恋人関係


ローレンス・バレンシア。

バレンシア公国第3公子。煌めく金糸と花緑青色の瞳が特徴的な美丈夫である。彼の性質を一言で表すのなら、清廉潔白。決して愛想を振り撒くような性格ではないが、勉強熱心で義理堅い。真摯な姿勢は国民からの信頼も厚い。


「まあなんと…できた殿方なことでしょうね…」


調書を見ながらエリはため息を吐く。これ以上ないほど清らかな経歴を前に、一瞬、別人のそれを読んでいるのかと疑ったのだ。


(そう、わたくしは知っているのです…!)


エリは知っている。表向きは善良な公子の仮面を被ってはいるが、彼は弱味に付け込んで人を奴隷のように扱う極悪人であることを。


「この戦いを制さねば勝ち目はない…」


エリが支度を整える。彼女の手にはローレンスの顔写真が貼られた呪いの藁人形。願掛けの為に彼女が作ったものであるが、少々自己流で製作した為に人形の体には『殺』の字が踊り、釘を刺した跡があちこちにある。本来の使い方はされていないが、確かに殺意は伝わってくる一品である。


そしてエリのメイド服の下には数々の暗器。全てローレンスを抹殺するために仕込んだものである。必ずや彼を打ち破ると、その胸に誓いも抱いて。勝者となり、自由と栄光を掴むのだ。


「ローレンス様…。いざ…わたくしの夢の為、死んでいただきます!」


幼少の頃よりエリの夢は『しあわせなおよめさん』であった。






エリ・サカキ。

東方の武術家、サカキ家の出身。黒い瞳と黒い髪を持つ、東洋人である。護衛業や狩猟業を経て第2公女、シャーロットの従者となる。


「ああなんと…できた女性であることか…」


調書を見ながら、ローレンスはため息をついた。


(シャーロット姉上の見る目は厳しい…)


城付きのメイド職は人気がある。数多のメイド候補の中から選ばれた彼女達は、それだけで既に一般人とは一線を画していると言っても過言ではない。実際のエリの起用理由はシャーロットが嫌う家庭教師のカツラを吹っ飛ばしたからなのだが、当然ながらローレンスがそのような事実を知ることはなかった。


「この戦いを制さねば勝ち目はない…」


ローレンスの執務机の上には、大量の本が積まれている。恋愛指南書に、ギデオンから参考になればと借りたオペラの原作。全てエリを落とすために仕入れたものである。必ずや恋人となり、幸福と愛を掴むのだ。


「エリ…。いざ…俺の愛を受け入れてもらう…!」






「紅茶でございます…」

「…ああ。ありがとう」


さて、真意は異なるが目標は互いに焦点を当てたふたりは、ローレンスの執務室にて互いの出方を探っていた。


「……」


エリが棚を拭きながら、ちらりと背後の主人に視線を配る。花緑青色の瞳が目に入り、慌てて首を戻した。


(くっ…!隙がない…!)


エリの背中を一筋の汗が伝った。

ここしばらくローレンスに一撃を入れる機会を窺っているのだが、一体どうして隙がない。彼の意識は常にエリの方を向いていて、気の緩み、その一切がないからだ。


(ローレンス様の実力は、一通り剣術を習った程度だと聞いていますが…やはりあれは嘘…!)


主人が使用人を注視することなどそうは無い。こちらの殺気を読み取り警戒しているのだ、エリはそう判断した。そして隠した彼女の殺気を読み取るとは、相当の武道の心得がある筈だ。けれどローレンスが武人としての強さ、その片鱗を見せることはない。何故なら彼は武人ではないから、この一言に尽きるのだが、こちらを油断させ攻撃を誘っているのだと、エリは判断した。


(手が、出せない…!)


もう一度視線を配れば、ローレンスが静かに紅茶に口を付けるところであった。敵が淹れた茶を平気で飲むとは、こちらの心情もお見通しなのであろう。

暗殺を行おうとはしているが、そもそも彼女は武人である。毒で勝負をつけるなどもっての他。どうにかして隙を見つけ出し、この手で屠らねばならない。それを見透かした上で、ローレンスは挑発をしているのだ。


(一体…どうすれば…!?)


途方もない相手を敵にしてしまったのではないかーーーエリは畏れからくる指先の震えを何とか抑え、服の上から例の呪い人形に触れた。


「……」


そんな隙のない熱視線を浴びせながら、ローレンスは感慨を覚えていた。彼の頭を占めたのはただひとつ。


(なんて美しいんだ…。エリ…!)


黒瑪瑙のような瞳はくるくると動き、つややかな髪は天使の輪のように煌めいている。つんと小ぶりな鼻などまたなんとも愛らしい。


(何と…眼福であることか…)


彼女の姿をぴったり視界に入れながら、彼が感嘆のため息を吐く。一歩間違えば逮捕される寸前のことをしているローレンスだが、恋心は止まらない。この為に今日は先に業務を終わらせたのだ。心行くまでエリを見つめることができる。


(いや、見つめるだけではダメなんだ…)


ローレンスがふと我に返った。震える手でカップを持ち、紅茶を飲む。

そう、見つめているだけでは事態は何も好転しないのだ。指南書にも、何がなんでもまずは話しかけるところから始めなければならないと記載されていた。彼の恋を叶える為には、エリと距離を縮めなくてはならない。


「……」


(声が…出ない…!)

しかしながら彼の口が、発声を行うことはなかった。


そう、ローレンスはこれが初恋。初恋である。25年の生涯で初めて抱いたこの感情は、彼にとってひどく持て余すものであった。緊張のあまり彼女の名を呼ぶことさえ儘ならない。気軽な世間話など彼にとっては高等技術。できる訳がなかった。


(一体…どうすれば…!?)


こうしてエリがローレンス専属のメイドとなってから早1週間、ふたりの主従関係は膠着状態が続いている。


((このままでは…まずい…!!))


目的は違えどふたりが抱いた感情は同一であった。何とか事態を動かさなければならない。そして先に動いたのはエリの方であった。


「…ローレンス様」

「なんだ…?」


名を呼ばれ一瞬ローレンスの心臓が跳ね上がるが、それをおくびにも出さずに彼は静かに答えた。エリは真剣な表情で、彼の元まで歩み寄ってきた。


「見ていただきたいものが、あるのです…」


そう言ってエリが取り出したのは、例の呪いの藁人形。『殺』と禍々しい漢字が踊り、ぼろぼろに痛め付けられた、ローレンスの顔写真が貼られた問題の品である。


「っ…!?」


写真の男は、それを見つめながら信じられないといった面持ちでエリに視線を移した。


「君はここまで、俺のことを…?」

「ええ。それを、認めますわ…」


エリの口が弁解や言い訳を並べることはなかった。そう、殺意は既に悟られている。ならばここは腹をくくり、正々堂々命を頂戴すると宣言をすべきだ。


「貴方様がいけないのですよ…。私の気持ちを知った上で、従者に就けなど…飼い殺しになぞなさるから!」


そう言ってエリが彼を睨み付ける。彼女の言う「気持ち」は殺意であるし、弱味に付け込む彼の所業を「飼い殺し」と呼んだのだ。


「…そうか」


だがしかし、ローレンスの受け取り方は違う。彼は思った。


(そうか…エリ。君は、俺のことが好きだったのか…!)


さて。考えてみれば当然の話なのだが、ローレンスは『殺』の字を読むことができなかった。いくら勉強熱心な彼と言えど、遠く小さな島国の言語、しかもこのように物騒極まりない単語を知っているはずがなかったのだ。


であれば、これは何か。男の写真がついた人形を肌身離さず持ち歩くその理由。それはずばり恋である。

そう、ローレンスは浮かれていた。端から見れば相当気味の悪い藁人形も東洋特有の恋のおまじないかなぐらいに思っていたし、ボロボロである理由も長年愛用している故であると都合の良い解釈をした。毎晩抱いて寝てくれているのではないかと、ちょっとえっちな期待さえ抱いた。


『貴方様がいけないのですよ…。私の気持ちを知った上で、従者に就けなど…飼い殺しになぞなさるから!』


そこへ来てこの台詞。

ローレンスはこのオペラを知っている。ギデオンに借りた書物のひとつで読んだ。メイドと主人の身分差のある悲恋物語である。好意を抱き長年恋慕を募らせていた男主人からの突然の指名。諦めなければならない恋だと自分の心を納得させていたにも関わらず、距離が近くなったことで抑えられなくなる恋心。お互い惹かれ合う状況下での残酷なすれ違いに周りの目、最終幕は主人の為に自死を選択するメイドーーー。


(くっ…!)


ローレンスの頭の中でそのメイドとエリは完全に一致した。そしてエリの中で飼い殺しなどと表現するほど、ローレンスに対するその愛は深いのだと認識した。

実際に深いのは殺意なのだが、そのことに彼が気がつく筈がなかった。


(このままでは…エリが死ぬ…!)


実際に殺されかけているのはローレンスなのだが、気が付く筈がない。彼は使命感に似た焦燥を抱いた。


(俺も男だ!惚れた女性がここまで言っているのに、突き放す選択肢があるだろうか…?否!男を見せろローレンス!)


エリを前にすれば緊張で口が動かないなどと、言ってはいられない。ローレンスの頭は警鐘を鳴らす。彼女は勇気を出してこの告白を行ったのだ。ならば黙っていて良い道理などあるわけがない。


「エリ…」


そう腹をくくったローレンスは、エリをまっすぐに見据え口を開いた。


「生涯を共にする前提で、どうか聞いてほしい…」

「っ…!」


エリがごくりと息を呑む。この時彼女の心を支配したのは焦り。もちろん思慕を抱く男性から名前を呼ばれたときめきなどではなく、脅迫を前にした恐怖の感情である。


(あの事件をバラされたくなければ、一生…奴隷でいろと…!?)


事態は確かに動いた。良くも悪くも確かに。

殺意は伝えた。準備もした。ならばやるべきことはただひとつ。


「っ…!」


(やるしかない!)

覚悟を決め、ローレンスの懐に踏み込む。潜ませた小刀を手に繰り出すのは、一族随一とまで謳われた神速の早業。

(いざ、推して参る!)


「な…っ!?」


ところが彼女の小刀は空を切った。狙っていた頭は既に眼下に。

(避けられた…!けれど!)

瞬時に突き出そうとしたエリの左手は、ローレンスに掴まれた。


「っ…!?」

「エリ」


床に片膝をつき跪いたローレンスは、彼女の手を取っていた。黒い瞳をじっと見て、オペラの主人公さながら愛を囁く。


「俺と、交際をしては貰えないだろうか…?」


残念ながら、エリの耳にローレンスの一世一代の告白が届くことはなかった。彼女は自身の左手を包み込んだその手に、衝撃を受けていたのだ。


(第2の攻撃も防がれた…とは…!)


右手の初手を避けられた場合、息さえつかせぬ速度で次の攻撃を繰り出す手法がエリの得意とする闘い方であった。女性で力の出力が足りないぶんをスピードで補う、彼女が類い稀な修練の末に身に染み込ませた戦法である。

だがしかし、それを繰り出す前に完全に防がれた。まるで最初から一度に2手が来ると分かっていたかのように鮮やかに。


「驚くのも当然だろう。君を知ってから日が浅い俺を、どうか許してほしい」

「っ…!」


ローレンスの言葉に息を呑む。事前に調べられていた訳ではないと言うことか。

(この方は、わたくしの技を初見で…見破った…!)


「だが、あの時から俺の心は決まっているんだ!」


ローレンスの熱い愛の言葉も、エリには届かない。彼女を包むのは絶望と敗北感。そして尊敬に近い驚嘆であった。


(あの事件で…わたくしがこの方の奴隷になることは、決まっていたことなのですね…!)


そう、彼女は誰よりもよく理解している。今すぐに煮るなり焼くなりされても文句は言えまい。敗北者には死あるのみ。それこそが絶対的な事実なのだ。

エリは息を吐いて、心の片隅にあった夢を捨てる。そして静かに口にした。


勝者貴方様の…望みのままに」


敗北者として、降伏の言葉を。




バレンシア公国。沿岸部に位置する、人口5万人ほどの小規模の国である。主要産業は農業。セドリック・バレンシア公を元首に据えた都市国家である。敷地面積の大半が手付かずの大自然に囲まれ、それを体現するかのように、国民性は穏和で懐が深いことが特徴だ。


そんなのどかな国の城内で、今まさに甘く幸福に満ちた夢が叶おうとしているとは、城の者はおろか、当のエリでさえ気が付いてはいなかったのである。

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