第72目 大好き
転人の言葉とともに、世界は終わりと始まりをむかえる。
“彼女”を包む世界の黒が、転人に渦巻く世界の彩と入れ替わる。
黒い世界が消え、白い世界が現れる。
それは一瞬のことで、誰にも観測することができなかった。
転人も三儀も、『DOG』も『DARK』も、なにも目にすることはなかった。
もしかしたら、なにも起きていなかったのかもしれない。
神の
ただそれでも、世界は終わり、そして始まっていた。
気がつけばそこには、ただ闇が晴れ、崩れた壁の向こうから、
その中で、三儀はただ転人の胸の中で、大粒の涙を流し続けていた。
ただ声をあげて、ただあふれ出る感情すべてを吐き出し続けていた。
今までおさえ続けてきた弱音となげきの数々が、
転人はそんな三儀の頭を、ただ優しくなで続けていた。
ひとしきり泣き疲れて。
涙を流し枯れつくして。
そこには、つかの間の静かな世界があった。
三儀は立ちあがって、居住まいを正すと、少し恥ずかしげに笑みをこぼした。
転人も同じように立ちあがり、笑顔を返す。
ふたりは、ゆっくりと入り口とは逆方向――玉座のほうへと歩いていく。
崩れた壁の向こう――眼下に広がる日常を眺めるためだ。
あと少しというところで、転人は
その身体を、すかさず三儀は支える。
転人はうながされるままに、近くのほどよい塊の上に腰を落ち着けた。
偶然にもそこは、あれだけの闘いの中でも
転人は、玉座の背に、反対側から体重をあずける。
三儀は、そんな転人に向かい合うように、彼の目の前まで歩く。
「――転人さん」
「待て、謝るのはなしだ。謝ってもらうことはなにもない」
「でも」
「むしろ謝らなくちゃいけないのはこっちのほうだ。すべてを押しつけてきたのは、俺たちなんだ。三儀は、ずっと闘い続けてきたじゃないか」
「じゃあせめて、これだけは言わせてください。本当に、ありがとうございました。私を――いえ、私たちを救い出してくださり、心の底から感謝しています」
そう言い終わってから、三儀は深く腰を曲げ、小さな手をひざのほうまで目一杯まっすぐに伸ばし、頭をゆっくりと降ろす。
そこからぱっと身体を起こし、笑顔を作る。
あれだけ涙を流したというのに、三儀はまた泣きそうな目をしていた。
「これで……すべて終わったんですね」
「ああ、終わったんだ」
ふたりで外界を見る。
昇る日の光で、街並みが色づき始めていた。
「失ってしまったものは、数え切れないほどたくさんあります。でも、それも終わりです。奪われる日々は過ぎ去ったんです。
……ようやく、なげくことができます、悲しむことができます、向き合うことができます。もしかしたら、後ろを向いてしまうこともあるのかもしれません。けれど、これからはもうひとりじゃない、そうですね?」
三儀は希望に満ちた顔で、転人のほうをふり向く。
「ああ、……そのとおりだ」
転人は、三儀のほうへと笑顔を向けてはいたが、その目は、およそ未来へとは向けられていなかった。
「――どうしたんですか? どこか痛むところでも……」
三儀は転人の姿をよくよく見る。
ぐったりとした手のその先から、小さな黒ずみが生えてきているのが見えた。
それは段々と大きくなり、すぐに転人の手のひらは真っ黒に染まった。
それは、明らかに『DARK』によって作られた黒だった。
「――どうして……!? 世界から『DARK』は消えたんじゃ……」
黒に
目は見開かれ、さっきまでとは違った潤みを帯びていた。
「確かに、この世界から『DARK』は消えた。だからこそ、今は俺の中にいるんだ。逆転したのは、闇に浸食された世界と、ここにあった俺の世界だ。闇に侵食された世界には、あいかわらず『DARK』はいて、あいかわらず闇に閉ざされている」
「…………!」
外の世界に、どんな影響が出ているのかはわからない。
ただ、『DARK』の影響は、もう外の世界にはなかった。
それはすべて、転人がひとりで背負っていた。
「もともと三儀だって、『DARK』を甘んじて受け入れて、自分のなかに押さえこもうとしていたんだ。同じことをしようとしてるだけだよ。
でも俺は、三儀のような才能はない。俺にできることなんてたかが知れてる。だから三儀と同じことができれば、少しくらいは誉めてもらえるんじゃないかな」
「誉められるわけがないでしょう!」
「『DARK』は人間にどうこうできるものじゃないから……だから俺が背負ったまま消えるのが一番なんだ。これは、白主にはできなかったことで、三儀にはさせられないことだ」
「だからって、転人さんがすべきことではありません! 転人さんがしていいことでは、ないんです!」
転人の手を這いあがっていく黒を、三儀は爪を立てて必死にくいとめようとする。
血が滲むのもおかまいなしに、三儀は力をこめていく。
しかし黒は、転人の手を離そうとはしなかった。
それはもう、誰にもとめることができないものだった。
「それじゃあ……私はなんのために闘ってきたんですか……! ようやく……ようやく転人さんに甘えられたのに、……私は、どうやって生きていけばいいんですか……、またひとりで……!」
「もうひとりじゃない。三儀の願いをすべて叶えることはできなかったのかもしれないけど、それでも叶ったことはあるはずだ。三儀は十分にやったんだ。ずっと闘い続けてきた三儀だからこそ、これからはもっとわがままを言って、もっと叶えていけばいい」
「ダメです――そんなのダメです。それなら私はわがままを言います。転人さんがいないと、私はイヤです」
「――そう言ってもらえるだけで、俺は幸せだ」
「そうやって、諦めないでください、……すぐに諦めるのが、転人さんの、悪いところです」
そうだな、と転人は微笑む。
その言葉の寂しさに、三儀は震えるしかなかった。
「……そろそろ離してくれないか?」
「イヤです、離しません!」
「痛いって」
「絶対離しません、離れません!」
「仕方ないな――」
転人は『WING』を降る。
目が釘づけになってしまうほどの神々しい光が大きく伸び、一対の羽となった。
その羽は、三儀のもとへと降りていき、背中にとまった。
「三儀……ありがとう。三儀がいなかったら、俺はずっと『
俺は三儀と出会えて、三儀と過ごせて、三儀と一緒に生きられて、本当に幸せだった。だから……自分が自分でなくなるような、そんな最後のときには、一緒にいたくないんだ」
「そんなの――そんな言葉……聞きたくない!」
三儀はしかし、耳を塞ぐことができなかった。
もし塞ぐために手を離してしまったら、もう二度とその手をつかむことができないと、三儀はわかっていた。
今にも崩れてしまいそうな儚いつながりだったとしても、それでも、三儀は決して離したくはなかった。
三儀の身体が宙に浮く。
三儀の意志をそこに残して、崩れた壁の向こう側へと飛んでいこうとする。
それにあらがいながら、三儀はありったけの力で、転人の手を握る。
たぐりよせるように、その手を懸命に伸ばす。
「転人さん!」
「三儀――」
ふたりの手は確かにお互いをつないでいた。
だが、それが、だんだんと、滑るように解かれていく。
転人は、三儀の気持ちが痛いほどわかっていた。
だからこそ。
うつむいてはいけない。
なげいてはいけない。
涙を流してはいけない。
ようやくつかんだ大切なものを、つなぎとめてはいけない。
暖かな日の光が差しこんでくる。
三儀の顔を、その目を、転人は見る。
転人の顔を、その目を、三儀は見た。
お互いの指先が触れ合い、そして離れていく。
ふたりの距離が遠ざかっていく。
「――転人さん、大好きです」
三儀は、白い羽に導かれ、ゆっくりと、きらめく世界へと降りていった。
ようやく取り戻した日常へと、帰っていった。
「――三儀……俺……」
続く言葉を、転人は口にできなかった。
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