第27話マイナスの葛藤

誰かがドアをどんどんと叩く音がする。

「開けなさい!学校行かないと勉強わからなくなっちゃうでしょう!」

と叫ぶ母の声がした。

「ちぇッ,うるせえな,ばばあ」

とつぶやくと,頭にすっぽりとかけ布団を被って目をつぶった。

 入学以来,無遅刻無欠席だったのだ。

今日一日くらいズル休みしたっていいじゃないか。

 それに,こんな頭じゃあ外に出られやしない。

中山一は鏡の中の,ずたずたに髪を刈られた無様な少女とにらめっこした。

ふつうのはさみで切ったせいで毛先が痛んで色々な方向に短い髪がはねて

ぼさぼさになっている。足元には大量の長い髪が散らばったままだ。

 昨夜一睡もできなかったので頭が重い。

けれども眠ろうとしても,昨日のいやな出来事が頭から離れない。

 昨日の放課後,学校を出て一人で歩いていると,

突然キキーッという耳をつんざくような音を立てて

背後で自転車が急ブレーキをかけて止まった。

何事かと驚いた中山が後ろを振り返ると,

自転車に乗っていた男子高校生がいきなり,

「ギャーッ!」とこの世のものとは思われない,気味の悪い叫び声を上げた。

「髪の長い女が歩いていたから

 わざわざ自転車停めたのに,すげえブスじゃねえか!」

と,下品などら声で絶叫したのである。

(何だ。このクソ野郎!)

 中山の胸に激しい怒りがメラメラと燃え上がった。

相手のぶくぶく太った体を見ると,さらに腹が立った。

「テメエなんか,猪八戒じゃねえか!死んじまえ!豚!

 貴様のような面でよくもそんなふざけたことがいえたもんだ!」

と叫びたかったが,髪を立たたせてピアスをした凶暴そうな顔つきの男に

そんなことを言ったら何をされるかわからないと思い,こらえた。

 目つきがおかしいから頭がいかれていて,

ひょっとしたら,刃物を隠し持っているかもしれない。

小学生のころ,ブスだのゴリラだの汚いだのと言いながら

執拗につけまわしてきた同級生の男を軽くはたいたら,

角膜が傷つくまで殴られたことがあった。

それ以来何か言われてもじっとがまんするようにしている。

 しかし何の落ち度もないのに

見ず知らずの男からあまりにも侮辱的なことを言われたので

中山は不愉快でたまらなかった。

(あいつ,うちの学校の高等部の制服を着ていたけど,

 誰だかわかったら殺してやりたい。)

と本気で考えた。

もしピストルをもっていたらその場で射殺していたかもしれなかった。

やり場のない怒りを抱えたまま帰宅した中山は,

自室に入るなり,そこにあるものを手当たり次第に破壊した。

 テレビの液晶画面を拳で叩き壊し,ノートパソコンも粉々に叩き割った。

電気スタンドを床に打ち付けると,蛍光灯が粉々になって砕け散った。

クローゼットを開けると,中に吊り下がっている服をはさみで刻んだ。

窓にかかっていたオーダーカーテンをカッターでずたずたに切り裂き,

さっきのクズ男の顔を憎しみとともに思い浮かべながら,まぬけな顔の太った

クマのぬいぐるみの腹にカッターの刃を何度も何度も突き刺した。

「クソッ!バカにするんじゃねえ!殺してやる!」

と狂ったように叫び続けた。

 そのうち,刺しているのがぬいぐるみのクマの腹ではなく,

さっきの憎らしい男のたるんだ腹を刺しているつもりになって余計興奮した。

 すべてを破壊し尽してしまうと,

はさみで胸下まであるつややかな長い髪を,

鏡も見ないでザクザクと切り落とした。

よく人からほめられた美しい髪だったが,小学生のころ,

「顔はきれいじゃないのに髪だけはきれいね」と意地が悪い女子に

いやみを言われたことがあったのを思い出して余計に苛立った。

 その日,中山は夕食もとらず,ふろにも入らずに部屋に閉じこもった。

ドアに鍵をかけ,母親や兄,弟がドアを叩いて名前を呼んだが無視した。


 時計は九時を指している。とっくに学校が始まっている時間だ。

「だるいし,今日は休んじゃおうっと」

と中山は呟いた。

「でも休んでる間に山野に大河クンを盗られたらどうしよう」

 昨日小林からかかってきた電話の内容が頭の隅にひっかかっていた。

昨日の夜10時ころ,かばんの中にある携帯電話がけたたましく鳴り始めた。

誰とも口をききたくない気分だった中山は無視していたが,

電話は執拗に鳴り続けた。仕方なく,

はい。もしもし」とぶっきらぼうな口調で言いながら電話に出ると,

「大変だよ!山野の奴,大河君盗ろうとしてるよ。」

といきなり小林がまくしたてた。

「えっ,なんなのいきなり。」と中山が困惑しているのもかまわずに

「今日そうじの時間に山野がわざわざ大河クンの机を運んだって

 男子から聞いたよ。他にも机がたくさんあるのに,

 誰にも渡すまいとしっかり抱えこんでたんだって。

 大河クンを絶対モノにしてみせるって豪語してたんだって!」 

 中山は動揺したが,山野しずくが大河を相手にしていなかった

のを思い出してそのことを指摘すると,

「だまされちゃだめだよ。あんな風に冷たくするのは男を夢中に

 させるための作戦だよ。あの女すごい男好きだって聞いたよ。

 気をつけたほうがいいよ。あいつ調子に乗ってるから

 シメてやった方がいいよ」

というなり,電話は切れた。 

(どうしよう。大河君はかっこいいから山野の奴,気が変わったのかもしれない。

 まさかあの女と両思いになるなんて。あの女と私じゃ勝ち目がない。)

と思うと涙があふれた。

(私があんな顔だったら,もっと楽しい人生を送ってこれたはずなのに)

 中山はしずくの美しい顔立ちを思いうかべた。

薄茶色の大きな目を濃くて長い睫毛が縁取っている。

鼻筋が通った細くて形のいい鼻,真っ赤な唇。透き通るように白い肌。

 それに比べて,自分はなんでこんなに醜いのだろう。

集合写真の中でひときわ目立つほど黒い肌に

脂肪が分厚く,垂れ下がった瞼のせいで陰険そうに見える小さな目。

分厚い唇。あぐらをかいた鼻。

 子供の頃から背が高いこともコンプレックスのひとつだった。

背の順で並ぶと一番後ろになるのがいやでたまらなかった。

親戚の集まりにいくと必ず,

「こんなに色が黒くてかわいそう。お母さんに似ていれば

 美人になったのに残念だね。」

とため息をつかれた。母親は小柄で清楚な美人で,

そのおかげで資産家の長男で

会社を経営している羽振りのよい父と結婚できたのだ。

おまけに兄や弟は,母親に似て色が白く,端正な容貌だったので中山は

独りだけ父親に似て醜く生まれた自分の運の悪さを呪った。

 

「こんなにブサイクな顔で生きていくのがいやになった」

と絶叫してベランダの手すりを乗り越えようとして親に

取り押さえられたことすらあった。


 しずくが大河と手をつないで笑いさざめきながら

歩いている光景を想像して中山はうなり声をあげた。

(ああいう女は小さいころからちやほやされていい思いばっかり

してきたに違いない。存在自体が許せない!罰してやる!)

 中山は,おもちゃ箱の中から,薄茶の髪と目に白い肌の,

しずくに容貌が似た人形を取り出すと,胸にぐさりとはさみを突き刺した。

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