことに喜んでいる自分を知った。チクリとした罪悪感を感じたが、すぐに忘れた。
彼女の口が重そうに開く。
「好きに過ごせって言ったって、私は···死にたくて、何も感じたくなくて···。こんな所にいたくないんです。」
唇の震えから困惑と恐怖のようなものを感じた。
僕は自分でもなぜそこまで熱くなっているのか分からないほどに、彼女の気を引くのに、彼女を元気付けるのに夢中だった。
「でも今は君にそう思わせるものは無いんだよ。ここは明るい世界だよ。
生前、何かやりたいこと、好きなことは無かったの?」
「好きなことなんて···させてもらえなかったから分からない。」
「じゃあ···よくファッションに気を使っていたよね。服でも見に行こうか。」
「見に行くって、今からですか?」
「勿論。ここにいて良いことなんて無いよ。未だに生前のことを引きずる必要なんて無いんだよ。お金も時間も仕事も、君の親も、もう前の世界のことは僕たちには関係ないんだよ。
この世界を満喫しよう。そのために与えられたこの体だよ。」
でもと躊躇う彼女の手を握り歩き出す。体温は分からなかった。けど、久しぶりに人と触れることができて、まだ自分が存在しているのだと感じることができた。
彼女の足が動いたのを見て安心して、拙い歩き方でついてくる彼女を支えながらどの店へ行こうか考えていた。
この時の僕がこの世界に対して不安を感じていなかったはずがない。今思えば彼女を巻き込んでまで、不安を紛らわそうとしていたのかも知れない。彼女に話した言葉はそのまま自分が感じていた不安の裏返しだったのだ。
辺りからは人影が無くなり、電灯が僕らに道を示してくれているように街までポツポツと照らしている。
ゆっくりと時間が流れていく。生前久しく感じることがなかった完全な自由な時間。これから何をして過ごそうと考えてしまったが、僕たちを縛る時間は無いのだ。まだ考える必要はないだろうと思った。
この街で一番洒落ている通りへ来た。僕は一度も来る機会は無かったが、一度来ておけば良かったと後悔した。
中央には綺麗に手入れのされた背の低い木があり、コードで締められライトアップされていた。
店はモノクロ調のオシャレなカフェ、深い黒を基調とした店外にオレンジ色のライトを合わせ蠱惑的な雰囲気を醸し出している洋服屋などさまざまであり、つまりは生あるもの、人生を謳歌しているものの楽園だった。
あまり喋ろうとしなかった彼女が驚いたような表情で通りを見回していた。
「ごめん。僕はまだ踏切以外の場所に行ったことがなくて・・・。僕たちには少し場違いな場所だったかな。」
「ううん、大丈夫です。少し、見て回りましょうか。」
先程までの彼女からは予想できない返答だった。この空間にいる場違いな辛さよりも、彼女が少しでも喜んでくれたことの方が大きかった。
「そっか!じゃああそこの店なんてどうかな。綺麗なお洋服が飾ってあるよ。」
店内に入ると自然な立ち方でむかえるマネキンに、店内のモダンな雰囲気とオレンジのライトに照らされ、大人びた雰囲気を持った純白のブラウスにカーキ色の寸胴なパンツが履かされていた。
他にも木目のハンガーに僕には分からないタイプの小洒落た服がかけられていた。
彼女はいくつかのハンガーにかけられた服に興味を持ち、手に取ろうとしていたが服に触れることができていなかった。
彼女と過ごすことばかり考えてしまっていて、すっかり自分たちの状況を想定しているのを忘れていた。
僕の視線に気付いたのか彼女は目を伏せた。
「ごめん、こうなることは分かってたんだけど・・・。」
「大丈夫ですよ。今はこうしている方が楽ですし。」
つい1時間ほど前の彼女とは大きく違い、もう切り替え始めているようだった。僕が感じていた不安も彼女の取り繕ってくれた言葉で和らいだ気がした。
彼女はハンガーにかけられている洋服の後ろに回り、着ているかのように見せてきた。
「どうです?似合いますか?」
高校生には少し大人っぽい印象の服だったが、彼女にはとても似合っていた。彼女がもし生きていたら初デートで張り切ってこういう服を着ていきそうだなと微笑ましく思えた。
「うん、大人っぽく見えるよ。あっちの服も似合いそうだね。」
とマネキンに着せられている純白のブラウスを指差した。
彼女は少し嬉しそうな顔をして軽い足取りでマネキンへ向かい、マネキンに抱きつく形で服を見せてきた。
「私白い洋服大好きなんです。これすごく可愛いですね!」
彼女は幸せそうな顔をしていた。そこには多分の無理もあったが、それも含めとても愛らしい空間だった。
僕たちが感じているこの不安は今だけだと、すぐに慣れるとまだ思い込もうとしていた。
その後はいかにもな高級料理店のカウンター席でずっと料理している様子を見てもう久しく感じなかった空腹感を感じ、装飾品店を回り彼女が全身緑のご当地マスコットのキーホルダーに惹きつけられていて、女子高校生らしい趣向に微笑ましくなったり、閉店ギリギリの遊園地に忍びこんで彼女と遊具でひとしきり遊んだ。
その後は近くにあった観光客用のホテルの5階の空き室を勝手に借りた。
灯りは点けられていなかったが、カーテンは開けられていて月の明かりで部屋はとても明るかった。
彼女とは部屋を別々にしようかと提案したが、彼女自身がそれを断った。
今は少し疲れた様子でベッドに横たわっている。眠気はこないが、毎日眠る生活をしてきたせいで感覚が狂ってしまい、そのせいでさらに疲れているように見えた。
「今日は楽しかったね。君はここでゆっくり休んでると良いよ。僕も今日はここで過ごすから。」
「ありがとう。私は少し眠ろっかな。」
「そっか。おやすみなさい。」
「おやすみ。」
僕は少し外に出ることにした。
彼女とこれからどうしていくか、考えないようにしても頭の隅で少し考えてしまっていた。
今日の彼女は今までの印象とは違い、一段と明るく、少し触れるだけで崩れてしまいそうな不安定感があった。
彼女は本当にこの人生で満足なのか、それ以前に自分は本当にこの世界で幸福を手に入れるためだけに存在しているのか。考えていたが何かひっかかるものが心の奥底にあり、答えは出せなかった。
部屋に戻ると彼女は起きていた。
「一緒に眠ろう」そう言ってきた彼女に、僕は不思議と精神的動揺もなく静かにうんと答えた。
まるで愛娘が1人家を出てしまうような寂しさに襲われたが、できるだけ何も考えないようにしてベッドで過ごした。
眠れたのか眠れなかったのか分からない微妙な感覚のまま起き上がった。
外はもう明るくなっていた。外の景色を見ようと立ち上がった時、ベッドから一枚の紙切れが落ちた。
瞬間、嫌な予感が的中したような感覚が背筋に走った。紙切れを見る前に部屋を見回したが、いつの間にか彼女はいなくなっていた。
意を決して紙切れを見るとそこには、「あの場所で待っています。」とだけ書かれていた。
彼女が言うあの場所は、僕が思い付く限りでは一つだった。
走って彼女が縛られていたあの場所へ向かうと、
彼女はそこにいた。手向けられた花を見ながら何か決めたような、諦めたような複雑な表情をしていた。
「どうしたんだよこんな所に呼び出して。もう過去は関係ないって言ったばかりだろう?」
彼女は驚いた様子もなくこちらへ向いた。
悲しい、揺るぎないものを感じさせる目だった。
「私、やっぱりここでも生きていくのは辛いです。得体の知れない不安感に押しつぶされそうになるんです。どうしても暗い考えがやめられないんです。
そうして考えているうちに少し気付いてしまったことがあるんです。」
心臓が過剰に動き始める。思考の奥深くで気付いていたが、無意識に気づかないようにしまっていた核心について彼女は語ろうとしているのだった。
「私はあなたのせいでこの世界にいるんじゃないかって。」
驚くことはなかった。
霊になった彼女に会った瞬間から感じていた不安感だったのだ。
そんな不可思議なことがあるものかと気付かない振りをしていたが、自分自身不可思議な存在なのだ。そんなことがあっても何ら不思議じゃない。
だからこうなることは必然だったのだと思う。
「原因は分かると思いますけど、私に好意を抱いた・・・からだと思います。だから、どうか私を忘れてください。私を助けてください。」
心からの嘆願だった。彼女を救おうといくつかの行動を起こしてきたがどれも無意味だった。本当に助けられるのがこんなことでとは思いもよらなかった。知らず何か途轍もない罪を犯してしまっていたような、測り知れない罪悪感と無力感を感じていた。
しかし、忘れることで彼女が消えるわけではないのだ。恐らく、彼女をここに留めているのは自分のせいなのだと認識するだけで彼女はあるべき場所へ戻ることができるのだ。同時にこの世界は無くなるだろう、そういった確信があった。
「大丈夫だよ、この世界はもうすぐ消える。
ごめんね、こんなことに巻き込んでしまって・・・。身の丈に合わない幸せに憧れてしまったかな・・・。」
「・・・でも、楽しかったですよ。違う場所で出会いたかった。」
「そうだね。出会う場所が悪かった。互いに運命に恵まれなかったね。」
確実に何かで結ばれていることを感じながらも、その距離はあまりにも遠くて、無理矢理出会ってしまったせいでからまって上手くいかなかった。
目に見えるものが白く消えていく。
僕らは黙ってその様子を見ていた。
思考が死んでいく。
幸福よりも長く一緒にいた暗いものに僕は安堵していた。
深い暗いものへと落ちていく。思考が途切れる寸前、ありがとうと聞こえた気がした。
「箱入り娘」 縁側紅茶 @ERG_Engawa
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