第15話母親の本音

 その夜とうとう母は帰ってこなかった。しずくはまたうとうととまどろみ始め,


やがて深い眠りに落ちていった。今度は夢も何も見ない,真の眠りだった。


 翌朝になると熱は37.5℃に下がっていたのでほっとした。夕べ飲んだ頓服


が効いたらしい。以前由紀がかぜをひいたとき病院でもらった残りである。


しかし頭の痛みとのどが焼けるように痛むのでつらかった。


学校には「熱が出たので今日学校休みます。」と自分で電話をかけた。


(ズル疑われたりしなかっただろうか)と不安だったが


自分のしわ枯れた声を聞いたら本当にかぜをひいているのが


わかるだろうと思い直した。


 起き上がると這うように近所の小さな医院に診てもらいに行った。


平日なのでそれほど込んでおらず三十分もしないうちに呼ばれた。


一週間分の風邪薬をもらうとよぼよぼと歩いて帰った。


 帰りにドラッグストアの前を通ると,自分の学校の制服を着た女子が二人,


入口に積んである箱の前で怪しい動きをしていた。


しずくは彼女らに見えないよう駐車場に止まっている車の陰に体を隠して


よく観察することにした。


彼女らは澄ました顔で屋外に陳列されているばんそうこうの箱や綿棒を


かばんの中にどんどん放り込んでいた。


「何あれ!泥棒じゃん!しかもうちの学校の生徒!?」


 しずくは目の前で堂々と行われる犯罪に呆然とした。


(こんな時間に制服でうろうろしてるなんてさぼりだな。)


そのとき午前10時だった。


二人のうち一人がきょろきょろとあたりを見回したので


はっきり顔が見えた。それは同じクラスの女子だった。


(アイツ,こないだわたしのブレザー踏んでニヤニヤしてた奴だ。


 くせ毛でショートカットだから鈴木未央に間違いない。


 もう一人の顔はよく見えないけど栗色の髪と背格好からして


 二人組のもう一人の方,横山真央だな。


 あいつら手慣れてるな。たぶん何度か同じことをしてつかまらなかったんで


 味をしめたんだろう。近いうちにまた同じことをするだろうな。)


 万引きは現行犯でないと捕まらないのを知っていたが二人が


常習犯だということは明白で同じ店で犯行をくりかえすことは


すぐに予想がついた。


 家に帰るとさっそくしずくはドラッグストアに電話をかけた。


自分の見たことをぶちまけ,今後また同じことをするだろうから


注意して見張っているようにと言い,二人の実名と学校名を教えた。


「もしもしそちらのお名前を教えてください」


と相手は言ったが答えずにしずくはがちゃんと電話を切った。


 夕方になってやっと母が家に帰って来た。これまで散々裏切られてきたのに


もしかしたらやさしくしてもらえるかもしれないという


淡い望みを捨てることはできなかった。


「昨日からすごい熱が出て大変なの。今日は一人で病院に行ってきたよ」


とかすれた声でいうとしずくは激しくせき込んだ。


まさか心配してくれるだろうと思った。


 すると母は大づくりであまり整っているとは言い難い顔をゆがめて


「こっち向いて咳しないでよ!


 今会社でとても大事なプロジェクトに取り組んでいるのに


 あんたの風邪がうつったらどうするの。あっちへ行ってよ!」


と金切り声を上げた。


「自分の娘が苦しんでいるのにそんな言い方することないでしょう!」


としずくは激昂して叫んだ。


「なんだって?えらそうに。こっちは具合が悪くてもがまんして


 出張にだって行ったことだってあるんだ。ちょっと熱出したくらいで


 いちいち大げさに騒ぎ立てるんじゃないよ」


「仕事,仕事って,そんなにいばることないじゃない。


 母さんはいつも疲れた,疲れた,辞めたいって言って八つ当たりしてくるけど


 もうがまんできない。そんないやなら仕事やめちゃえばいいのに」


としずくが言い返すと母は見る見るうちに顔色を変え,罵倒し始めた。


「誰のおかげで飯食ってると思ってるんだ!


 おまえと由紀にいいものを買ってやったり広いうちを建ててやったり


 するために一生けん命働いてるのにおまえは感謝もしない!


 大体おまえが私立に行けたのも,わたしが働いてるからだ。


 お父さんの安月給じゃとてもじゃないけど私立なんて行けないよ。


 この恩知らず!あのとき由紀じゃなくてあんたが轢かれて死ねばよかったんだ!


  大体由紀が死んだのはあんたに責任があるんだからねっ!


 由紀の方が明るくておまえなんかよりもずっといい子だったよ。


 おまえなんか生まれてこなければよかったのに!」


 あまりの残酷な言葉にしずくはわっと泣き出し自分の部屋に逃げ込んだ。


(ひどい。ひどすぎる。聞かなければよかった。


 あれが母さんの本当の気持ちなんだ。)


 あまりの大きな衝撃に胸が締め付けられるようだった。


(ワーワー鳴き声を出したらよけい怒られる)


しずくは枕に顔を押しつけて声を殺して泣いた。


(母さんは何も言ってこなかったけど


 わたしが由紀を死なせたと思って憎んでいたんだ)


 しずくの母は死んでしまってこの世にいない末娘のことを多少美化していた。


(母さんがわたしより由紀の方を好きなのは知っていた。


 由紀はのびのびとわがまま放題にふるまってもゆるされるのに


 わたしには厳しくて失敗することは許されず

 

恐怖と緊張で息苦しかった。とくに落ち度もないのに荒探しされたこともある。


 由紀はもうこの世にいないけど母さんは今でも由紀の方が好きだ。


 生きているときから由紀には勝てなかったけど死んでからも同じだ)

 

 しばらく泣き続けた後,母に対する怒りがしずくの胸に


ふつふつとわき上がってきた。


特に金を稼いでいるといって威張り散らす母の言動にはがまんならないと


しずくは思った。


(わたしはぜいたくなんてしなくてもふつうに生きていければそれでいいのに。


 自分の意志でガツガツ働いてストレスを娘に向けるなんて最悪だ)


 しずくは調度や建物の豪華さになど注意を払わないたちだったし


 おまけに感謝しろと頭ごなしに言われるのは不愉快だった。


(母さんは物を買ってやればいいと思ってるみたいだけど


 仕事ばかりでほとんど家にいなかったじゃないか。


 もっといっしょにいて遊んでほしかった。


 でもそんなこと言ったって聞いてくれるわけない)


 またしてもしずくの心にはやりばのない怒りが蓄積されていったのだった。



 山野家のすんでいる家は広くて近所でも目だつ三階建ての立派な家だった。


しかし分不相応にこんな大きな家を建てたせいで


家族みんな節約を強いられ,母親の給料の大半がローンの返済に消えていた。


母は父と不仲で父の力を借りず独力で家を買うのだと息巻いて


いた。事実大部分は母が出資し父は50万円払ったに過ぎなかった。


土地は祖父が購入したもので新たに買わずに済んだが,


それでも重い負担にはかわりなく,仕事のストレスと


経済的な問題で母はいつもいらいらしていた。


 母はいい家に住むことにこだわったが


おしゃれにも相当こだわっていた。ところが娘の


しずくは着るものにもあまり関心がなく


母が大枚をはたいて買った新しい服には見向きもせず


着なれた古びた服を着続け母を嘆かせたものだった。


一方で要領のいい妹は母が買ってくると


「すごい!ママってセンスいいね!」


などとわざとらしい声で素直に喜ぶふりをし,不平は陰で言った。


「本当いうとママってセンス悪いと思うよ。時代遅れではずかしいよ。


 自分ではいいと思い込んでいるみたいだけど。


 デザイナー志望だったなんて笑っちゃう。」


と本音を姉にぶちまけてきた。


幼い頃からしずくは華美な衣装で身を飾り立てることは心底嫌いだった。


そういう気持ちを母にぶつけたこともあったが頭ごなしに


否定し理解してくれなかった。


母が選ぶ装飾過多な値段の張る子供服は


色,デザイン共に皆しずくの好みを丸無視していた。


しずくは服を少しでもシンプルにしようと


はさみで花かざりを取ったり,安全ピンで胸元にとめるブローチを取り去って


母に怒られたことが何度もあった。その上母が選ぶのはいつも同じ色だった。


「またピンクの服!?たまには違う色の服も買ってよ」


と言ったが聞き入れてもらえなかった。母親が服を買ってくるたびに


激しい口論となった。


中学に入った頃,まだ子供服を着せられることに対する


不満をしずくが漏らしたところ,


「うるさい!文句言うなら自分の小遣いから買え!」


と母親は激昂し,それからは一切何も買ってくれなくなった。


月三千円の小遣いでは選択肢がほとんどなくしずくは安い粗悪な服を着ていた。


それをみて母は「安っぽい」とか「センスが悪い」となじり,けんかになった。


 また夏休みなど長期休暇の度に泊りがけの旅行に連れていかれるのも


しずくにとっては苦痛だった。乗物に酔いやすいものあったが


慣れない場所,知らない場所に行くと緊張しすぎて


楽しむどころではなかった。帰ってからも


1週間あまり後まで疲労が残ってつらかった。


「移動するだけですごく疲れるんだよ。旅行なんてきらい。


 せっかくの休みなんだから家でのんびりしたいよ。私だけ留守番させて」


と訴えると


「旅行が嫌いだなんておまえはおかしい」


とさんざん罵倒されたあげく無理に連れていかれたものだった。


一方で妹の由紀はアウトドア派だったのでいつでも大はしゃぎだった。


 じっとしているといろいろといやな思い出がよみ返り


しずくは気がめいってしまった。


ベッドにごろりと仰向けに体を横たえると五分もたたないうちに眠りについた。


夜中,しずくは目を覚ました。のどがかわいて息苦しかった。


寝返りを打とうとしたが体がまったく動かないのでしずくは不安に駆られた。


右肩の上に何か重いものがのっていることに気づき,ふりはらおうとしたが


指一本動かすことすらできなかった。


姿勢を変えることができないまましばらくじっとしていたが


体にひどいしびれを感じた。それは耐え難い苦しみだった。


恐怖のあまり助けを呼ぼうとしたが声が出なかった。


(苦しい!動けない!逃げられない!助けて!)


としずくは心の中で叫んでいた。


 すると反対側から銀色の細長い腕が自分の方に,にゅうっと伸びてくるのが


見え,その直後しずくは気を失った。

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