第6話 商帝国
帝国丞相・箕子はラーメンを食べている。
左手で、見事な装飾が施され丁寧に焼かれた土器の器を持ちあげ、右手に美しい繊細な装飾の施された箸をもち、うまそうにちゅるちゅると音を立てて麺を吸い上げている。
中国では、三千年ほど前の遺跡から、底に麺のこびりついた土器が発掘されている。およそ三千年前から、穀物を練り上げて麺状にして食べやすくする調理法が存在したことが、これで証明されたことになる。さらに別のところから、今で言うチャーシューが発見されている。すなわち肉を加工して、長期保存可能な状態にする調理法もあったのだ。
あと無いのは、シナチクとネギくらいなものだが、まあそれくらいはどこかにあったであろう。ということでこの時代、箕子が旨そうにラーメンを食べていても、なんら不思議はない。
箕子は麺を食べ終わると、これもうまそうにスープをすすった。
スープを飲みほすと、口をぬぐって言った。
「旨い・・・。李芳、そなたの作るラーメンはまことに絶品である。」
「丞相様にそのようにおっしゃっていただけることで、私は満足でございます。」
そばに控えていた、李芳と呼ばれた中年の料理人は、満足げに答えた。
「なんの。お前のような料理人がいて、このように旨い食事を作り、私がそれを食べる。まこと、このように世の中とは幸福を味わえるように出来ている。」
箕子は満足げに小さなげっぷをした。
商帝国はその建国以来、すでに六百年を経ようとしていた。その配下にある諸侯は、その数三千と称され、中華と呼ばれている当時の東アジア文明世界のほとんどを、その版図に収めている。
帝国は繁栄をきわめ、王を頂点に政務の執行者である丞相をその下におき、帝国の体制は盤石の重きを呈していた。
箕子は傍らに控えていた秘書官の方を向いた。
「これから少し昼寝をする。その後、殿中に赴いて午後の執務にかかるが、誰か面会予定の者はいたかな。」
秘書官は挙手の礼をして答えた。
「面会の者はおりません。書類の決裁のみでございます。」
箕子は、殿中の執務机のわきに山と積まれた書類を思い出していた。丸く巻かれた木簡が、まるで薪の山のように机のわきに積み上がっている。秘書官がこれも薪を火にくべるかのように、箕子の机の上に次々と広げていく。
しかし、どのような大量の書類であっても、箕子がそれにひるんだことは無かった。
兄である今上を補佐する帝国丞相として勤め、はや三十年となる。兄王は政治に熱心では無かった。弟の丞相箕子が政治に関心が大なることを幸いに、箕子に任せきりにして、みずからは政治を顧みることはない。
それが三十年間、箕子は政治家としてみずからの思うままに、この商の政治を動かしてこれた理由である。
そして今、兄王は病の床に会った。
箕子は昼寝のために立ち上がろうとした。そこに別の秘書官が入ってきた。
「丞相様。紂様の乳母と、御世話係の亮様がおいででございます。」
箕子はふたたび腰を下ろし、通せと命じた。
太った乳母と、髪のまっ白な老臣が入ってきた。
老臣は挙手の礼をして言った。
「丞相様。紂様のご様子をご報告に参りました。」
紂は王太子である。今上の王の嫡子であり、今年二十歳になろうとしている。兄王も紂を後継者に指名し、箕子は兄からその旨告げられ、自分同様よく補佐してくれるようにと命ぜられていたのだ。
箕子はこの乳母と世話係の老臣に、時折、その紂の様子を報告せよと命じてあったのだ。
白髪の老臣は続ける。
「紂様のご様子はまことにご健啖。お体には何の不安もございません。日々勉学と武術にはげまれ。その成長ぶりは私めもただただ驚くばかり。」
箕子は黙ってうなずいた。
乳母が話を引き取って続けた。
「しかも紂様の信仰の篤いことは、まことに頭の下がることでございます。日々の礼拝も怠りなく行われ、そのそつの無さは、あるいは今上以上かと存じまする。」
乳母は精いっぱいの笑顔を作って言った。今上の王と比べるのは不敬ともいえる発言だったが、箕子は気付かないふりをした。
「礼拝を欠かさないか・・・。」
箕子は深く思い込む表情で呟いた。
箕子の様子に、乳母は自分の宣伝文句が足りなかったかと思い、あわてて付け加えた。
「まことに紂様の礼拝の、古式に則りそつの無いことは、わたくしもただただ感心いたすばかりでございます。
先日も、礼拝のための生贄が不足していることにぬかりなく注意をなされ、新しい生贄を用意するよう、お命じになられたのでございます。」
商はその守護神を信仰するため、生贄を必要とする。
商では自らの社稷で、建国以来600年にわたって自らの神を敬ってきた。神は鬼神と呼ばれている。どうして鬼の神などと呼ばれるのか誰もわからない。箕子ですら正確なところは知らない。とにかく古くからそう呼ばれていた。
鬼神は個人の名前なのか、それとも複数の神々の総称なのかすら、誰にもわからない。もっともこれは宗教上の教義に属することだ。神の正体を知ろうとしてわかるものでもないのだが。しかしおそらく天上界にいる複数の神々の総称なのだろう、・・・くらいに人々は考えてきた。
この時代、神は現代宗教の神のように人間を愛したりはしていない。気まぐれに飢饉や水害など天災をもたらし、無造作におびただしい人間を殺す凶暴な神である。だからこそ人々は神を「鬼の神」、鬼神と呼んで恐れたのだろう。
鬼神にそうされたからと言って、人々は神に怒ったり、ましてや罰することなどできない。人々に出来ることは、ただ祈りを捧げ、その機嫌をとりむすぶことだけである。
商はもともと中華の外からやってきた外来の遊牧民族で、前王朝の夏を倒してこの国を建国した。
遊牧民族なので古くから生贄の慣習があり、人々は家族同然に大切にしていた家畜を、鬼神の機嫌をとりむすぶため、生贄として神に捧げていたのである。
ある時期、商帝国全土にわたって旱魃が続いた。
商は国をあげて雨乞いの儀式を行うこととし、生贄をささげることになった。しかし人々から異論が巻き起こった。
「どうして家族も同然の家畜を殺さなければならないのか。まして、今はわずかに生き残った家畜を生贄にすれば、生活が成り立たない。
それよりも生きていても仕方がない奴らがいる。罪人だ。罪人を生贄とせよ。」
この声にこたえて罪人を生贄にした。すると旱魃はぴたりと止んだ。
鬼神は人の血を悦んだ。
人々はそう考えた。そしてこれ以降、罪人が生贄として使われるようになった。こうなるとよくあることだが、だんだんにエスカレートしていき、大きな儀式ともなれば、おびただしい数の罪人が生贄として捧げられ、血が流されるようになっていった。
箕子の時代になると、大規模な祭礼の際には千人もの生贄が鬼神に捧げられるようになり、生贄の確保が深刻な問題になっているほどである。
しかしそうそう罪人もいるものではない。罪人が足らないからといって、微罪の者まで生贄にするのには抵抗がある。
そこで商帝国に服属しない周辺民族の人間を、生贄にすることにしたのである。商に服属しないということは、それだけで十分罪であると言える。蛮族だと思えば、憐憫の感情もあまり湧いてもこない。
そして商による壮絶な人狩りが行われるようになった。
当時の商帝国は東アジアの文明世界のほとんどを、その版図に組み入れているといってよかった。周辺には文明レベルの低い、いわば蛮族が暮らしている。彼らは商の高度な文明に憧れ、進んで商の版図に入るものもいたが、大部分は商の支配を潔しとせず、独立を保っていた。
商の支配を拒む。それだけで重大な国家的犯罪とみなすことが出来た。
そこで人狩りの軍団を送り、支配を拒む者たちを文字通り狩るのである。そして捕獲したおびただしい人間たちを、生贄として鬼神に捧げるのであった。
箕子は少しもの思いにふける表情になった。
「紂は信仰心が篤いか・・・。」
つぶやくように箕子はひとりごちた。
多くの商の人々は、はるか昔から人間を生贄に捧げる慣習があるものと考え、これがいつから始まったのか、どのような理由で行われるようになったのか、ほとんど知らない。しかし箕子は丞相だけあって、ここまでの歴史的経緯を把握している。
さらに箕子は、実はこの生贄の儀式が、人民にすこぶる評判が悪いことも承知していた。
いかに罪人とはいえ、またどれほど鬼神がそれを悦ぼうとも、大勢の人間を虐殺することを嬉しがる人間などそうそういるものではない。箕子が警戒しているのは、その虐殺に対する嫌悪が、商帝国そのものへの反感へと変化することであった。
神事という名目で行われる虐殺が、商の権威を損ない、それが商帝国の礎をゆるがすことになるかもしれない。箕子は敏感にそう感じていた。
これまで箕子は丞相の権限により、儀式の簡略化という名目で、生贄の人数を減らす努力をしてきた。しかしいかに政治に倦んでいるとはいえ、兄王は儀式を疎かにしていると受け取られかねない簡略化には反対であった。また兄と弟という立場も、箕子から王に強く進言しにくくしていた。
だが紂が王になれば、叔父と甥の関係である。紂には強く言えるだろう。箕子は紂が王になれば、簡略化どころか生贄の廃止を進言するつもりであった。
しかし、その紂が鬼神への儀式に熱心とは・・・。
箕子は乳母と老臣に言った。
「紂太子はどこにいる。会ってみたい。」
太公望伝奇 くりはらまさき @kurihara-kurihara
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